石造りの私塾が、夜に多数の人間を迎え入れるのは、建物の本来の建造目的であった、市街拡張の作業員の宿泊所として使われていたとき以来であろう。それ以降、『ウルスラグナ』の訪問までは、ほぼ毎日、金髪の青年アルケミストただ一人を住人として抱えていたのである。
古い建物には精霊が宿るという伝説があるが、私塾に精霊が宿っていたとしたら(築年月は『精霊が宿る』とされるには程遠いのだが)、はたして、夜も賑やかになったことを歓迎するだろうか。それとも、うるさくなったと眉根をしかめるだろうか。
ただ、この日の深夜には、新たな住人達は精霊の眠りを邪魔するほどではなくなった。結局、翌朝からの冒険に備えて身体を休めることを選んだわけだ。
ほとんどの者はベッドに潜り込み、すでに安らかな寝息を立てている。
しかし、幾人かは、何かしらの用事のために、あるいは、興奮して寝付けずに、未だに起きていたのである。
例えば、レンジャー・ナジク。
昼間から飽きもせずに手入れしていた弓を、またも丹念に点検しながら、未だ見ぬ樹海に思いを馳せていた。
美しい緑の樹海。その奥底には危険が潜む。いかなる宝石も敵わぬような輝きを放つ木々の影に、鋭い死光をまとう牙や爪が潜んでいる。エトリア樹海を経験した者達でさえ、半数が戻らないという、翠の魔境。
その魔境が孕む危険から、仲間達を護るのが、ナジクの願いであり、誓いだった。
――冒険者ギルド『ウルスラグナ』は、エトリアを救った英雄である。
どういうわけか、ハイ・ラガードにはそんな噂が流布している。
実情を鑑みれば、あまりにもおかしい噂であった。『ウルスラグナ』は樹海の真実を暴き、そのためにエトリアの前長ヴィズルを屠り、樹海の真の支配者といえる魔物フォレスト・セルを制し、その結果、エトリア樹海は人間に対して固く閉ざされた。
樹海に依存したエトリアにとっては、『ウルスラグナ』の行為は、迷惑以外の何物でもなかったはずだ。それでも、次代の長オレルスを始めとする街の人々は、『ウルスラグナ』を樹海踏破の英雄と褒め称え、一言も責めることなく、新たな冒険に送り出したのだ。
余談を差し挟むと、その噂の真意を、『ウルスラグナ』は近い将来に知ることになる。
だが、真意を未だ知らぬ今ですら、ナジクは、その噂が真実であると知っていた。
何故なら、『ウルスラグナ』が樹海を踏破し、最奥に潜む魔を制しなければ――その魔と、その魔に魅せられたナジクの手によって、あるいはエトリアの街は、『樹海の侵略者』の巣窟として完膚無きまでに破壊されていたかもしれないから。
力を求めた自分の迂闊な行動によって、この世から消え去っていたかもしれない、エトリアの街。
ゆえに、フォレスト・セルを制した『ウルスラグナ』は、真に『エトリアの救い手』であることに間違いないのだ。
本当なら、『エトリアの救い手』の中に居続ける資格などないはずの、自分。
そんな自分がそれでも『ウルスラグナ』に居続けるのは、仲間達に恩を返すため。
取り返しのつかない行為を行った自分を、それでも懸命に引き戻してくれた、かけがえのない仲間達を、全身全霊を込めてサポートするため。
だから、エルナクハが自分を指名してくれた時は、とても嬉しかったのだ。他の皆を差し置いて自分でいいのか、という不安も同時に抱いたが、自分が必要とされている、という事実が喜ばしかった。
静かな湖面のようなまなざしに決意の光を秘め、点検を終えた弓に弦を張る。張りの強さが程よいことを確認し、ナジクは目を細めた。
弓と名が付く武器は、ナジクが生まれた頃から、慣れ親しんだもの。
これからの樹海探索でも、レンジャーの腕として、大きな役に立つだろう。
明日は、否、明後日以降も、この生命賭しても、必ずや皆を護る。
