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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・66

 ひた、と、背が水に触れた。
 我に返ってみれば、倒れた自分はぼうとして天を仰いでおり、周囲は指先の一節程度の深さの水に満たされていた。
 仰ぐ空の色は、黄昏の始まり。否、逆だ。正しくは、黎明の終わり。朱を駆逐する紺碧。西も東も判別できないのに、なぜか、そう確信できる。
 静かで心地よい。浸る水は体温に近いぬくみで背を撫で、青みを増していく空は、これから立ち上がって動きだそう、という意欲をかき立てる。ぜひそうしよう。そうするべきだ。なぜなら、私は生きている。
 ……いや、おかしい。何かがおかしい。
 【彼女】は恐怖と混乱で息を荒げた。
 なぜ、私は考えることができるのだ。私に何か許されることがあるなら、それは、ただ夢を見て微睡むことだけだったはずだ。密林の恐怖の権化であった自らを捨て去り、小さな殻の中で静止する。それが私の為すべきことで、自ら望んだことだったはずだ。
 それなのに、枯れ果てた躯体からだは水を望む。温みを失っていく水を全身で吸い上げ、艶やかに再生する。人間のものではない下半身がうねり、絡まり、天を目指す。背中に芽吹いた緑は葉を茂らせ、次々と花開く。
 やめて、やめて、やめて――。
 私は戻りたくないの。ここで眠り続けるのが正しいことなの。暗緑の闇の中で凄惨に笑む『敵対者』などに返り咲きたくはない。それは、『彼』の手の中にある限り、叶い続けるはずなのに。
 彼女は気付いた。空が青に染まっていくというのに、水は黎明の色のままだった。思わずすくい上げ、自分に見えるところで滴り落とす――頬に飛沫しぶくそれは、血、だった。
 全身が絶望におののく。思わず半身を起こそうとするが、浅い水底に縫い付けられたかのように動かない。いや、まさに縫い付けられているのだ。彼女自身の肉体から伸びゆく『根』によって。
 そしてヒトならざる彼女は、『根』が吸い上げるものの『味』を知覚していた。それは、かつての彼女が味わっていたもの。生命を奪った後に足元に打ち捨てた犠牲者を、『根』が貪った時の、昏い喜び。
 相反する感情を抱きながら、彼女は成す術なく、自身からあふれゆく緑の集塊を目にし続けた。
 だが、時を置かず、その表情は憎悪に彩られる。
 思考に紛れ込んだものがあったのだ。明らかに他者の記憶。彼女にとって、それが誰のものなのかは自明の理であり。
 記憶の中で感じられるものと同等の気配が、周囲にある。
 ――そうか。
 ――お前達が、『彼』を殺したのか。
 ――そして、この『森の女王』を愚かにも目覚めさせたのか。
 唇が、ゆるうりと、下弦の弧を描く。
 自分は人間に討伐されるだろう。人間達にとって、自分はあくまでも、樹海から這い出てきた『敵対者』に過ぎない。けれど、その前にやるべきことがある。周囲にはびこる『敵』どもを、一人残らず殲滅する。『彼』の仇は、『女王』を目覚めさせた愚昧さに対する報いは、私自身が下すのだ。
 そうと決まれば、もはや己の本能を抑える必要はない。
 今や、鬱蒼と茂る蔓は行き場を定め、縦横無尽に伸びていく。程なく、『殻』の外に伸び出て、現実の世界を侵食するだろう。
 これから始まる血の惨劇を想起して、彼女――かつてエトリア樹海の第二階層を掌握していた『森の女王』アルルーナは、冷酷な笑みを浮かべた。

