自分がダークハンターの道を選んだのは、『あの時』の出来事がきっかけだった。
山岳の黒色民族『バルシリット』の子は、ソードマンを目指すのが常だ。もちろん、不可抗力や自分の好みで別の道を選ぶ者もいるが、長じて無類の戦人となるのが皆の夢だと言っても過言ではない。それはオルセルタも、兄のエルナクハも例外ではなかった。
バルシリットの子は常に木刀を持ち歩く。薄く剥いだ木板を束ねて筒状にしたその木刀は、油断している遊び相手を見ると、即座にその身体に振り下ろされたものだ。そんな奇襲が容易く流され、反撃で手痛い一撃を食らうのも、よくあることである。そんな遊びがバルシリットの子供の日常であった。
オルセルタ(と兄のエルナクハ)が子供の頃には、それに加えて、『世界樹の迷宮ごっこ』なるものも流行っていた。
かの高名な謎の迷宮には、バルシリットの戦士たちも幾人かが挑み、そして、ほとんどの者は樹海に沈み、残る者も先に進みあぐね、諦めて戻ってきたりしていたものだったが、子供達も、いずれは自分が制覇するのだ、という野望を抱いていた。『迷宮ごっこ』はその訓練、兼、自分の力量を他人に見せつける場、兼、楽しい暇つぶしであった。
御山の至る所に口を開ける洞窟を選び、魔物役の子供達が、低地から草花を伐採してきては、それを使って樹海っぽく飾り立てる。そうして暗がりに潜み、冒険者役の子供達を迎え撃つのだ。最奥に安置した宝箱の中身――実質ガラクタ――を手に入れられれば冒険者役の勝ち、冒険者が途中で逃げ帰ったり、魔物役の子供に倒されれば、魔物役の勝ちである。
エルナクハ・オルセルタ兄妹は、冒険者としては無敗だった(魔物役としてはそうでもない)。両親が呆れつつも温かく見守る前で、宝物
を飾り、明日も宝物を増やそうだの、明日は宝物を奪われてなるものかだの、戦略・戦術を練りながら心躍らせていたものだ。
だが、『あの時』に起こった出来事は、二人を否応なく、他の子供達よりも早く『戦人』にしてしまったのだった。
自分達が『魔物役』となる『迷宮ごっこ』を翌日に控えたその日、兄妹は、親の手伝いを午前中のうちに終わらせ、ここ数日ほど村に滞在している『王国』聖騎士の、「『迷宮ごっこ』の準備か、ケガにだけは気を付けろよ」という見送りの声を背に、あらかじめ目星を付けておいた洞窟に赴いた。
兄妹が舞台に選んだのは、いつもより低地にある洞窟であった。いつだったか、放牧していた山岳山羊が逃げたのを捜している時に、偶然見つけたものだ。大層わかりづらいところにあったので、たぶん村の者達でこの場所を知る者はいるまい。本当は秘密基地にしようとも思ったのだが、そうするにはいささか起伏が激しすぎたので、結局は『迷宮ごっこ』の舞台に供されることとなったのである。
エルナクハが、あらかじめ近くに用意しておいた大道具をいくらか抱え、オルセルタがランタンを手に、兄妹は何の躊躇いもなく洞窟へと入り込んだ。
今まで、御山の洞窟に、恐ろしい害をもたらすような生き物が潜んでいたことはなかった。だから兄妹は油断していた。まさか、この世で最も凶暴な魔が――『人間』という名の、時に何よりも恐ろしいものとなる生き物が、目の前の洞窟に入り込んでいようなどとは、露ほども思っていなかったのだ。
彼らの正体が何なのかを、山岳民族の兄妹に知る術はない。だから、彼らが麓の街や村を荒らし回る盗賊団で、『王国』の騎士達に追われて身を隠しているのだということも、わかりようがなかった。後にそう知った時、「だから集落に聖騎士様が来ていたのか」と納得したものだった。
かくして、当然ともいうべき結果として、兄妹は盗賊団に捕らわれた。
もっと詳しく状況を説明するならば、以下の通りである。
互いに唐突なものであった遭遇に対して、兄妹は撤退を選んだ。とはいっても相手を敵と見なしたわけではなく、単純に『先客』がいたことに驚いただけのことだ。
だが盗賊団は違った。子供達が自分達の存在を誰かに告げ口すると思いこみ、背を向けて逃げる子供達に殺意を向けた。