ナジクは改めて誓いを新たにするのであった。
例えば、カースメーカー・パラス。
自分が選んだ個室で、ベッドの上に横たわりながら、その手に広げるのは、冒険者ギルドで受け取った手紙。
『王冠』と共に『ウルスラグナ』全体に宛てられたものではなく、パラス個人に送られたものであった。
ギルド全体に宛てられた方は、エトリア正聖騎士としてのものだったためか、羊皮紙に綴られていたが、パラスが手にしているのは、もっと気軽に使うことができる漉紙に記されている。統轄本部で受け取った際にもちゃんと読んだのだが、今この時、パラスは再び手紙に目を通していた。
手紙の内容自体は、こういう時に送られる定番の文章、ありきたりとも言えるものだった。だが、内容が定番だからといって、それが冷める理由になるだろうか。心の奥底からの心配と配慮を込めて綴られた文字は、目の前で差し出し主が語っているような錯覚を伴って、パラスの心に染みこんでいった。
「えへへ……」
文末まで読んだのに、またも文頭に視線が戻る。まるで恋文をもらった乙女のような体たらくである。
自然と口元が緩み、独り言が漏れる。
「もう、つまらないことでもいいから、毎日くれないかなぁ、手紙。お姉ちゃんは待ってるからね」
とは言うものの、自分の方から毎日手紙を書く気はない。面倒くさいからだ。
同時に、相手側も毎日手紙を書く余裕などない、というのは、わかっている。エトリアは長らく続いた樹海依存の政策を捨て、転換を行わなければいけない時にある。そんな時に執政院に採用されたパラディンが、忙しくないはずがない。ただでさえ人手不足だと聞いている。
だから、パラスの自分勝手な望みは、あくまでも希望に過ぎない。
過ぎないのだが、でもやっぱり、そうなってほしいと思う。
「ま、しばらくは仕方ないかな」
よっ、とつぶやきながら、両足を振り上げ、振り下ろした反動で上半身を起こす。ベッドの傍の小さな机に置いてある封筒を取り上げ、その中に、手紙をしまい込んだ。
大事に大事に、折るべきでないところが折れてしまわないように、ゆっくりと。
そして、例えば、パラディン・エルナクハと、アルケミスト・センノルレ。
私塾に滞在するにあたって、『ウルスラグナ』一同は、好きな部屋を一人一つずつ選んだのだが、ここに例外がある。夫婦である二人は、一つの部屋を共に使うことにしたのであった。個室はそんなに広くはないが、寝て起きて多少のことをするには充分である。
石造りの壁は案外厚く、扉もかなり頑丈だったため、締め切ってしまえば音もほとんど通さない。仮に夜通し嬌声を上げても仲間達には気付かれないだろう。もちろん、今はそんなことはしない。夫は樹海探索の前に体力を消耗するわけにもいかないし、なにより妻は身重なのである。だから夫婦はそっと寄り添い、指先は髪や頬を撫で合う程度。それでも心は充分に温まるのだった。
「――エルナクハ、ひとつだけ、忠告しておきます」
このひとときには似つかわしくない、固い言葉を、しかし、かつてエトリア樹海に挑み始めた頃からすれば信じられないほど柔らかな声で、センノルレは吐き出した。
「忠告?」
エルナクハは、その時妻の髪を撫でていた手を止め、まじまじと、今は眼鏡越しではない妻の濃紺の瞳を見つめた。
「むやみやたらに突っ走るなとか、引き際を考えろとか、おやつは三エンまでとか、か?」
「それもそうですけれど――いえ! おやつの値段はどうでもいいことですがっ!」
きいっ、と叫ばんばかりにまくし立てた後、センノルレは元の落ち着きを取り戻し、話を続けた。
「食事時に出たデザート――」
「『アイスクリーム』か。旨かったな、アレ。前時代人はあんなのいつも食えてたんかな。ユースケがちょっとうらやましいぜ」
