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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第一階層前――天の樹海に魂の帆をかけた冒険者達・5

 その宿の名を、『フロースの宿』といった。
「いらっしゃい! ……おや、見ない顔だね」
 『ウルスラグナ』一行がその宿屋の入り口をくぐると、威勢のいい女の声が飛んでくる。見ると、恰幅のいい中年ほどの女性が、両手に料理の入った盆を乗せ、忙しく立ち回っているところであった。ちょっと待ってておくれ、と言い置いて、おそらく個室があるのだろう、二階へと上がっていき、しばらく後に、空になった盆を持って降りてきた。『ウルスラグナ』の前に来るや、にこにこと笑いながら――否、始めからにこにこと笑っていたのだが、ともかくも口を開いた。
「アンタたちウチは初めてかい?」
 ああ、と誰かが答を返そうにも、その隙もない。女将とおぼしき女性は、一番近場にいたエルナクハの肩をぽんぽんと叩きながら、さらに続けた。
「いいんだよいいんだよ、よく来てくれたね。ようこそ、『フロースの宿屋』へ! この街には宿屋がたくさんあるケド、何てったってウチが一番さ! アンタたち冒険者だろう? 他の客もみんなアンタたちと同じ冒険者だからね、仲良くおやり!」
「お、おう」
 さすがのエルナクハも、怒濤の勢いで吐き出される言葉の前に、こくこくと頷くぐらいしかできない。
「で、早速だケド、長期用の部屋が一つ空いてるよ、八人……でいいのかい? まぁ何とか入れるかね?」
 さすがに返答確認のために空いた間に、エルナクハは自分達の事情を説明する機を得た。
「ああいや、泊まりはいいんだ。フィプトセンセイの所に部屋を借りてる身でね」
「あらま! アンタたち、あの錬金術師の先生の知り合いかい!」
 まんまるな女将は目をまんまるにして、ぱちくりと瞬かせた。
「あらイヤだわ、あの先生には娘がお世話になったねぇ。読み書き算盤教えてもらったものさ! そうかいそうかい、あの先生のところにいるんだ、アンタたち!」
 思い出すかのように、うんうんと頷き、再びにこにこと笑う。
「まぁでもね、樹海探索の後の疲れを癒すなら、ウチを使うのが一番だよ! お風呂だけとかマッサージだけとかでもいいさ、薬泉院で学んだメディックも常駐してるからね、少しくらいのケガならお世話できるよ!」
「そうだな、そん時ゃ、よろしく頼むよ」
 つられたエルナクハが笑みを浮かべながら頷くと、
「あいよっ、その時はよろしく頼まれてあげるよ。ウフフフフ!」
 女将は踵を返し、奥へと消えていった。
 改めて宿の内部を見回す。薄い鴇色の壁に、様々なレリーフが飾られた、派手ではないが落ち着いた内装である。藤の花枝も飾られているが、これは誰かが迷宮入口から摘み取ってきたものだろうか。
 ラウンジには何組かの冒険者がいて、『ウルスラグナ』をさりげなく観察している。その中に、エトリア時代にかなり懇意にしていた一団を見付け、オルセルタやマルメリが相手の女性陣と会話の花を咲かせ始めた。
 アベイがこりこりと頭を掻きながら、ぽそりとつぶやいた。
「当分はテコでも動きそうにないなあ」
「いいんじゃありゃせんか? 八時までには私塾に戻ってくるよう言い含めておきゃあいいんですし」
「だな」
 ギルドリーダーは納得し、話を続けようとする妹と従姉にその旨言い含めると、他の仲間を引きつれて宿を出た。
 ただの四方山話の中から、此度の迷宮についてのいい情報をせしめてくれれば、万々歳なのだが。

 街をしばらく歩いていると、ちょっとした騒動に出くわした。とはいっても、喧嘩やら何やらの物騒なことが起こっていたわけではない。否、ある意味では、そのような児戯よりも物騒だろうか。
 どいてください、どいてください! という叫び声に、『ウルスラグナ』は視線を彷徨わせた。
 声の主は冒険者の一団のようだった。あちらこちらに傷を負った四人の冒険者が、毛布を使った簡易担架にひとりの仲間を乗せ、足早に通り過ぎていく。ナジクが眉根をひそめ、かすかに首を振った。アベイも厳しい顔をして、冒険者達が立ち去った方を見つめる。
 彼らの反応の通り、かの冒険者は助かりそうになかった。生命が拾えたとしても、樹海に探索に出るような無茶は、もはや望めまい。エトリアでもざらにあった光景。かの地に施薬院を構える名医キタザキにさえも、救えぬ生命はいくらでもあったのだ。
