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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・67

 『ウルスラグナ』一同相手に語っている今、言えないことではあるが――いや、勘のいい何人かは『当然そうしただろう』と気付いているだろうが。
 当時、ドゥアトは言葉に呪を乗せていた。銃士の少年ならきっと抗えない思いを乗せて、翻意を試みていた。けれど、虚ろに短い返答を繰り返すだけの少年には、言葉自体が届いていなかったのだろう。そして。
「問題ありません。この任務が完了したら、次の任務が控えています」
 少年がようやく返した、意味あるその言葉には、ドゥアトの呪を断ち切るほどの強い意志が宿っていた。
 予想外の抵抗に、ついにドゥアトは返す言葉もなく立ちすくむ。呪術師の力は、敢えて悪しきざまに言うのなら、人の心の隙間をこじ開けるものだ。付け入る隙をぴったりと閉ざされてしまっては、思うような効果は及ぼせない。
 さらに少年が続けた言葉に、呪術師は追い打ちを掛けられることになる。
 まさか彼の口から聞くことになるとは思いもしなかった、従甥を害した輩の正体。しかも、銃士の少年に近しい者だという。
 自制しても脳内で反芻されるその言葉に、己が心臓に幾刃もの剣を突き込まれるに似た苦痛を感じながらも、ドゥアトはそれを堪えた。ひとつ、掴めたことがあったから。
 言葉の中に揺らぎを感じる。ヴェネスの心が揺らいでいる。言い換えれば、心の隙間を見いだせた。それは、少年を説得できる、再びの機だ。
 呪術師はそれを試みた。銃士の少年が決して反駁できないはずの言葉に、自身ができうる限りの呪を混ぜ込んで。
「待ちなさいヴェネス君、あなた……自分の師匠に銃を向けられるっていうの!? それに……あなたの師匠なら『組織』の銃士でしょ? それは『組織』に銃を向けるのと同じことに――」
 ――しくじった!
 心揺らいでいたのは自分こそだったか。『言霊の使い手』として大失態。会話の選択を完全に誤った。
 かの輩はヴェネスにとっては大恩ある師だ。ゆえにドゥアトは、ヴェネス側の心に寄り添って呪を組んだ。駄目押しとして彼が従うべき秩序を混ぜ込んだ。この場合の『秩序』とは、すなわと彼が属する『組織』の掟。
 だがドゥアトは忘れていたのだ。『組織』がどういう掟の下に活動しているのか。
 ――行動を定めるものは金銭のみ。ただし、一度契約を結んだならば、仮に契約者の敵対者から大金を詰まれても、裏切らず。
 すなわち、ヴェネスの師の、エトリア側にゆみ引いた行動は、紛うことなき裏切りなのだ。『組織』の銃士であるヴェネスにとって、裏切り者への制裁は当然のことだった。
 しかし彼はエトリアでの任務を最後に引退できるはず。裏切り者だが敬愛する者、という二律背反に苦しんでまで銃を取る必要はないはずだ。だから、『組織』の掟に触れさえしなければ、ヴェネスへの呪は成功を収めただろう。
 と後悔したドゥアトは、すぐに、それすらも自身の思い違いだったことに気が付いた。
 銃士の少年の瞳の中には、自身の心の奥底で燃え上がるものと同種の炎。
 ドゥアト自身も抱える悲願。縁ある者の死に慟哭し、憤怒し、復讐を誓う心。
 ――ああ、この子はそんなにも、あの子のことを親しく思ってくれていたのか。
 それが愛おしく、悲しくて。
 そうしてドゥアトは、『戦意』を失った。もはや言葉じゅじゅつを発することもできず、深い溜息と共に、ふらりと身体を傾がせた。支えてくれたのはキタザキ医師か情報室長か。それすら判らないほどに、身体と精神の疲れがどっと押し寄せてきていた。
 結局はその後、一同はヴェネスに半ば強引に部屋を追い出されたらしい。他人事のような言い方なのは、人事不省に近い状態だったからだ。気が付けばドゥアトは、医務室のベッドに腰かけ、呆としていた。
 情報室長は別の仕事に着手したのか見当たらず、キタザキ医師が傍らで温かい茶を煎じて陶碗に注ぎ、ふわりとした香気が鼻をくすぐるそれを差し出してくる。
 一口、二口。
 肉体の深層にこぼれ落ちゆく熱に身を温められ、ようやく人心地ついた呪術師は、肩を落として、誰にともなくつぶやいた。
「お恥ずかしいところをお見せしましたわ。もっと上手い説得の方法もあったでしょうに」
「いや……ああいう目をした者は、容易に止められるものではない。改めて思い知ったよ」
 キタザキ医師の言葉に、かすれた声で同意を示しつつ、ドゥアトは頷いた。
 聞けば、ヴェネスは既に執政院を後にしたそうだった。報酬は『メニーシュ協会』の者が徴収に訪れるから渡してほしい、と言い置いて。その去り際はまるで逃げ去るかのようだったという。
 もはやヴェネスについては、ドゥアト達にできることはない。彼の後を追うにしても、『組織』の正確な場所も、少年がどこに仇敵を探しに行くかも見当が付かないのだ。
「そうなると、我々は我々にできることをせねばならん」
 気持ちを切り替えるかのごとく、芯のある声音で、キタザキは決意を表した。
「あの謎の樹だ。ヴェネス君の証言の真偽を確認するなら、あれをどうにかしなくてはならん。それに、あれがファリーツェ君を苗床にして生えたというなら、下敷きになっている彼を回収して埋葬してやらねばなるまい」
 ドゥアトは頷いたものの、はたして、何をどうしたらいいものか。どうやらキタザキも妙案までは思いついていないようで、ともすれば大の大人二人が馬鹿口ぽかんと開けて漫然と樹を眺めるだけのことにもなりそうだった。
 とりあえずるか? もちろん二人には伐採の技術スキルなどない。あったとしてもあれに通用するものかどうか。斧使いのソードマンを何人か集めた方が現実的だろうか。
 余談だがこのくだりの時、時を隔てたハイラガードの私塾では、斧使いのティレンが「おれ、おれやるよ!」と元気に立候補し、右隣のゼグタントに「『今』の話じゃねェって」と小突かれていたりする。
 その様を見て、『今』のドゥアトは微笑ましげな表情を浮かべた。
 残念ながら、と言うべきか、当時エトリアにティレンがいたとして、彼の活躍の場は、結果的には用意されなかったのだった。