「ええ、美味しかったですが、話はそこじゃありません」
ぴしゃり、とたしなめ、女錬金術師はさらに話を続ける。
「あれを作るための壷がありましたでしょう。あれを準備するのを、わたくしも手伝ったのです」
「……ああ、術式に使う触媒を利用してるんだっけか。なら別に変な話じゃねぇな」
「忠告は、その触媒のことです」
生徒に指南する女教師のような面持ちで――事実、彼女は数日の休みを経て女教師になるのだが――センノルレは断言した。
「エルナクハ、触媒を扱っていて思ったのですが、どうもハイ・ラガード産の触媒は使いづらい――いえ、あるいは、エトリア産の触媒があまりに使いやすすぎたのかもしれません」
「探索に響くほどに、か?」
「多少は」
エルナクハの問いに、センノルレは、こっくりと頷く。
「わたくしたち錬金術師は、術式を発動するために、錬金籠手に仕込んだ触媒を反応させる。けれど、その制御は籠手にお任せというわけにはいきません。貴方たち前衛の戦士たちが必殺の一撃に気力をつぎ込むように、わたくしたちは籠手の制御に気力を使います。精神集中を妨げられるようなことがあれば、制御がうまくできず、術式も発動できません。――そこまではいいですね?」
「あ、ああ」
夫は先程の妻同様に、こくんと頷いた。
センノルレは、少しだけまなざしを緩めて、話を再開する。
「結構たいへんな籠手の制御ですが、それでもエトリアの触媒を使うのは、今にして思えば楽でしたのですよ。多少、制御を間違えても、それなりには発動できました。けれどハイ・ラガードの触媒は少々気むずかしい。エトリアの触媒よりも注意を払って制御しなくてはなりません。だから、エトリアでのわたくしと同じつもりでフィプトを当てにすると、痛い目を見るかもしれません」
「ん……うむ……」
エルナクハは、わかったようなわからないような顔をする。
「えーと、つまり、エトリアと同じようなつもりでぽんぽんと錬金術を使わせるなってことか?」
「平たく言えば。ある種の切り札と思っておいた方がいいでしょう。もちろん、出し惜しみしすぎた切り札が役に立たないのはいうまでもありませんが」
「おいおい、カードゲームみたいなこと言ってくれるなよ」
とエルナクハは苦笑いする。駆け引きが苦手な彼は、『切り札』の使いどころを掴めず、そういうものが付き物のゲームにしょっちゅうボロ負けしていたことを思い出したのである。まぐれが奇跡を引き起こさない限りは、ゲームで彼に勝てないのはティレンくらいだ。
エルナクハ自身の名誉のために書き添えておけば、駆け引きの下手さはあくまでも卓上ゲームの時だけであり、戦場での部隊運用は及第点をもらえる程度にはこなせる。大得意といえるほどではないにせよ。それに、騎士団所属時には、卓上ゲームの下手さも、ある意味では彼の武器であった。気持ちいいほどにボロ負けし、観念して大笑いしながら掛け金を差し出す、竹を一息に十六分割するような性格のエルナクハを、極端に嫌う者はいなかったのだ。文字通り百花繚乱というべき個性の『百華騎士団』の中にあって、それはなかなかに得難い状況だったに違いない。
話がずれたが、ハイ・ラガードでの錬金術が、エトリア以上に気安く使えるものではないらしいことは、わかった。
だが、センノルレの言うとおり、切り札として有用であることは変わらない。下手なカードゲームに興じる青年としてではなく、部下を指揮する聖騎士としての思考で、エルナクハは思った。新たな樹海で真っ先に自分達を手荒く歓迎してくれるのが、普通の森にいてもそんなに違和感のない小動物だとしたら、属性攻撃に耐性のなかろう彼らとの戦いの決め手として、錬金術は助けになる。――入り口も入り口で、属性の効かない竜やら何やらが蠢いていたら、笑うしかない。
