森はいつまでも、そこにあるのだと思っていた。
それは、エトリアに住む者が、多かれ少なかれ抱いていた思いだろう。二十余年前に発見された樹海迷宮への依存が大きかったゆえに、それが閉ざされた直後のエトリアの動揺も、また大きかったのだ。
そのような事態になった経緯は、以下の通りである。
新たに発見された第六階層――その光景から『真朱の窟』と呼ばれるようになった階層の探索も、樹海探索の最先鋒を行くギルド『ウルスラグナ』によって、あと少しで全貌が明らかにされようとしていた。
そんなとき、『ウルスラグナ』にちょっとした問題が持ち上がった。不意に、レンジャーであるナジクが、一人で迷宮に向かったのである。
『ウルスラグナ』はすぐさま探索班を組んで、ナジクの行方を捜した。
その結果、謎の魔物と遭遇した。
樹海の真の支配者、前時代人の創りし落とし子である樹海細胞
。
かの支配者は、自らの細胞を埋め込んだ前長ヴィズルの意識を侵し、最終的には彼をして樹海のために『ウルスラグナ』に立ち向かわせた元凶であった。
もちろん、『ウルスラグナ』が最初からそんなことを知っていたわけではない。
話したものがいたのである。――フォレスト・セルの傍らに立つ、ナジクが。
力がほしい、とレンジャーは言った。
自分達を虐げた者、馬鹿な戦ばかり起こして民の死を生み出す輩、そんな奴らを一掃できるような、力を。
そして、彼は、自分達に牙を剥いた前長ヴィズルとの戦いの際に、これこそが自分の求めていた力だ、と悟ったのだという。
どうすれば、その力を得られるのか。答は簡単だった。樹海の方から、レンジャーに接触してきたのだ。力を与えるから、自分を守れ、と。
ヴィズルという、樹海を害しかねない人間を監視するのに相応しい『殻』を失い、その代わりを求めていた『樹海』と、樹海の力を求めていたナジクとは、利害が一致したのだ、と言った。
ナジクは、すでに樹海の力を受け入れ、樹海の核である、かの魔物の思考を、意識内のほとんどに流し込まれ、代弁者と化していたのだ。
――違う。
探索班に加わっていたソードマン・ティレンには、ナジクが泣いているように見えた。
こんなつもりじゃなかった、と泣いているように見えた。
自分で制御できない力なんか、本当の力じゃない。戦人として起つ以上、ティレンにだって理解できる大原則だ。だが、ナジクは力欲しさに制御できない力に手を出し、それを後悔している。
けれど、後悔は必ずしも解決の糸口にはならない。
ナジクは魔物の触手に絡め取られ、その胎内に引き込まれていった。おそらくは、人間達に取り戻させないために。
「戦うしか、ない」
ティレンは斧を構えた。この手には自らで制御できる限りの力しかない。そして、制御できる力は制御できるが故に有限だ。相手の――少なくともヴィズル以上はあるはずの、でたらめな力に、どれだけ対抗できるのか。
それでも、戦うしかないのだ。ナジクを救うためには。
「当然!」
傍らで、傲慢不羈をそのまま音に封じたような声がした。ギルドリーダーたるパラディンの声だ。いつも自らの行く道こそが正しいと言わんばかりにギルドの先頭に立つ彼の声は、いつも以上に頼りがいがあるように聞こえた。
樹海細胞フォレスト・セルとの戦いは、有り体な言葉で言うなら熾烈を極めた。
だが、どれほど熾烈な死線も乗り越えなくてはならなかった。まともに食らえばいずれも死すら実感できない死を呼び込む程の攻撃を、辛うじていなし、倒れては立ち上がること数度。果たして自分達はまだ生きているのだろうか。戦っていると思っている自分達は、実はフォレスト・セルの攻撃に倒れ、生死の狭間の一瞬に残った意識が見る刹那の夢の中で戦っているにすぎないのではないのだろうか。
