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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・69

 これはいったい、どうしたことだ。
 絶命した少女の周囲には、治療士達がいる。『尋問』の助手として、キタザキが手ずから選んだ弟子達だ。自分達が尋問室に顔を出すまでは始めるな、との言い含めを破るような人員ではない。執政院の被害者と仲がよかった者もいるが、『治療』に当たってはそんな私情を挟まないように育てたつもりだったし、そうできると見込んだ者を連れてきたはずだった。
 しかし状況は、そんなキタザキの期待をことごとく裏切っている。椅子の傍の卓上に未使用状態で準備されているはずの薬や注射器は、使用され、取り返しの付かない事態を招いてしまっている。
 治療士達は消沈していた。その中で唯一の例外は、拘束された少女の傍でしゃがみ込み、すすり泣いている、女性の治療士だった。注射器はその手に握られており、中には若干の薬剤が残っている。状況的に、自白剤を注射したのは彼女だ。それも、おそらくは許容以上の量を使用してしまった。
 薬剤の許容量については、施薬院でも徹底的に叩き込む事柄だったはず。間違えれば人は簡単に死にかねない。まさに実例が目の前にある。
 何があった、と厳しく問うキタザキに、すすり泣く女性をなだめていた男性治療師が応えた。
「早く真実を引き出さなくちゃ、って、自白剤の投与を始めてしまったんです……ユドラさんが、先生が来る前に少しだけ、少しの量で聞けるところだけ、って始めてしまって。申し訳ありません先生。その時点で止めるべきでした……」
 むぅ、とキタザキは唸った。それは自身の言いつけを破られた不快でも咎めでもなかった。むしろ困惑のように、傍に立つドゥアトには見えた。
 一息吐いて自らを落ち着かせた後、キタザキは問いかけを再開させた。
「……それで、アヴェジナが注射器を持っているのは何故だ? ユドラから続きをするように渡されたのか?」
 アヴェジナというのは注射器を持ってすすり泣く治療師の名である。会わせる顔がない、とでも言いたげに面を伏せたまま、ゆっくりと首を否定の形に振る。
「姉さまは、もうやめる、とおっしゃいました」
 嗚咽の合間に聞こえる話をまとめると、以下の通りである。
 最初に自白剤の投与を行った治療師ユドラは、注射器を元あった場所に戻し、悔しそうな笑みを浮かべながら、つぶやいた。
「これ以上はダメね。さすがにただじゃすまない。……だけど悔しいなぁ、わたしのあの人も、こいつらのせいで死んだのに。少しだけでも、自分の手で情報を引き出せたらって思ったんだけど」
 捕囚の口からは、事案の真実に繋がりそうな自白は、なにひとつ出てこなかったのだ。
 ふふ、と悲しげな笑声を上げたユドラは、ふと何かに気付いたように、注射器を再び取り上げ、女性治療士――アヴェジナに手渡した。
「ああ、ごめん、あなた。注射器から薬を抜いておいてくれる? 忘れてたわ」
 当人は小走りで部屋の入り口に近付き、扉に手をかける。どこへ行くのか、と全員がユドラに注目したが、
「お手洗いよ」
 との言葉に、視線を戻した。生理現象はどんなときにも引き起こされるものである。
 一方、注射器を託されたアヴェジナだったが、ユドラの言う通りに動くことはなかった。薬の残った注射器をじっと見つめ、凍ったように動きを止めていた。周りでなんとなく見守っていた他の治療師達が見かね、手を伸ばしたが。
 アヴェジナは小さく頷いたが早いか、治療師達の手をかいくぐり、椅子に拘束された少女の腕を取り、注射器の針をぶっすりと刺してしまったのだ。
 メディックらしからぬ行動である。キタザキの言いつけを破ったことを差し引いてもだ。注射をそのように雑に行うとは。ユドラの刺した痕を参考にしたのかもしれないが、血管も確認せずに躊躇なく実行した。非難の言葉と制止の行動が(遅きに失したとしても)周囲から起こりかけたが、それも完全な実行には至らなかった。捕囚に変化が見られたからである。
 全員、期待してしまったのだ。アヴェジナのやり方はよくないにしても、今度こそ、執政院を蹂躙し、友人知人の幾人かを奪った者から、その真意、その目的、その背景を得られると。最初に実行して何も得られなかったユドラの無念も報われる、と。
 ……今回も、何も得られなかった。
 捕囚の少女は、急激に顔を歪め、苦悶と悲嘆が混ざった表情で、意味の分からない言葉を幾ばくか吐いた後、くぐもった音を喉から幾度か響かせ、天井を向いて痙攣しながら泡を吹いたのである。
 さすがに治療師達も救命に動いたが、時既に遅かった――。
 語り終えたアヴェジナと、合間に補足を入れたメディック達は、頭を垂れてキタザキの言葉を待つしかなかった。
 メディック失格? 当然である。主治医の指示を守らず、勝手な行動で被施術者の死を招いたのだから。
 傍らで話を聞いていたドゥアトにとっては、果たしてキタザキが彼らに対してどのような裁定を下すのか、蚊帳の外の話である。彼らメディックの是非の判断は彼女には分からない。
 だが、キタザキの言葉は、そんなドゥアトにも、そして治療士達にも、予想外の問いかけだったのだ。
「ひとつ確認したい。――ユドラ、というのは、皆の中の誰かのあだ名かね?」
 湧き上がるのは、治療士達の困惑に満ちた短い声。
 その反応で、ドゥアトは状況を完全に理解した。
 ――敵に謀られた。情報提供者となり得た者を始末されたのだ、と。 

