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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層前――天の樹海に魂の帆をかけた冒険者達・3

「エルナクハ……誰かが来たようだ」
 ギルド長の言葉に納得したのか、無言で頷いていたナジクが、再び口を開く。
 レンジャーの青年の言うとおり、『ウルスラグナ』の背後で、入ってきたときにしっかり締めたはずの扉が、かすかな軋み音を立てる。
 振り返る冒険者達の目の前で、扉はゆっくりと開き、建物の外の光景をあらわにした。
 朝靄が治まった街並みを背後に従え、しかし、支配者然としてではなく、あくまでも風景の一要素であるかのように馴染む人影がひとつ、そこにあった。その眼差しは躊躇も緊張もなく、まっすぐに『ウルスラグナ』を見据えている。
「おお、毎日ご苦労だな」
 ギルド長が、人影にそんな言葉を掛ける。
「ようやくおいでになったぞ、待ち人が」
 その声音がきっかけであったかのように、人影は比較的大股で、ゆっくりと、建物内に踏み込んでくる。
 『ウルスラグナ』も、銘々に立ち上がって、かの者を待った。
「――ひさしぶりです、あねさん」
 顔を突き合わせたところで、相手――短めの金色の髪を自然になびかせた男が口を開く。いかなる悪ガキの悪戯をも優しく厳しく包み込む教師を思わせる声だ、とエルナクハは感じた。センノルレが彼を私塾の教師だと言っていたが、彼にとってはまさに天職なのではあるまいか。
 そんなことを思うパラディンの後ろで、「フィプト」と、センノルレが声を上げる。
「お久しぶりですね」
「ええ、事情は手紙で大方掴みましたが、お元気そうで何よりです」
 嫌悪感は欠片すら抱かせない、柔らかな笑顔が、姉弟子に向けられているのを、冒険者達はぼんやりと眺めていた。そのまま彼ら同士にしかわからない細々した会話に突入するのだろうか、と思われたが、さにあらず。金髪の錬金術師はすぐさま『ウルスラグナ』一同に身体を向けた。
 にっこりと笑み、腰を折り、錬金術師は己の正体を己自身の言葉でつまびらかにしてみせたのであった。
「小生はセンノルレ・アリリエン師の弟弟子、フィプト・オルロードと申します。冒険者ギルド『ウルスラグナ』御一同様、以後、お見知りおきを」
「お、おう……いや、はい」
 受け答えるエルナクハの口調は、いつもの傲慢不遜聖騎士のものではなくなっていた。彼とて騎士団に所属した身、礼儀作法が必要なときには最低限の線は超えてみせられる。もっとも、子供の頃の彼に礼節を教える先輩騎士達がどれだけ苦労したか――は、今現在は関係のない話である。
 ちなみに、ギルド長と話しているときに敬語を使わなかったのは、あくまでも冒険者としての対応でいい、と判断したからであった。
「フィプト師、ワタシは、冒険者ギルド『ウルスラグナ』のギルドマスターを拝命する、エル――」
「ああ、堅苦しい敬語はナシにしましょう」
 口元に緩やかな笑みを浮かべた、金髪の錬金術師が、やんわりと言葉を遮る。
「あなたが、ギルドマスターのエルナクハ殿、ですね?」
「確かに。しかし――敬語はナシにしようったって、アナタは……」
「小生のは性分です。お気になさらず」
 錬金術師の申し出に面食らったエルナクハは、しばし口ごもったが、結局は言うとおりにすることにした。
 本音を言えば、敬語は苦手なのである。
「じゃあ改めて。アンタが、センノルレの弟弟子のフィプトか」
「ああ、やっぱりあなたには、そちらのしゃべり方の方が合う」
「んあ?」
 エルナクハ、思わず間の抜けた声と共に動きを止めてしまった。フィプトの顔には憧憬を思わせるものが浮かんでいたからである。否、憧憬というか、なんというか、あれだ。顔も知らない異性と手紙のやりとりをしていたものが、実際に会う段になり、相手が自分の理想通りとわかったときには、このような顔をするのではあるまいか。
 いや、まさか、そっちの気はあるまいな?