 打開策を思いつかないまま、正面口広間に再び足を踏み入れる。
 呪術師と治療師は、すぐに異変に気が付いた。正面入口側の根元、すなわち、花のつぼみと思われていた物質である。それは今や、『思われていた』という形容詞が不要になっていた。
 まるで牡丹のつぼみのように、中央から四、五片に割れた緑のうてなの合間から、薄い桃色の花弁が見え隠れしている。ふるふると、かすかに揺れ動く度に、桃色の亀裂は、一度には人の目で測定できないほどに少しずつ、しかし回数を重ねるごとに確実に、その領域を増やしていった。
 開花、するのか?
 樹の発生状況、そして発生後の挙動を考えるに、咲いた花がどんな災いをエトリアに与えるのか、想像もできない。
 必要なのは斧使いより錬金術師の炎使いルベドだったか。執政院自体を炎に包む危険があるとしても。いずれにしても探して連れてくる余裕はもうない。
「一応、植物の魔物にも、呪術は効いたと聞きますけれど」
 ドゥアトは腹をくくった。
「攻撃の兆候があり次第、自らを攻撃するように呪をかけます。ですが、確実に通用するとは限りません。その時には」
 最適解が無駄なら次善の策に己の生命を捧げる覚悟はある。まさか一日に二度も『それ』をやることになるとは思いもしなかったが。
「お下がりくださいな、名医殿。あたしが生きながらえていれば、その腕で癒して下さいますでしょう?」
「待ちなさい、叔母上殿!」
 キタザキの静止は想定内のことだった。いかに『己が欲望のために生命を賭ける冒険者』を見慣れていても、彼は元来、命を救う側なのだ。だがドゥアトは、その気遣いをぴしゃりとはね除けた。
「執政院内全員と呪術師一人、どちらが大事か!」
 医師の言葉を払うかのごとく平行に振り抜いた右腕、その手の中では呪鈴が恐怖を孕んで音を奏でる。怯んだキタザキを尻目に、ドゥアトは、可憐なドレスの襞裾フリルを思わせる花弁をさらけ出し始めたつぼみに、今一歩肉迫した。しかし。

 ――心配しないで、アト叔母さん。

 呪術師の女は喉奥から引きれた息の根を吐いた。弾みで取り落とした呪鈴が、床に転げて主の代わりに悲鳴を上げる。
 今のは、ファリーツェの『声』だ。いや違う。声音トーンが全く違う。それなのに、ドゥアトの判断力はそれを従甥の声と認識した。立て続く衝撃に疲弊した精神が狂い始めているのか、それとも自分は正常で、今起きた事象は確固たる説明を付けられる何かなのか。確かなのは、ドゥアトの呪術は封じられたということだけだった。正確に言えば、呪を使うこと自体は可能だが、植物の魔が動くのには間に合わない。
 どうやら、早くも自分も従甥と白玉楼で再会することになりそうだ。
 目の前で開きゆくつぼみを前に、ドゥアトは己の無為の死を覚悟した。