ほんの少しだけ先に殺意に勘付いた兄が、妹を護るべく、幾本もの凶刃に身を晒した。
背に熱を感じたオルセルタは、振り返り、血まみれになってくずおれる兄の姿を前に呆然と立ちつくし、伸ばされる凶手を避けることさえ忘れてしまった。
そうしてオルセルタは念入りに縛られて洞窟の端っこに転がされた。せっかくだから連れ帰って売り飛ばそう、というつもりだったのだろう。一方、エルナクハは、ぼろ布のように引きずられ、オルセルタの隣に放り出された。そのままでは遠からず生命を失うであろうケガを、手当もされないまま。どれくらい過ぎたかはわからないが、引き延ばされたような時間の中、盗賊どもの笑いを耳にしながら、兄の身体からどくどくと流れ去る赤い血の流れを見続けた記憶は、後々、大人になった後も時々夢に見るほどの心の傷となった。
ただ、客観的に言うならば、兄妹達にはすぐに救いの手が差し伸べられたのであった。
ぴしゃり、と、何かが岩盤を叩く音に、オルセルタはもちろん、盗賊達も笑いを止めて注目した。
洞窟の入り口より差し込む光を背に、堂々たる様で立ちはだかるは、黄金の髪を女神のそれのように輝かせた、鞭と剣を持つ美女であったのだった。
美女はダークハンターであった。
あちこちから懸賞金を掛けられた盗賊団を討伐するために、方々を訪ねて手がかりを捜している途中だったという。だめもとで御山のバルシリット族を訪ねようとした時に、遠目に子供達の姿を見かけ、接触のとっかかりを得ようと近付いたところで、件の事態に出くわしたそうである。
歓待の準備を始めようとする集落の人々に、ダークハンターの美女は丁重な謝辞を申し出て、村を去ろうとした(例の洞窟内に縛り上げて放置している盗賊どもを早く当局に引き渡さなくてはならない、という理由もあるのだが)。
そんな美女に、オルセルタは思い切って申し出た。
「わたしを……弟子にして!」と。
引き延ばされた時間と、次第に呼吸を遅くしていく兄と、流量を増していく血の河と。
それら諸々が、オルセルタの心に重石となって積み重なり、ひとつの決意を成していた。
兄様がこんなになってしまったのは、わたしに力がなかったからだ。
戦士になるために頑張ってきたのに、兄様が傷つき、奴らが自分に手を伸ばしてきた時、凍り付いて、何をすることもできなかった。
戦士なら、何かができたはずだ。奴らを撃退した後に兄様の治療をすることも、否、それ以前に、兄と同時に敵の殺気に気が付いて、庇われずとも自らの身を守ることもできたはずだ。
そんな無力さに苛まれていた時、助けに来たダークハンターは、オルセルタにとっては、まさに女神も同然だった。
ダークハンターの美女は、始めこそ渋っていたが、オルセルタが懸命に自分の望みを訴え続けると、溜息を吐きながらも首を縦に振った。
そうして、オルセルタは美女に連れられて故郷を後にする。
大怪我をしてまともに動けないエルナクハが、包帯を幾重にも巻かれた身体を引きずりながら、
「どこ行くんだよ、オルタ! ていうか、オマエ、オレの妹をどこに連れて行くんだよ……!」
そう叫ぶのを、振り切りながら。
「ねぇ、オルタ」
けだるげな声を上げて茶を啜る師匠に、オルセルタは返事をした。
「なんですか、お師匠様?」
故郷を後にしてから、十年くらいが過ぎただろうか。幼い少女だったオルセルタも、年頃の女性となって久しい。同時に、若々しい美女だった師匠は、顔にちょっと小じわが増えたが、美女のまま――と言わなければ睨まれるということもあるけれど、ちゃんとした本音でもある。
その師匠が、いつものお決まりの言葉を発した。
「あんたもそろそろ一人前なんだから、あたしの世話なんかしてないで独り立ちしていいのよ」
「そうですね、もう少し、考えさせてください」
正直、オルセルタは不安だったのだ。ダークハンターとしての修行を重ねてきた自分が、本当に強くなったのか。もちろん、幼い頃の自分と比較すれば、当然すぎるほどに強いだろう。でも――昔の兄様のような大怪我を誰かにさせないための力は、本当に身に付いているのか。
