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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・68

 かの小袋の意味は何か。大分前に、ルーナが――エトリア執政院に生えた忌花から生まれた娘が、口にした。
 それは、シリカの店で加工されたものである。
 それは、とある花の魔物を打倒した際に回収された素材の端切れで作られたものである。
 それは、花の魔物を打倒した冒険者ギルドの聖騎士が、とあるものを収めるために要望したものである。
 それは、一時的に冒険者ギルド『ウルスラグナ』に、『お守り』として貸与されたことがある。
 その持ち主たる聖騎士の名をファリーツェといい、そして、花の魔の名を、アルルーナといった。
 袋に収められていたものは、フウセンカズラの種と、もう一つ――。

 ルーナが目覚めた時に見たものは、これまでに見たことのない光景だった。
 いや、それは『アルルーナ』が見たことがないだけだ。『彼』の記憶でならば容易に理解できる。一言で言えば、執政院の医務室である。
 モリビトの変異種として生まれ、ついぞ樹海迷宮から出ることのなかったルーナにとって、同族以外の知的生物が作った建造物は馴染みのないものだったのだ。
 石の天井、石の壁、石の床。『アルルーナ』にはよく判らない様々な家具。
 だが、そんなことはどうでもいい。
 私は、『種』となって永遠に眠るはずだった私は、一体どうしてこんなとこにいるのだろう?
 何気なく手を視界の中に入れて、ぎょっとした。肌が緑ではない。枯れかけた草の色をしている。それは、樹海迷宮に踏み込んできた人間の大多数が持つ肌の色と似た――。
 なんでこんなことに。うろたえる彼女の視線は室内をさまよい、偶然、あるものを見出した。
 壁面に張りついたような、平均的な人の背丈ほどもある角面の水晶板。いや、あれは硝子というのだ、と脳裏で知識がささやいた。
 対面の風景をほぼ完璧に映し出すそれは、鏡だ
 モリビトの世界に金属や硝子の鏡はない。器に溜めた水が像を映す役に使われる時に『鏡』の名を与えられる。ただし聖地――人間の言う遺都シンジュク――に踏み込む資格がある者は、その地で『本物の鏡』を見つける機会があったかもしれない。その資格も機会もなかった『アルルーナ』には、『彼』の記憶がなければ、そのきらきら光る板が『鏡』であることを飲み込むのは難しかっただろう。
 ルーナは厚い敷布の上に仰向けに横たわっていた。身体の上には薄めの掛布がかかっていた。モリビトのものとは違うが、建造物や家具ほど大きく違うものでもなかったので、寝具から這い出そうとしたところで油断が生じた――敷布はなぜか、床から少し高い位置にあったのだ!
 床面にしたたかに身体を打ち付けた後で、ようやく、『彼』の記憶から、これはベッドというものだと理解する。
 しかし、目覚めてからこれまでのすべてを些事とするほどの衝撃が、ルーナを待ち受けていた。
 足が、ある。
 あって当然だ――普通のモリビトか人間であれば。
 『アルルーナ』は、変異種だった。森人ヒトとも魔ともつかぬ姿で生まれ、同胞に疎んじられた存在だった。あるいは、自身を中心に自在に植物を生やせる力は、緑乏しき枯レ森の救世者となるべくして与えられたものだったのかもしれない。しかし彼女はそうはならなかった。二本の足があるべき所に生えた無数の蔓足は、両親にすら、おぞましさを真っ先に感じさせたのだから。彼女が追放された最大の理由は、生まれ持った嗜虐性にあったのだが、その姿も、同胞をして彼女を『害悪』と判断せしめた理由のひとつに違いなかった。
 その忌まわしい蔓足が、今はどこにもなかった。残ったものはただ二本、人間が持つものと同じ色形の足だった。
 自分はどんな姿になってしまったのだ?
 そもそも、それを知るためにベッドを降りたのだ。そのための目的地に、ルーナは這い寄った。立って歩くことはできたかもしれないが、動転していたために足の動かし方が分からなかった。
 目的地、すなわち鏡の正面で、ルーナは己が姿を見た。
 形は――ほぼ変わっていなかった。違うのは蔓を失った下半身と、背から生やした花々が失われていることだった。しかし、色が違った。多くのモリビトの特徴である緑を帯びた肌と髪、それが失われていたのだ。
 呆然とするルーナの前で同じ表情をする鏡面の少女の顔は、すでに見た手足と同じ枯れ草の色の肌と、空の青の瞳をしていた。
 その色合いを、ルーナは見たことがあった。
 思い出すのは、今の目覚めの前に見たような気がする夢。眠り続けるはずの自分が目覚めた夢。黎明の中、赤く染まった水を、いや、血を、そしてもっと深くにある『何か』を吸い上げ、アルルーナとして再び花開く夢。
 あれは、夢ではなかった。今ここにいるルーナ自身が、そうと証明している。
 自分が何をしたのか。本能ではとうに理解しているそれを、言語化して理解しようとしているその時、背後から硬質の短い音が数回聞こえた。『ノック』だ、とルーナがその音を理解した時、軋む音が続いて耳に届いた。