 そして、忌華は花開く。

 ……何も、起こらなかった。災厄に類される物事は。
 目の前に無防備に佇む呪術師が花の魔に食いちぎられることはなく、可視不可視いずれかの瘴気ガスにキタザキもろとも巻き込まれて倒れることもなく、話に聞く暴虐の再来がおとなうこともなかった。
 ただ、ドゥアトが目の当たりにしたのは。
 開ききった花の中央、艶やかな八重の花弁を寝具しとねとし、膝を抱えた胎児が正面を向くような姿で眠る少女。
 整った顔立ちを囲むのは、緩やかに波打つ長い山吹色の髪。顔の両脇は縦巻きになっていて、螺旋を形作って身体に寄り添っている。
 目の色は――判らない。閉ざされているから。
 一糸まとわぬ肌の色は、この世界の人間の大半が持つ、象牙の色。
 どこからどう見ても、ただの人間だった。花の中から現れた、という異常性を除けば。
 どう対応すればいいのか――と悩む暇は、ドゥアトには与えられなかった。
 まさに生まれたばかり、と言える少女の肌、その唯一の例外に目が吸い寄せられていたから。
 それは、彼女の左肩であった。彼女の取る体勢上、全容を見て取れる訳ではなかったが、そこには明らかに、普通の娘では持ち得ないものが存在した。
 朱色で為された、複雑な紋様の禍々しい刺青であった。ただし、それはぼやけていて、『複雑で禍々しい』以外の要素を読み取るのは難しい。だが、ドゥアトはそれを読み取れた。『過去』に、その刺青に関わったものの一人が、ドゥアト自身だったからだ。

 ――ほら、いい加減泣き止みなさい、ファリーツェ。もうすぐ終わるから。この程度で泣いてちゃ、立派なカースメーカーになれないわよ。
 ――ねぇおかあさん、おかあさんは、りっぱなカースメーカーじゃないの?
 ――いきなり何を言い出すのよ、パラス?
 ――だって、おかあさんが、はじめてのいれずみをいれたときも、わんわんないてたってきいたよ?
 ――……誰よ? そんな話吹き込んだの?
 ――レイおばさん!
 ――ごめんねぇアト、子供達の慰みにいろいろしゃべっちゃったよ!

 ああ! 思い出すに頭にくる話だこと! けれど、抱く思いは怒りではなく郷愁だ。一族の末っ子が辿る結末など露知らず、肩を寄せ合って生きていくのだと信じて疑わなかった、在りし日の。
 その感情に背を押され、無意識のうちにドゥアトは少女に手を伸ばす。なぜ従甥しか持ち得ない刺青が彼女の肩に存在するのか、そんな疑問は押さえつけられてしまった。
 ほんのわずか、指先が触れただけで、少女の身体は傾いだ。花弁の間から離れ、ドゥアトの腕の中に収まるように、ゆっくりと倒れてくる。抱き留めたその身体は確かに温かく、かすかな鼓動が伝わってきて、彼女が幻覚ではないことを明らかにしてくる。
 ようやくキタザキが駆け寄ってくる気配がある。ひとまず、腕の中の少女を医師に任せよう、と考えたドゥアトは、次の瞬間、またも硬直することとなる。キタザキもまた、足を止め、ドゥアト同様にあっけに取られているようだった。
 花が、枯れた。あまりにも急速に、枯死までの時間をほんの数秒に縮めて早送りしたかのように。花だけではない、大元の謎の植物までもだ。しおしおと縮みながら、先端から砂となって散っていく。
 六十を数えないうちに、床に滞留する塵芥が現出した。
 声もなく、呆然と立ち尽くす、呪術師と医師。
 それは、始末に困っていた植物が勝手にあっさりと片付いた驚きだけではない。
 二人がどうにか回収しようとしていたものが、目の前に現れたからでもあった。
 塵芥に埋もれた『それ』は、しかし、二人が想像していた姿をしていなかった。
 仰向けに横たわる鎧があった。力なく床に広がる胴衣ギャンベゾンがあった。傍には最後まで彼と共にあったであろう盾が倒れ、頭部付近には彼の生命を奪ったと思しき小さな金属弾があった。だが、それだけだった。本来残っているべき肉体は影も形もなく、それどころか、流れ落ちたであろう血の跡すら一滴も残っていなかった。
 キタザキが注意深く鎧を持ち上げても、共に持ち上げられた胴衣は くたり と垂れるだけ、中に何かが残っているとは思えない挙動を見せた。――否、何かが落ちた。
 小さな小袋だった。天鵞絨ビロードのようになめらかな不織布、というより厚手の花弁でも加工したかのような。丁寧な作りではあったが、無惨にも破れていた。
 その破れ目から、転がり出た物がひとつ。
 人の手でようやく摘まめる程度の小さな球体だった。色は黒、しかしシロツメクサの葉のような――簡単に言えばハート型の――白い模様が付いている。自然の妙技のひとつと言えるそれの正体を、その場の二人は知っていた。フウセンカズラの種、だ。
 とりあえず回収はしたが、なぜそんなものがこの場にあるのか、その時の二人に知るすべはなかった。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-67

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