 エルナクハは危惧しなくもなかったが、それは、フィプトが声を落とし、ひそひそとささやきかけてきたときには、すっかりと吹き飛んでいたのであった。なにしろ、こんなことを仰せになるもので。
「で、『燃える氷の才媛』と言われていた姉さんを落とした決め技はなんだったんですか?」
「き……きめわざ?」
 さすがのエルナクハも絶句せざるを得なかった。
「何かあったんでしょう? アルケミスト・ギルド時代にはね、何人もの男が姉さんに玉砕してきたんです。けんもほろろにね。それを落とすなんて……」
「おいおい」
 苦笑いしつつもエルナクハは肩をすくめた。
 彼自身、何か特別な事をしたつもりはない。ただ、ギルドメンバーとして共に行動しているうちに、自然とこうなった、というしかあるまい。
 正直、エルナクハ自身も、『その夜』が明けたとき、自分の隣で裸で眠るセンノルレを見て仰天し、しばらく動揺したものだ。
 大地母神バルテムよ、オレは一体何をしたんだ、と。
 それにしてもこの男、フィプト・オルロード。かつてのセンノルレのような、杓子定規な堅い人物だと思っていた。だが、顔を合わせてみればこれだ。いくらアルケミストといっても様々な性格がいるのだから、別段不思議ではない、と頭ではわかっているのだが、実際にこのような軽い面を見いだすと、ほっとする。この男、馴染むのにはそう時間もかかるまい。
 一方、エルナクハの思う『かつては杓子定規だったアルケミスト』は、夫と弟弟子の内緒話に立腹気味である。
「なにを、ひそひそと話しておいでなのです?」
「な、なにをってだなぁ……」
 まさか当人に、当人の話をしていたなどとは言えない。言えるのなら、最初からひそひそ話になどなっていない。男二人は、ちろちろと視線を合わせる。
 ――アレで行くか。
 ――ええ、アレで。
 初対面のくせに、驚くべき息の合わせっぷりである。
 エルナクハは、無駄に胸を張ると高笑いを始めた。
「はっはっは、ハイ・ラガードの歓楽街の場所を教えろ、って言ってたんだよ」
「ええ、どこですよ、とね」とフィプトが話を合わせる。
 センノルレの眼鏡の奥の目が、きらりと光る。
「ほう、妻を前に女遊びの相談ですか」
 ゆらぁり、と背に陽炎を浮かべたような女錬金術師の様に、エルナクハはやけっぱちのように叫んだ。
「いやその、オマエにだって浮気上等っていっただろ!」
「だからといって、わたくしが夫の浮気を許すと思っているのですか?」
「おーい、痴話ゲンカは外でやってくれー、ってギルド長が言ってる」
「私は何も言ってないぞ」
 アベイの茶化しに、引き合わされたギルド長が憮然と応じる。
「犬も食べない……おれも、食わない」
 とある慣用句を思い出したか、ティレンが訥々と口を開いた。
 もやは「バカ」の枕詞を出す気力も失せ、オルセルタが溜息一つ。
 他の仲間達も、目の前で広げられる状況に笑いを浮かべる。
 それは、彼らがエトリアに集い、一年を超えるほどの長い間、行動を共にしてきた間で、よくあること、ないし、あり得ると容易に受け入れられることであった。
 だが、数年間の間隙を経て姉弟子との再会を果たしたフィプトにとっては、あまりにも信じられない、意外な思いを禁じ得ないものなのだろう。エルナクハの話に合わせながらも、目を白黒させ、姉弟子の様子を窺っているのであった。

 フィプトの私塾は、主幹区域を取り囲む街壁から石段を少し下ったところにあるという。街壁の外ではあるが、寄り添うような位置にあり、有事に備える衛士達の目も充分に届く場所だという。万が一があっても、混乱さえしなければ、いち早く街壁の中に逃げ込むことができるだろう。
 もともとは、何年か前にハイ・ラガード市街を拡張したときの作業員の宿泊所だったらしい。ゆえに一部を除けば狭い部屋ばかりだが、数だけはあるとか。風呂やトイレは共用になるという。
 今現在使っている部屋を奪われるのは困るが、他のところは好きにしてくれ、という、男錬金術師の言葉に、冒険者達から異論の出るはずもなかった。この未知の国での寄る辺があるだけでも御の字なのである。他に当てがなければ宿屋に居座っただろうが、私塾に案内される途中で覗いてみた宿屋は、ほぼ満員に近かった。設備を借りるのはいいとしても、一部屋丸ごとを長らく占拠するのは無理だろう。
 心配せずともすぐに空きが出る――というのは真理かもしれないが、あまり考えたくない。