 その音を発した者――すなわちドゥアトとキタザキ医師は、少しの間待ち、内側から応答がなかったにもかかわらず扉を開けた。容態を診る必要がある以上、返事があろうがなかろうが入室するつもりだったのだ。
 だから、返事がなかったにもかかわらず、対象者が目覚めているのに驚いた。対象者がベッドから抜け出し、鏡の前にいることにも、驚いた。
 対象者――花から生まれた不思議な少女は、扉が軋む音に呼応して、ゆっくりと振り向いた。現状を飲み込み切れていないような、呆然とした表情が、入室者達に露わとなった。
 その桜のような唇がゆっくりと開いて、声を放つ。
「ああ、アト叔母さん、それに、キタザキ先生」
 その場の空気が、警戒を孕んで帯電した。
 二人はどちらも、目の前の少女に名乗っていない。
 ドゥアトとしては、彼女が生まれる前の蕾の前で感知した『声』の件が引っかかっている。かの『声』は、まさに今聞いた、少女の声と同一だった。そして声音自体は違うのに、どことなく従甥の気配を感じさせる点も。
 キタザキはエトリアの有名人である。それゆえに、彼にとっては初対面でも相手は名を知っている、という件は枚挙にいとまがない。しかし、花から生まれた少女に、キタザキを知る機会があったのかどうか。ひょっとしてエトリア市民の誰かがあの花の中に潜り込んでいたとか? ――何のために? そも、あの花が生えた木が発生した戦いの直後からは、外部の者を入れるのを避けている。そんな中、この少女はどうやって入りこんだのか。
 そして、何よりも。
 彼女の正体に迫るひとつの証拠がある。今は病衣の袖の下にあって見えないが、彼女の左肩に存在する禍々しい刺青。当然ながら、彼女を医務室に安置する間に、それをつぶさに観察する時間は充分にあった。
 結果、医師と呪術師は結論づけた。それは二人が共通して見知っていたものと同じである、と。
 その意味するところは――人間の常識ではありえないもの。だが、それ以外には説明が付かない。
 わずかな逡巡の間を挟み、思い切って口を開いたのは、キタザキ医師の方であった。
「無事――だったのかね、ファリーツェ君」
 かの聖騎士のことを知る第三者が同席していたら、何をとち狂ったのか、と呆れるであろう一言だった。そもそも性別が違う。
 そんな第三者が浮かべそうな表情を、謎の少女も形作った。
 キタザキは困惑の眼差しをドゥアトに、そして少女に向ける。
「……違うのかね? てっきり、何かの要因で性転換でもしたのかと思ったのだが」
 うむー、と、この場にはいささかそぐわない間の抜けたうなりを上げた。
「いや、まぁ、自然に性転換するのは、人類には無理なはずなのだが。できるのは魚類や植物、そのあたりだな」
「『人類には無理』なんですの先生?」
 半ば非難するかの表情でドゥアトが口を挟んだ。「人の従甥っ子を勝手に性転換さすな」という本音はあったが、『肉体は確かに彼のもの』という物証がある以上、「それもありえるのかも」と口出しを控えていたのだ。
「人を勝手に魚類に分類しないでもらえるかしら? 植物なら分からなくもないけど」
 とは少女の言葉である。
 その言葉遣いに、今度こそ医師と呪術師は悟った。『彼女』はもちろん、かの聖騎士ではない。性別はともかく本質が同じならば、二人の前で言葉遣いを変える必要性はない。つまりは。
「君はファリーツェ君ではない。だが、どういうわけか、彼の記憶を持ち、なぜか彼の肉体的な特徴を一部引き継いでいる」
「……ええ、そうよ。不本意だけど、そういうことになってしまったわ」
「何故なのか、君自身には心当たりはあるのか?」
 その問い自体には言葉での返答はなく、少女は静かに頷くだけだった。

 そして、少女――ルーナが語った『心当たり』は、現在ごじつ、彼女自身が『ウルスラグナ』一同を前に披露したものでもあった。
 彼女の名は、アルルーナ。樹海の第二階層に座し、数多の冒険者を破滅に導いた『敵対者F.O.E』。
 それが、冒険者ギルド『エリクシール』に討伐されたもの。
 エトリアの『敵対者』は、一部を除いて、樹海より『芽』を与えられたものである。倒されても『核』を残し、それが周囲の有機物を己の肉体に変換し、ある程度の時間をおいて復活を遂げる。逆に言えば、『核』を発見し、充分な有機物から遮断すれば、復活を遂げないという理屈だ。
 故に、『エリクシール』に倒された後のアルルーナは復活が確認されなかった。
 ――彼女の『種』状となった『核』は、『エリクシール』の聖騎士ファリーツェが樹海外で保管していたからだ。
 華王の花弁の端切れで作られた袋の中に収められた上で、常に懐で守られる形で。 

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-68

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