それでも、戦いには終わりが来る。ダークハンター・オルセルタが繰る剣が、彼女の仕掛けた罠に引っ掛かったフォレスト・セルの目のひとつを貫いたことが、とどめとなった。どんな生き物でも生き物である以上は急所になるであろう、その場所への一撃に、魔物は激しく身もだえし、自らが致命傷を負ったことを如実に伝えてくる。
ティレンは痛みの残る身体を引きずって駆け寄り、エルナクハやオルセルタと共にフォレスト・セルの肉体を切り裂いた。その分厚い肉の胎内に封じられたはずの友達を助けるために。
誰もが、傷ついて、疲れ果てていた。
それでも、目の中に輝く喜びの光は、誰もが隠しきれない。
自分達は目的を果たしたのだ。それどころか、樹海最強と思われる魔物にも打ち勝つことができた。誰も生命を落とすことなく。
とはいえ、やはり肉体の疲労は精神にも影響する。
「まぁ、いろいろと、あるがよ……とにかく、帰ってからにしようか」
さしものギルドリーダーも、傲慢不遜のひとかけらもない、力を失った声で、ようやくそれだけを口にした。
「糸使うわよ?」
「いや、水飲みてぇ」
「とっとと帰って宿で休めばいいのに、まったく……」
ふらふらと部屋の入り口に向かうエルナクハを、やっと助け出したナジクを抱きかかえたティレンは、何気なく見送った。だが、そのうなじの毛が、ぴりぴりと何かを察知して逆立つ。
「あれ? 入り口が、ねぇや……オルタ、やっぱり糸使……」
塞がれた壁をぺたぺたといじった後に諦めて振り返ったエルナクハも、苦笑して糸を取り出そうとしたオルセルタも、他の仲間達も、等しく、その異常に気が付いた。
ついさっき倒したはずのフォレスト・セルが復活を果たし、傷ひとつない姿で、その場に立ちはだかっていたのだ。
「僕を……恨んでないのか、お前は」
「なんで?」
施薬院のベッドに横たわったままのナジクの問いに、ティレンは本気で小首を傾げた。
「なんでって、僕のせいだろう。あの化け物と戦う羽目になったのも、皆が傷ついたのも……それに」
ふ、と一息吐いて、ナジクは続けた。
「お前が、生まれた場所に帰れなくなったのも」
ティレンは、躊躇うことなく、ふるふると首を横に振った。
「あいつとは、いつかきっと戦うことになった。それに」
ティレンは言葉を切った。『あの後』に起こったことを思い出したからだ。
満身創痍の『ウルスラグナ』に、フォレスト・セルに再び抗う力はなかった。残された道はひとつ、ただ、なぶり殺しに合うだけだ。いや、おそらくフォレスト・セルは、痛みも苦しみも感じる間もなく一瞬で死へと導いてくれるだろう。
だが、突如その場に、あり得ない者が現れたのだった。
萌える草木のような色にして、その先端は紅葉しかけた葉のように鮮やかな橙色をしている髪、人間より蒼白で、緑色を帯びているようにも見える肌。全体的に、『森の妖精』と呼ぶに相応しい姿をした、一人の少女。
その姿は、『ウルスラグナ』の冒険記録帳にも記してある、『モリビト』なる樹海の先住民のもの。
「よくぞ、樹海の真の王に手傷を負わせた。人間とはいえ、強者には素直に賞賛を送ろう」
いささか傲慢さをも感じさせる口調で、少女はそう告げ、上質の紅玉にも似た瞳で『ウルスラグナ』を見つめた。
樹海の支配者であるはずのフォレスト・セルは、突如現れた少女の後ろで、飼い慣らされた野獣のようにおとなしくしている。少なくとも、少女の許しなしで『ウルスラグナ』に襲いかかってくることはなさそうだ。
「何をする気なんだ、オマエ?」
いささか間抜けにも聞こえる問いを、エルナクハが口にした。
それを嘲るような笑みをモリビトの少女は見せ、だが口調は、まるで迷子になった子供を慰める者のよう。
「なに、貴様たちを無事に人間の街に帰してやろうというのだ。――『世界樹の王』の後釜には、私がなろう」
「なっ……!」
『ウルスラグナ』が絶句したのも無理はない。