 執政院に招待された街の要人達が事を知ったのは、後夜祭の最中だったという。
 会場を仕切る情報室長が、駆け寄って耳打ちする警備兵の言葉に驚愕の表情を浮かべ、執政院が襲撃を受けている真っ最中だと告げたとのことだ。襲撃中はもちろん、撃退した後も襲撃者が街中に潜んでいる可能性を潰さない限り、要人達を後夜祭会場内から出すことはできない。本来なら貴賓室に振り分けたいところだったろうが、なにぶん、会場である会議室はもっとも護りの堅い部屋の一つだ。憚りトイレや湯浴みの際は警護の兵士達と共に向かうとして、寝床に関してはさながら災害避難時のような宿泊を余儀なくされた。
 ――そこまで語ったキタザキ医師は、ドゥアトにはっきりと言葉をぶつけてきた。
「……情報室長の驚きは嘘だろう? いや、もちろん悪意を持って騙すつもりとは思っておらんよ。だが手際がよすぎた。あの会場に寝泊まりする手はずは既に整えてあった――つまり、今日何者かに襲撃されるということは、執政院では予想範囲内だった」
「……ご明察ね、名医殿」
「いつか襲撃があるかもしれない、という話は私も知ってはいたが。ほら、ファリーツェ君が諸官の前で『暴言』を吐いた会議だ。あの場に私もいたものでね」
「大変失礼なことをした、と反省していましたわ。呪術師われらが一族ながら普段は『言葉』の扱いが荒いところがあるもので」
「後で律儀にも皆に謝罪して回っていたよ」
 当時を思い出したか、キタザキ医師は懸命な若者を見守る笑みを浮かべた。それもごく短時間、医師はうつむき、その表情は陰鬱なものに変わる。発せられたのは、哀悼の言葉。
「お悔やみ申し上げる、叔母上殿。彼はエトリアのために最後まで敵の前に立ちふさがったと聞いている。できるだけ早く遺体を回収して、弔ってあげたいものだが。どちらかの神仏を奉じておいでか?」
「もともと我らは神を信仰しません。言葉われらが神ゆえに――と、先祖なら偉そうに申し上げたでしょうが、どちらかの神仏の御下に寄り添う必要があるなら拒みません。いかなる形の弔いでも、あの子を惜しんでくれる言葉には変わりありませんもの」
 そう語りながら、実感が湧かない、と呪術師の女は感じていた。
 彼の『死』を最初に知らしめたのは、目覚めた時に見た、刃物か何かですぱりと切られたかのように落ちた鈴。落ちた鈴の名札には、確かにファリーツェの名があった。
 ただし、その時のドゥアトは読み違えた。鈴は『死』のみを示すわけではなく、あくまでも『己の意に反して意識を失った』ことを示すもの。切り口も、それが急だったか緩やかだったかを示すだけ。まして従甥はエトリア屈指の聖騎士である。そもそも、エトリアの勝利は確定していた。それらの事実が彼女の思考を楽観的な方へと誘導したのだった。
「あらあら、もう、仕方ないわねぇ」
 と、容態の安定していたオレルスを、近場にいた兵士に託し、呪術師には見えないほどに軽やかな歩調で、執政院正面口へと下りていったのである。
 ――そこは、ドゥアトの予想外の凄惨場と化していた。ただし、彼女がやってきた頃には、遺体などはあらかた整頓されており、戦闘直後よりはまともだったわけだが。
 何よりも先に目に入ってきたのは、樹木と見紛う謎の植物であった。広間中央に根を下ろし、天井付近から四方に広がる枝を備えたそれは、よく見れば、無数の蔓が絡みあって樹木状となったものだった。そして、正面入口側の根元には、大きな球形のなにがしかが鎮座している。どうやら、花のつぼみのようである。
 その近くにいたのが、つぼみを興味深げに観察するキタザキ医師。後夜祭の客人でありながら、戦闘後の負傷者の手当や死者の衛生保全の応援を請われ、一も二もなく現場に駆けつけていたのであった。あらかたの作業が終わった後、このそびえ立つ樹をどうしたらいいものか、と考えていたところだったという。
 そこで、ドゥアトは己の楽観を大きく覆される話を聞かされたのだった。
 その樹が、従甥を苗床として現れ、育ちきったものである、と。
 どうしてそんなことになったのか、ドゥアトには理解できなかったし、もちろんキタザキも詳細については首を横に振った。彼はただ、目撃者である銃士ヴェネス・レイヤーの証言から、彼なりにあらましを再構成し、呪術師の女に伝えただけであった――なにしろヴェネスの証言は要領を得なかったのだ。それでも、現場にいた者の中では、少年の言葉が一番まともに状況を伝えていたのである。
 自身は当時、現場にはいなかった、と、キタザキが口にしたのが、後夜祭での出来事であった。
 話が流転し、従甥への哀悼の言葉に落着したところで、ドゥアトは、落ちた鈴の意味を悟った。しかし感情は、事実に付いていけずにいる。足掻けば事実を逆しまにできるのではないか、などという世迷い言に縋るかのように、彼女は、とある人物の名を口にした。
「……シャイラン、ちゃんは」
 よく従甥とつるんでいた女剣士の名だ。彼女なら従甥のもっとも近くにいたのではないか、と考えて。ヴェネスの言葉には彼の勘違いが含まれており、女剣士はもっとちゃんとした状況を知っているのではないか。
 しかし、期待は報われなかった。キタザキは天を仰ぐように言葉を吐き出したのだった。
「彼女は、執政院の剣士だった彼女は、もういないのだ。肉体の傷であれば死の淵ぎりぎりにまで手を届かせる自信はあったのだが、心の負傷はいかんともしがたい。むしろ、叔母上殿、あなた方に助けを請いたい気分だよ」
 ドゥアトは自分こそが心の傷に引き裂かれたかのような面持ちで首を振った。
 確かに呪術師は言葉と心の専門家である。だが、それはあくまでも『壊す』方特化。『治す』方もできなくはないが、肉体の傷でたとえるなら、せいぜい浅い火傷を水で冷やしてアロエを用意できる程度だ。
 さもなくば、周辺の組織ごと患部をえぐり取って、『『火傷は』なかった』ということにする程度。
 そんな乱暴な処置でもいいから、自分自身に施すことができれば。
 ドゥアトは文字通り、自らの心を掻きむしらんばかりに、己が胸元に爪を立てた。
 状況は確かに理解できず、目の前の樹木のことも何も分からないが、もはや『これ』だけは目を背けようもない事実。
 『ナギ・クースの末息子』は死んだのだ。周りにいた子達の心も巻き添えにして。