 続く話は場所を変えて仕切り直された。
 執政院内医務室内、事務室。主に書類仕事などを行う場所である。
 ちなみに、アヴェジナをはじめとした、『尋問』に立ち会ったメディック達は、別室に集め、『尋問』に関わらなかった者達による世話を受けている。彼らには落ち着く時間が必要だ。だがメディックには精神的な深手に対処する力はほとんどない。現状では軽食や向精神薬アムリタ、テリアカの類を提供するのがせいぜいだろう。
 閑話休題。
 キタザキとドゥアトは、顔をしかめながら向かい合っている。
 ――メディック達が名を挙げた『ユドラ』は、結局見つからなかった。
 おそらく、キタザキが集めたメディック達に紛れて入りこんだのだ。そして、憚りトイレに行くふりをして、そのまま脱出した。
 メディック達が短時間で招集可能だったのは、もともと祝祭に備え、キタザキが知る限りの町医者や個人の治療者達に声をかけていたからだ。執政院襲撃のような危険がなかったにしても、浮かれ騒ぎの果てに事故や喧嘩、飲み過ぎに体調不良が続発することは、火を見るより明らか。その声かけの際に、キタザキは、特に信頼できる元教え子十数名に、執政院の計画と、その関係で緊急に力を借りる可能性が非常に高いため、対応を頼みたい旨を伝えていた。
 その甲斐あって迅速にメディック達を集めることができたわけだが、その中に問題の人物は紛れ込んだらしい。集まったメディック達にしても、互いを全員認識できるわけではない。『自分の先輩か後輩に当たる、キタザキ先生の弟子なのだな』で納得してしまう。キタザキの顔の広さが仇となった形である。
 ――という類推を様々に重ねたところで、起きたことは覆せない。
 キタザキは傍らに置いた手帳に指を這わせ、深く溜息を吐いた。
「これは私の落ち度だな……むざむざ情報提供者を死なせ、何の成果も得られませんでした、というやつだ」
 手帳には、弟子の一人が捕虜の少女の断末魔を書き留めたものが記されていた。
 ほとんどがエトリアの現状をどうにかするには役に立たない戯言ばかりだった。ただ、『黒い翼の王子さま』という単語が目を引く。断末魔を放つ最中、彼女はその存在に許しを求めていたという。もちろん翼を持つ人間はいないから、称号的なものだろうが、該当しそうな王族には思い当たりがない。もしかしたら襲撃の黒幕に繋がるかと思ったが。
「一応、情報室には投げておこう。『ユドラ』の件も含めて、我々では手の届かない何かに引っかかるかもしれん」
 その言葉に、ドゥアトは頷くしかできなかった。今の彼女にはエトリアの眼鏡に適う情報を得る手段を持たなかったから。残念ながら、もう死んでしまった者には彼女の呪術は届かない。自分達は御伽話の死霊使いネクロマンサーではないのだ。
 ――巫医ドクトルマグスが知るという還魂の法が実在するならまだしも。
 ふと、記憶の片隅にあった懐かしい知識が浮かび上がってきた。
 そういえば、そんな御伽話を子らに語ったこともあったわね。
 曰く、ドクトルマグスが追い求める古の巫術のひとつに、死者の魂を術者の身に降ろして交信するというものがある。遠い遠い昔、彼らの一派は北の霊山に籠もり、厳しい修行を積み、訪問者の求めに応じて死者を降ろしたという。
 もし、その巫術が実在するなら、捕虜の少女を降ろしてなにかを聞き出すこともできる。死者の魂を特定する情報が足らない云々で彼女の降霊が無理なら、せめてファリーツェの魂を降ろして最後の言葉を――。
「……所詮は御伽話、よね」
 ドゥアトは郷愁を振り切った。
 なんとも皮肉な話だ。言葉で他者の生と死を操るカースメーカーであっても、冥界の河の向こう岸とこよには手を出せない。ただ、岸のこちら側うつしよから彼岸を思いながら歯噛みするしかないのだ。
 ……ならば、あたしは現世で足掻くしかないじゃない。
 緑髪の呪術師の思考には、次に己の為すべきことが湧き上がる。その行動の是非を問うべく、彼女は医神に向かって口を開いた。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-69

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