世界樹の力を得ようとした者は、逆にその力と意識に呑み込まれた。エトリアの前長ヴィズルにせよ、ナジクにせよ。目の前のモリビトの少女も、樹海の力を得るというなら、彼らと同じ失態を犯すのではないか。
「戯け者。世界樹の民である私と、たかが人間どもを、一緒にするな」
笑いながら告げる少女を、フォレスト・セルの触手が包み込んでいく。同時に、ナジクの方にも変があった。ぐったりとした彼の右手の甲から、突如、植物の芽のようなものが生えたのである。その姿を、『ウルスラグナ』は見たことがあった――地下十階でまれにみかける、『世界樹の芽』と名付けたものにそっくりだった。ただし、葉の数は四枚。淹れたての薄紅葵
の茶のような蒼い色をしていたけれど。『芽』はやがて、ナジクの手の甲から抜け出すと、根である部分を足のように器用に動かして、すたすたとフォレスト・セルの方に走り去っていく。
「人間には過ぎた力は、返してもらうぞ」
「むしろこっちから返品してぇくらいだ、ありがてぇ」
エルナクハは戯けた調子で応え、だが、眼差しには油断の一欠片も見せずに、静かに剣に手をかけていた。
「だが……オマエ、ソイツの力を得た後、どうするつもりだ? もしも人間に復讐するつもりなら――」
すらり、と剣を少し抜く。
「気持ちはわからんでもない。オマエにはその権利もあるだろう。だが、それでも、ここで止めさせてもらう」
「愚かな人間と一緒にするな。そのつもりなら、貴様たちを無事に人間の街に帰してやる理由もあるまい」
もはやフォレスト・セルの一部と化したような、モリビトの少女は、不快げに目を細めながら返した。
「それに、今の貴様たちで、何ができるというのだ?」
一転、慈母のような笑みを浮かべる。
「……別に謀りはせぬよ。我々は人間どもの干渉を廃して、静かに暮らしたいだけだ。人間の街に何かをしたいとも思わぬ。だから――」
フォレスト・セルと少女の姿が発光し、その光は迷宮の中をまばゆく照らし出しす。まるでアリアドネの糸を使った時のような浮遊感が、冒険者達を包み込んだ。
うろたえる『ウルスラグナ』の頭の中に、静かに響くのは、モリビトの少女の声。
「だから、人間ども、貴様たちも、この世界には二度と手を出すな。我々を静かに暮らさせてくれ――」
我に返った時には、冒険者達は、樹海のほど近く、樹海磁軸の傍にいた。誰が欠けることもなく、全員が無事なまま。
そのときにはわかるはずもなかったのだが、翌日、エトリアの冒険者達は混乱に陥ることとなる。
樹海に入れなくなったのだ。
地下一階と呼ばれた場所には辛うじて立ち入れるが、その下へと続く虚穴は、どこを捜しても見つからなかった。もちろん、樹海磁軸もまったく働かなくなった。
『ウルスラグナ』には、その原因がすぐに理解できた。フォレスト・セルの依り代となったモリビトの少女が、その力で、樹海を閉ざしてしまったのだ。地下一階だけに立ち入れるのは、森からささやかな糧を得て生きている人間達への慈悲だろうか。
もちろん、これまでエトリアを支えてきた、樹海産の素材は、ほとんどが手に入らなくなった。そして冒険者達も、エトリア樹海に固執する理由を失い、新たなる活躍の場を求めて次々と立ち去っていった。
エトリアの狂騒の時代は、ここに幕を閉じたのである。
そして――樹海が閉ざされたということは、ティレン個人には、重大な意味を持っていたのだ。
「それに……」
長い長い、しかし実際にはごく短い時間の回想から我に返り、ティレンはナジクへの答えを続ける。
「大事なのは、生まれた場所じゃない。今、おれがいる場所」
ティレンは樹海の地下三階を故郷としていた。
冒険者として樹海踏破を志し、しかし断念して樹海に住み着くようになった両親から、生まれ出て、樹海を友として育ったのである。