 当然ながら、かの冒険者達が向かったのは医院のようであった。エトリアでは施薬院と呼ばれる種の施設は、ここハイ・ラガードでは『公国薬泉院』と呼ばれるのだ、と、フィプトから聞いた。
 樹海探索に臨むならば、必ずや世話になる施設である。端から挨拶に寄るつもりだったが、しかし、今の状況を考えれば取り込み中であることも読み取れる。『ウルスラグナ』一同は顔を見合わせ、無言で意見をすり合わせたものの、結局は施設に立ち寄ることにした。
「――あ、ノブなしの扉だ」
 薬泉院の入り口を前にして、アベイが嬉しそうにつぶやいた。
 思い起こせば、エトリア施薬院の入り口にはノブがなかった。ノッカーも呼び鈴もなかったのだ。ちょっと押せば簡単に開く構造のその扉は、常に患者を受け入れる、というキタザキ院長の方針を如実に表していた。急患には中の人を呼んだりノブを回したりしている余裕はない、遠慮せずに入りたまえ、という意思表示だったのである。
 その意思表示を、アベイは、第二の故郷エトリアより遠き北国ハイ・ラガードでも、目にすることとなったのだ。
 外に佇む『ウルスラグナ』の耳には、喧噪も聞こえない。先ほど駆け込んだ冒険者達は奥に招かれたのだろうか。治療中だとしたら、出直すべきかもしれない。
 とりあえず、扉をノックして、相手の出方を見ることにした。
 ちなみにエトリアでは、施薬院の扉を叩くということは、自分達が急患ではないということを示していた。慌てて治療の準備を整える必要はない、という主張の代わりである。
「あ、どうぞ、お入り下さい」
 若い男の声でいらえがあった。
「大丈夫か? 取り込み中ならば出直すが」
「ああ、いえ、大丈夫……いえ、大丈夫ではなかったけれど、大丈夫です」
 奇妙な返事に、『ウルスラグナ』は、先ほどの冒険者がやはり助からなかったのだと看破した。単に、返事をしてくれた若い男メディック(推測)の手が空いているだけ、という可能性もなくはないが、だったら『大丈夫ではなかったが』などという余計な言葉は付かなかっただろう。
 いずれにしても、入室の許可が出たのだから、まわれ右をする理由もない。
 『ウルスラグナ』一同は、扉を軽く押して、薬泉院内に入り込んだ。
 何となくなのだが、その内部の印象を、一同は、『水底の神殿』と取った。茫洋とした光に満ちた、やや薄暗い内部は、確かに神殿といっても遜色ないものではあったが、そこに『水底の』と付く理由は、下半身が魚の尾をした馬の彫像が飾られていることにあるだろう。水辺に棲むと伝説に謳われる、幻獣ケルピーだ、と、ナジクがこっそりと囁いた。薬『泉』院だからそれが飾られているのか、それが飾られているから薬『泉』院なのか、そこまではわからない。
 神殿に似た薬泉院に入ってすぐ、大広間では、眼鏡を掛けたひとりの若い男が待っていた。おそらくは、応えの主であろう。上質の白衣を着、その手の甲に医神の蛇杖カドゥケウスの意匠のある白手袋をはめた若い男は、穏やかな声で訪問者に問うた。
「はい、どうしました? 怪我ですか、病気ですか」
 声にした後で、少し黙り込む。一行の姿を自分の記憶と比べているようであった。ややあって得心したようである。
「あぁ、初めていらしたんですね? ここは公国薬泉院。冒険者の方の治療の為に作られた施設です」
 若い男は説明を続けようとしたのだろうが、それを遮る者がいる。
「コウ兄! コウ兄じゃないか!」
 誰であろう、『ウルスラグナ』のメディック・アベイだった。
 コウ兄、と呼ばれた薬泉院のメディックは、そう呼ばれて意外そうにアベイを見つめる。
「ああ、確かに私の名は、コウスケ・ツキモリなんで、コウ兄と呼ばれてもおかしくないんですが……えーと、あなたは……」
「たはー、相変わらずだなコウ兄、人を覚えるの苦手なの治ってないんだな」
「はは、すみません……」
「俺だよ、俺。エトリアのケフト施薬院で世話になってた、アベイだ」
 『ウルスラグナ』のメディックが名乗りを上げると、ツキモリと名乗ったメディックは「アベイ? アベイ……」とつぶやきながら再び考え込む。どうやらアベイにとっては旧知の人物らしいのだが、相手が思い出せない以上、あまり意味がない。だがしばらくして、ツキモリは、ぽん、と手を打った。思い出したようである。
「アベイ君! アベイ君でしたか。ケフト施薬院にいた」
「ああそうだよ、コウ兄。ったく、七年ぶりだからって、そこまで思い出せないのは酷いじゃないか」
「はは、すみません……」