 個室の外から聞き覚えのある声がしたので、ヴェネスは身をこわばらせた。
 声の主は、ドゥアトと、キタザキ医師。そして、情報室長。
「どうぞ」
 入室を断る理由はないので、ヴェネスは応えを返した。
 姿を見せた三者は、一瞬、室内の様相に驚いたようだった。正確には、ヴェネスの周囲に展開される荷物の様相に。
 退去の準備で荷物をまとめていた最中だった。肉体の方には何の問題もなかったから、キタザキ医師の説得を振り払い、自室に戻って作業に取りかかっていたのだ。
 訪問者達の内心を先取るように、ヴェネスは言葉を発した。
「ボクの任務は終わりましたので、『組織』に報告に戻らないと」
「いや、しかし」
 と情報室長が狼狽え気味に返す。あるいは、銃士の少年がエトリアに残るつもりだと思っていたのかもしれない。
 ああ、確かに、今回の戦いの前にはそれも視野にあった。母絡みの都合で、残るかどうかは未定だったから、今同様に荷物を全てまとめることに変わりはなかっただろうが。
「そんなに性急にならずとも。エトリアとしてはもう少し君の滞在を許す程度の余裕はあるんだ」
「やはり今回の戦いによる影響も心配だ。施薬院で検査を受けて、問題があったら治療を受けてから――」
 室長に続けてキタザキ医師が言葉を発する。
 何が、戦いの影響だ。嘲る思考はキタザキではなく自身に向けたもの。
 肉体的には何もない。精神的な話でも、そんな影響を受けないよう、自分達『組織』の銃士は訓練を重ねてきた。目指すのは依頼主の提示した目標の達成のみ。それ以外の何ものも、銃後の民も、同僚も、場合によっては自身の生命でさえ損なわれても、眉根一つ歪めないのが『組織』の構成員の在り方だ。
 それなのに、『たかが』聖騎士一人死んだだけで、この様か。
 ……ああ、違う。本当に正しい在り方に至った『組織』の構成員は、このようなことを考えすらしないはず。
 結局のところ、自分は、ただの未熟な子供に過ぎなくて、だからこそ今までも、ひび入った己の心に悩み、あの人を失った責任に苦しみ、そして――すがる先を探している。早く『組織』に戻り、頭領に報告をし、敬愛する師にあらましを語りたい、と今までのように思っている。
 あまりにも愚かしい。この事態を招いたのは、その師だというのに。一度依頼を受けた相手の敵対組織には関与しないという掟を破った師が、聖騎士を撃ち抜いたがためなのに。 
 だから、目の前の大人達が、甘えたくなる言葉を掛けてくれるより先に、
「問題ありません。この任務が完了したら、次の任務が控えています。だから、早く戻らないと」
「次の、って、ヴェネス君、あなた、今回の任務で自由に――」
「そのつもりでいましたが、新たな任務が発生しましたので」
 彼らにも自分自身にも、有無を言わせないように、ここで繋がりを断ち切る。
 ただし、『新たな任務』というのは、まるっきりの嘘でもなかった。だからこそ、発した言葉は相応の説得力ちからで彼らの口をつぐませたのだろう。
 その『威力』は、特に『言葉の力』に敏感なドゥアトには覿面てきめんに響いたようだった。おそらく一族の中でも最も力を持つ者の一人であろう呪術師は、銃士ごときの言葉に己の発言を断ち切られ、浮いて散ってしまった言の葉をかき集める術もなく立ちすくんでいる。ヴェネスにとっては最も強敵となるだろう『甘い言葉』を封じられたことは、目論見通りではあったのだが――自分を心配する母を思わせる、寂しそうな瞳を前に、心が少し揺らいだことは否めない。だからだろうか、余計な一言を付け加えてしまったのは。
「心配しないでください、ドゥアトさん。ファリーツェさんの仇は……我が師バルタンデルは、この手で倒しますから」

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-66

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