友、といっても、樹海は油断した者にはすぐさま牙を剥く場所だ。そして当時のティレンには、まだ樹海を納得させるほどの注意深さはなかった。だから、いつもは獣避けのカラクリを施した家の中で両親の帰りを待っているか、たまに両親と共に街に出るかだった。十二くらいになった頃からは、樹海の糧を採集して暮らしているレンジャーのナジクが、時折訪ねてきてくれていた。
その生活が一転したのは、下層に巣くっているはずの狼どもが、地下三階にまで現れた時。
その日、いつものように街に出ようとした両親は、狼どもに襲われ、食われたらしい。その帰りを待っていたティレンも、狼に囲まれ、奮戦も虚しく多数の牙に身体を食いちぎられるところだった。家の周りに施していた獣避けも、その狼達には効かなかったのだ。
たぶんティレンは狼達の晩餐となっただろう――樹海の異変を前にティレンの安否を心配したナジクが、『ウルスラグナ』に救助を要請しなければ。
それから、ティレンは『ウルスラグナ』と共にあることを決めた。両親の仇を取ろうと考えたわけではない。悲しいけれど、それは樹海の摂理だ。ただ、両親を失ってから初めて、樹海とは何なのかを知りたくなったのだ。
ほとんど帰ることのなくなった生まれ故郷。しかし、帰りたいと思えばいつでも帰れるはずだった。今のティレンには、それだけの力があった。
けれど、樹海が閉ざされた今、帰ることは叶わなくなってしまった。おそらくは、永遠に。
でも。
「寂しくない」と、力強くティレンは言い切った。
「みんながいるここが、今のおれのいる場所」
「ここが……か」
ナジクは自嘲気味に顔を歪めた。
「過去より現在……僕にも、そう思えるだけの心の強さがあったら……」
ティレンは静かに首を振った。
ナジクの過去は、詳しくは知らない。だが、過去に囚われて道を誤ってしまうことを、ただ責めるわけにはいかないほどの、辛酸を舐めてきただろうことは、漠然と理解できていた。
力が欲しい、と、真朱の窟で叫んだレンジャーの姿を思い起こす。
彼はただ、自分を守る力が欲しかっただけなのだ。
間違いがあったとしたら、すべてを独りで済ませようと、絶対に無理なことを夢見てしまったことだけだ。
「おれの居場所は、ナジクの居場所でもある」
「……お前の居場所はお前だけのものだよ。僕が共にいていいものじゃない」
「なんで? 今までも一緒にいた。これからも一緒」
「……僕は、資格をなくしてしまったから」
「? ……友達と一緒にいるのに、何の資格がいる?」
応えは、なかった。
少なくとも、今、きちんとした応えを聞くのは無理なのだ、とティレンは理解した。泣く子に何かを言い聞かせるのには、その子が泣きやむまで待たなければならないのと同じように。
「大丈夫だよ、おれはナジクがいたい場所にいるから」
友を安心させるように言い置いて、ティレンは部屋を辞した。
やがて、『ウルスラグナ』にもエトリアを去る時が来る。
遥か北方で発見された、新たな『世界樹の迷宮』に挑むのだ。
新たな冒険の予感に、ギルドの全員が沸き立ち、なんのかんのと理由を付けて出立を決意した。
また、みんなと一緒に冒険できるのだ。
そう思うだけで、ティレンの心は弾む。
出立の前日、ティレンは『世界樹の迷宮』を見渡せる丘の上に足を運んだ。
思えば、迷宮を外側からまともに見たことは、今回が初めての気がする。生まれてから過ごした日々も、両親を亡くしてからの日々も、主に樹海の中で繰り広げられていたから。
もはや戻れぬ故郷を前に、ティレンは決意をつぶやいた。
「とうちゃん、かあちゃん、おれ、みんなとやっていける。だから心配しなくていい」
樹海からの風が、返事のように、ティレンに吹き付ける。
「じゃあ、行くよ。……さよなら」
その風に外套をなびかせて、樹海で生まれた子は故郷に背を向けた。
そして、二度と振り返らなかった。
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