そのあたりの不安は師匠も承知しているのか、結局、独り立ちの話はうやむやのまま、ずるずると一日が始まる。
いつもだったら、そのはずだった。
「ねぇ、『フェンディア騎士団領』って、知ってる?」
話が今までにない方向に飛んだことを悟って、オルセルタは訝しみながらも返事をした。
「『王国』と『自治都市同盟』の間の領土ですよね。昔、『王国』の侵略に備えて『自治都市同盟』が出資して成立させた……」
今の『王国』は平和路線に方向転換して久しいが、騎士団領自体は健在である。
「あたしね、そこの騎士団のひとつの『百華騎士団』ってのに、知り合いがいるんだけどさ」
「はぁ……」
話が見えないながらも、オルセルタは相づちを打った。
「でね、その知り合いが言うには、最近、また一人、『世界樹の迷宮』に挑もうとする奴が、騎士団領から旅立ったらしいのよ。『百華騎士団』の第十九位、『紫陽花の騎士』のふたつ名を持った若者だって」
「そうですか」オルセルタは相づちを打ちながら、新たな茶を師匠のカップに注いでいた。
「確か、そいつの名前が、えーと……そうそう、エルナクハ・ダユ・スラン・バルタっていうんだって。どっかの誰かさんとよく似た名前よねー」
ばっしゃり、と、ポットから注がれた茶が目標を大きく外して、テーブルの上に水たまりを作った。
故郷を飛び出してから、家族とは連絡を取っていない。辛かった修行の中、故郷と繋がりを持ってしまったら、昔の決意を忘れて逃げ帰ってしまいそうだったから。だからオルセルタは、兄が無事に回復したのかさえも知らなかった。大丈夫だろう、と思うのは、単なる願望でしかなかった。
その兄が、騎士になっているという。それも、子供の頃の『迷宮ごっこ』ではない探索に挑むのだと。
師匠はニマニマと笑いながら話を続けた。
「迷宮はひとりで進むには大変よねぇ。そりゃ、エトリアに着けば、同じように迷宮に挑む冒険者達とギルドを組むこともできるだろうけれど……気の合う人が必ずいるとも限らないのよね。最悪、息が合わなくて探索中にバラバラになる可能性もあるのよねぇ」
オルセルタの脳裏に、『あの時』のことが再生される。あの時、ごっこ遊びだった偽物の迷宮の中で、兄は『敵』に倒された。オルセルタが無力だったばかりに。もしも仲間に恵まれなかったら、今度は本物の迷宮の中で、兄は『敵』に倒されるのだろうか。その時、かつてのような助けは、おそらく現れない。
くらりくらりと揺れるオルセルタの心を、師匠の言葉が、さらに後押しした。
「可哀想なエルナクハ君。せめて、兄弟みたいに気の合う相手が一人でも仲間にいたら、そんな心配は大きく減るのにねぇ」
「……師匠」
限界だった。オルセルタはポットを卓上に置くと、ブシドーが土下座をするように、卓に手を置いて頭を下げる。
「お願いですお師匠様、わたしを独り立ちさせてください」
「あら、なに、お師匠様を置いて出てっちゃうの? 悲しいわぁ」
師匠はわざとらしく残念がった。
とある三叉路、エトリアと他の自治都市の方向を指し示す道標の傍らで、一人の騎士が携帯食料を頬張っていた。
銀色の鎧に覆われた、大柄というほどではないながらも筋肉質の身体。癖の強い、くすんだ赤毛。気の強さをそのまま表すような緑の瞳。その傍らに抱えるのは、『百華騎士団』の紋章だという菫と月桂樹の意匠を施した盾。
見違えるほどでありながらも、なお十年前の面影を失っていない姿。遠目からそれを捉えたオルセルタは、心が高鳴るのを感じた。
鼓動を抑える時間を稼ぐために、わざとゆったりと歩み寄る。
不意に目の前に立ちふさがった人影に、携帯食料に熱中していた騎士は、訝しげに顔を上げ、「誰?」と言いたげに首を傾げた。
オルセルタは宣した。未熟者だった自分に別れを告げ、新たな道へ飛び込む、その始まりとなる言葉を。
「なによ、かわいい妹の顔を忘れたっていうの? バカ兄様!」
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