「ところで、フィプト」と、姉弟子が、目抜き通りを先導している弟弟子に語りかける。
「改めて伺いますが、この国にとって、世界樹とは何なのですか?」
 ハイ・ラガードに向かう道すがら、センノルレが語っていたところによれば、彼女の弟弟子フィプトはもともとラガード人なのだという。錬金術に興味を抱き、はるばる『共和国』まで渡ってきた彼は、アルケミスト・ギルドの者達の好奇の的だったとか。なにしろ『王国』やら『神国』やら『共和国』やらの、音に聞こえる世界の大国からすれば、ハイ・ラガードなど辺境も辺境。巨大な世界樹の存在は知られていたけれど、結局のところは『ただの巨大な樹』としか思われていなかったのだ。それは、やはり『世界樹』と呼ばれる大きな樹を擁した辺境エトリアのかつての状況に、似ているともいえた。
 話を戻すと、フィプトが何処人であろうとギルド内の待遇は変わるものではなかったが、机を並べた輩にとっては、未知の国の話を訊くのは大変に楽しみだったという。そんな話の中で、フィプトはかの大樹のことを『世界樹様』と、崇敬の念を込めて呼んでいたそうだ。
 おそらくフィプトにとっては何度も話したことなのだろうが、『ウルスラグナ』にとっては未知の話であることは承知しているのだろう。金髪の錬金術師は軽く頷くと、口を開いた。
「そうですね……崇拝の対象、と言ってもいいでしょうかね。この小さな国がどうにかやってこれたのは、歴代の大公様の温情と、かの大樹のおかげだと、皆、信じてます。ご存じかもしれませんが、この国の冬はとても寒いけれど、世界樹様の根元に近いところでは、わずかですが季節問わず恵みを得ることができるのですよ」
 言葉が切れる。少しだけ考え込んだ後、フィプトは申し出た。
「せっかくですし、ちょっとだけ見に行きますか?」
 そう言いながら振り向いた時、フィプトはさぞ驚いたことだろう。比較的冷静なナジクやセンノルレはともかく、『ウルスラグナ』の皆が、尻尾があったら振りちぎらんばかりの喜色を表しているのだから。
 苦笑いに似た表情をひらめかせ、フィプトは向かうべき方向を変えた。うきうきとした様相の『ウルスラグナ』がぞろぞろと後に続く。
 目的地までは、多少の時間がかかった。世界樹に寄り添うように建造された下り階段を何段も踏みしめ、石畳で舗装された道伝いに根元の方へと向かいゆく。まるで冥界下りだ、と表現したら、それは大袈裟に過ぎるかもしれない。が、たどり着いた場所の光景は、『この世ならざる』と言い切っても、決して嘘ではないだろう。
 そこには、世界樹にはめ込まれるように、巨大な扉が設置されていたのである。
 世界樹を模したとおぼしきレリーフを施されたそれは、人の背丈の倍ほどはあるようだった。門番のようにそびえる巨木に挟まれているが、この巨木も、世界樹の根元から生えた『ひこばえ』に過ぎないのかもしれない。さらには豊かな植物相で周囲を飾られ、この周辺がすでに『世界樹の迷宮』内部ではないかとの錯覚を抱かせる。見事な藤花が垂れ下がり、貴紫の色を緑の中に添えていた。
「……大きいねぇ……」
 扉の上から下までをあまねく眺め、焔華が大きく溜息を吐いた。
「このレリーフは昔からありましたがね」とフィプトが説明をはじめる。「昔の人の崇拝の印だ、と、皆、思っていたんです。まさかこのレリーフが扉となって、世界樹様の内部に誘われることになろうとは、誰も考えていませんでしたよ」
「それは、いつ頃だったのですか?」
「ええと、四ヶ月ほど前のことですか」
「やっぱり、そうなんだ」
 カースメーカーの少女が声をあげた。
「……どうかしましたか?」
「ああ、うん、はとこが、ハイ・ラガードの樹海が開いたのは、エトリア樹海が踏破されたのと関係があるのかな、って考えてたから」
 フィプトは、そして、ハイ・ラガードの民は、いや、全世界のほとんどの者は、まだ知らない。
 エトリア樹海の存在意義であった、『世界樹計画』。
 数千年もの昔、この大地が致命的なまでに汚され、その打開のために発動された、一大計画のことを。
「『世界樹計画』の要の世界樹は七つある、って、前時代時むかし、所長先生……いや、ヴィズルから聞いたことがあるな」
 というのは、ハイ・ラガードの世界樹の噂を聞いたときに、アベイが漏らした言葉であったが、順当に考えれば、ハイ・ラガードの世界樹も『世界樹計画』に関わりがあると見なすべきか。