「とにかく、わかった」
と、黒い肌のパラディンは、妻の背にそっと腕を回しながら、頷いた。
「センセイは樹海初心者でもあるしな、気ぃ回す必要はある。忠告は聞いておくよ」
「聞き流すだけでは駄目ですよ。しっかり、頭に留めておいてください」
「わかってるわかってる」
気のない返事に聞こえなくもないが、生死に直結しかねないことを軽んじるほど、エルナクハは無謀ではないつもりでいる。『錬金術の運用には注意すること』という情報をしかと脳裏に刻み込む。
そしてもうひとつ。魂に刻み込んだことがある。
それは、目の前の黒髪の錬金術師の顔。
自分が樹海の中で死んだらどうなるのだろう。妻の顔はどのように変わるのだろうか。エトリアでいくつものギルドの壊滅を見、辛うじて生き残った者達の悲嘆の顔を見てきたが、そのことごとくを思い出して妻の顔に当てはめてみても、どうもしっくりこない。
つまりは妻の顔が変わらぬように、無事に戻ってくればいい。結論だけなら簡単な話である。
ゆえにエルナクハは自らの魂に妻の顔を刻み込んだ。泣き顔ではなく、かといって、想像してみてやっぱりしっくり来なかった満面の笑みでもない。たった今、目の前にある、どことなく冷ややかさを思わせながらも、目元に柔らかさが漂う、素の彼女の表情を。
もしも樹海で慢心しかけ、あるいは恐怖に駆られたとしても、この顔を思い出せば、そうそう道を踏み外しはするまい。
「……どうしました、エルナクハ?」
じっと見つめる夫に軽い不審を感じたか、センノルレが問う。
「なんでもねーよ」
エルナクハは照れ隠しに顔を背けた。しかし妻の背に回るその腕は力を増し、センノルレの華奢な身体を己の逞しい胸板に押し付ける。
「痛いです、エル」
「……あ、ああ、すまん」
抗議を受けて腕の力を緩めはしたが、それ以上離そうとはしない。魂の刻印はまだ足りぬ、と言わんばかりに。
事実、ほのかな体温をまともに受け止めた瞬間、足りない、と思ったのだ。刻むものは、妻の顔だけでは不十分だった。だが何が足りないのかがわからず、しばらくは押し黙って、自分とセンノルレの鼓動を聞き流すに留まる。
――あ、そうか。そうだよな。
不意に悟ったのは、その鼓動が自分と妻のもの以外にも余分に聞こえた気がしたからだった。エルナクハは空いた手を妻の下半身に伸ばす。センノルレが一瞬硬直したが、エルナクハが触れたのは、敏感なところではなく、少しだけ膨れた腹部であった。
「オマエも、だったな」
「――は?」
何のことだ、と言わんばかりの妻の声を聞き流しながら、エルナクハは一人合点した。
自分が死んだら、置いていくのは一人だけではない。
顔も知らない、今の姿も知らない、そもそも男女の別すらわからない。それでも、『もう一人』は、確固としてエルナクハの掌の向こうに存在する。目覚めの時のまだ遠い、新たな生命。
聞こえた気がした、かすかな鼓動を、呼び起こす。
まだわからぬ姿の代わりに、その『音』を、魂に刻む。
「……これで、よし、と」
エルナクハは満足げに息を吐いて、何のことやらわからないと言いたげなセンノルレの背を軽く叩いた。
「もう寝よう。明日からも早い」
「……そうですね」
とはいえ就寝を宣告しても、すぐに寝付けるかどうかは別である。どちらも無言のまま、並んで天井をぼんやりと見つめ続ける。
やがてエルナクハの耳に、かすかな寝息が届く。
やっと眠ったか、と思った途端、エルナクハの意識も、暗闇の奥底、一夜ごとの閨に、引き込まれていった。
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