 薬泉院の治療士は、頭を掻き掻き、恐縮気味に頭を下げる。
 まったくよ、と、仕方なさげな溜息を吐き、アベイは仲間達に向き直った。
「この人はコウ兄。コウスケ・ツキモリだ。昔、エトリアのキタザキ先生のところで学んでいたメディックでね、俺も、世話になった。七年前に皆伝もらって施薬院出ていったのが、こんなところにいたとはなぁ」
「昔のハイ・ラガードにはメディックが少なかったんですよ」補足するかのようにツキモリが口を出す。「別の場所でたまたまハイ・ラガード出身のメディックに出会って、そう聞かされたものですから、矢も楯もたまらずこちらに押しかけたんです。他国には私がいなくても優秀なメディックがたくさんいますが、そうでなければ私でも役に立てるかと思って」
「なんか謙遜ぶってるけど」と苦笑いをしながら再びアベイが続けた。「コウ兄、なんかぼんやりしてるところがあるけど、医療のことだけは信頼していいぜ。キタザキ先生譲りの腕は伊達じゃない」
「『だけは』って、そりゃいくらなんでも酷いですね」
 本気ではないにしろ渋面を作るツキモリを見つつ、『ウルスラグナ』一同は密かに思った。
 この件については、たぶんアベイの言い分が正しい、と。
「せんせ」
 不意に、ティレンが声をあげた。
「薬とかも、ここで売ってる? おれ、ケガとかよくするから、薬いっぱいいる」
「薬は、ここでは売っていないんですよ」
 優しく諭すように、ツキモリは答えた。
「冒険者の方が使うものですから、武具と一緒に売る方がいいだろうと思いまして、薬はシトト交易所に納めているんです。それと、できれば、薬だけに頼らないで、メディックの治療を仰ぐことをお勧めします。あなた方も冒険者のようですし、樹海に行く際には治療士を連れて行くといいでしょう。アベイ君がいるなら、問題ありませんかね……って、あれ?」
 何かに思い当たったのか、ツキモリは再び押し黙る。
 どうかしたのか、と、身を乗り出す冒険者達。
 ツキモリは軽い驚愕の表情を己の顔に貼り付け、唖然とした口調で宣うたのであった。
「そういえば、アベイ君、冒険者になったんですか?」
「今さらそれかよ!」
 呆れ顔でアベイが突っ込んだ、その時である。
 突然、入り口の方から、重いものを盛大に倒したような音がした。見ると、やっとのことで薬泉院に辿り着いたとおぼしき冒険者の一団が、扉にもたれ掛かって入室し、そのまま床に倒れるところではないか。
「ぬしさんら! お気を確かに!」
 叫び声をあげたのは焔華のみだったが、実際は全員が行動し、一団に駆け寄る。おそらく樹海帰りなのだろう、鎧で身を固めたパラディンを中心とした五人の冒険者達は、皆が等しく手ひどい怪我を負っている。しかし、先ほどの冒険者と違って、助かる見込みは充分にありそうだ。
「コウ兄!」
 『ウルスラグナ』のメディックが、鋭い声で薬泉院のメディックに言い募る。
「俺に手伝えることはないか!? まだ、じゅくじゅくの未熟者だけど、少しぐらいは役に立てるはずだ!」
 ツキモリは、ここまで『ウルスラグナ』と言葉を交わしていたときの頼りなさげな雰囲気が嘘のように、豹変していた。ほんのわずかな生命力バイタルの変化も見逃すまい、と、鋭い目で患者全員を観察し、駆け付けてきた他のメディック達に矢継ぎ早に指示を飛ばす。ストレッチャーが運ばれてくると、もっとも重傷だと見える少女の上半身をそっと抱え、アベイに視線を向けた。
「お言葉に甘えさせて頂きます、アベイ君! 彼女の足の方をお願いします!」
「おうよ!」
 まるで最初から薬泉院のメディックだったかのように、きびきびと指示に従うアベイ。
 仲間達もまた、何か自分達にできることはないか、と申し出ようとしたものの、本格的な救命技術を持たない身では、手出ししても邪魔になるだけだろう。
 エルナクハはアベイに視線を投げかける。ちょうど少女をストレッチャーに乗せ終えたところで、ちらりと顔を上げたメディックは、こっくりと頷くと、もはや『ウルスラグナ』の存在を忘れたかのように冒険者達の容態に集中し始めた。
 メディック達はそれぞれに課せられた仕事を果たし、冒険者達の傷を癒していく。
 自分達が樹海で重傷を負ったとしても、ほんのわずかでも助かる見込みがあるなら、同じように全力を尽くしてもらえるだろう。冒険者達の無事を心から祈りながら、『ウルスラグナ』一行は薬泉院を後にするのであった。

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