 少し落ち着いた頃合いで、フィプトにもエトリアの真実を語り、意見を仰ぐべきだろう。
 ところでフィプトといえば、彼に問うべきことが、『ウルスラグナ』にはある。
 ギルドを代表し、エルナクハは、金髪の錬金術師に問いかけた。
「アンタは、冒険者となって樹海に入りたい、らしいな?」
 それが、異境での縁がほしいという『ウルスラグナ』の願いに対する、代償。エトリアからの旅立ちに先んじ、やりとりされた手紙の中で願われた、錬金術師の望み。
 とはいえ、手紙の調子と本人の人柄を考えれば、無理にでも、というつもりはないようである。
 もしも『ウルスラグナ』が断れば、フィプトは従うだろう。
 エルナクハは、そして『ウルスラグナ』の皆は、断る気はなかった。どちらにしても、樹海に潜れないセンノルレの代わりは必要なのだ。
 だが。
「オレら『ウルスラグナ』は、アンタを歓迎する。残る問題は、たったひとつ」
 黒色民族特有の、黒肌の中にありながら黒くない掌が、アルケミストに差し出された。
「アンタにこの手を取る覚悟が、本当にあるか、だ」
 いつしか『ウルスラグナ』は全員が世界樹から目を離し、射るような眼差しでフィプトを見つめている。
 射られる者は状況の変化にたじろぎ、おどおどと来訪者達を見回し、救いを求めるようにエルナクハの掌を見つめた。
「この手は救いの手じゃねぇ」
 カルネアデスの板に一縷の望みを寄せる漂流者を蹴落とす勢いで、黒い肌の騎士は断ずる。
「冒険者達はなんだかんだ言いつつ楽しんでる樹海だが、己の生死すら笑い飛ばす覚悟を持たない者には、ただの地獄だ」
 ごくり、と、フィプトの喉が鳴るのが聞こえた。
「知識がほしいだけならくれてやる。エトリアの真実も、ハイ・ラガード樹海の中で見たものも、全部教えてやる。オレらが楽に通れるようになった階層なら、連れて行ってやってもいい。それで満足できるなら、それでもいいぜ、センセイ」
 フィプトの蒼い瞳が、黒い騎士の緑の瞳に向けられた。まるで泣きそうな瞳をしている、とエルナクハは思った。宝物を取り上げられそうになって泣くのを我慢しているような、そんな眼差しだ。
 それを見て、エルナクハは錬金術師からの答を確信した。
 フィプトは瞼を閉ざして、涙の海になりそうな目を冒険者達から覆い隠す。震える言葉が、思いの丈を吐き出した。
「……あんまりなお言葉です。姉さんから手紙をもらってからの小生が、どれだけ樹海に憧れたか。……否、焦がれたか。皆様の言うとおりにした方が最も安楽でしょうとも。けれど、心が逸るのです。真実を知りたくば、自ら、率先してかの地を踏め、と」
 改めて開かれた瞳に宿るのは、決意の輝き。『ウルスラグナ』の者達が今に至る旅路の中のあちらこちらで見いだしたことのあるものと同じもの。
 北方人の白い手が、ゆっくりと、しかし躊躇に震えることなく、聖騎士の掌に伸ばされる。
「――小生の掌は」
 小さな、だが、確固とした声が、言葉をつむぐ。
錬金籠手アタノールを付けた小生の掌は、皆様の救いの手に、なれますかね?」
「なれるさ。センノルレの錬金術には、大いに助けられた。その弟弟子のアンタの術にも、期待してるぜ」
「変な話です」
 フィプトの顔に苦笑いがひらめく。
「破壊の術式を紡ぐ小生の掌が救いの手で、聖騎士であるあなたが、ご自分の掌をそうではないと仰るとは」
「物事には常に裏表ってモンがあるものさ。破壊だけが本来の意図じゃねぇだろ、錬金術だってよ」
 聖騎士の答に、錬金術師は満足げに頷く。再び口を開いたときには、その声は、さほど大きくはなかったけれど、世界樹の梢に届けとばかりに、朗々と響いた。
「ひょっとしたら、逃げたくなるときが来るかもしれません。それでも今は……小生は、この掌を取りたい」
 フィプトは己の背を後押しするかのように、小さく、こっくりと頷く。
 そして、ついに、エルナクハの手の上に自らの手をしっかりと重ねた。
「なに、そう簡単に逃がさねぇよ。貴重なアルケミストだ」
 エルナクハはにんまりと笑う。心弱き者を威圧する獅子の貌。だが、味方にとっては、この上なき守り手である戦人の顔で。
 宣うは、日常から一歩を踏み出す錬金術師に対する、いささか物騒な歓迎の言葉。
「ようこそ、フィプト・オルロード。希望と絶望が背中合わせにある薔薇の茨道へ」

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