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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・65

 突然の惨状の前に金縛られた状況を、初めに揺り動かしたのは、聖騎士の傍で座り込んでいた女剣士だった。呆然とした表情のまま、立つことすらままならず、ようやく這々はいはいを覚えた赤子にも似た頼りない動きで、仰向けで天井を見つめる聖騎士の傍ににじり寄る。己が片手を聖騎士の胸に添え、揺さぶるも、力は弱く、発する声もまた弱かった。
「うそ、うそ。うそ、うそ、うそ――」
 あるいは、彼女は現実ではなく悪夢を見ているだけだと認識――否、『防衛』しているのかもしれない。
 女剣士以外の兵士達は、『防衛』すらできなかった。目前の光景が何を意味しているのかを認識できたが早いか、意味のない悲鳴を次々に上げ始めた。ある者は最後の力を振り絞って立ち上がり、別の者は四つん這いのまま全力で、どちらもできない者も一ミリでも遠くへと、広間に倒れる『それ』から離れようと試みていた。近くにいれば自分達にも死が降りかかる、と怯えるかのように。
 戦闘中の統制が紛い物であったかにも思える、散りゆく蜘蛛の子の群。その様を上階から見下ろすヴェネスの脳裏には、かつて耳にした、一つの言葉が蘇っていた。

 ――お前は歴戦のパラディンだ。第二階層で迷子になって死にかけたヘマは、ずっとエトリアでの笑いぐさになるだろうが――それでも、お前が英雄にもっとも近いギルドの一員、なまじな魔物が束でかかっても揺らがない鉄壁の盾だとも、永く語り継がれるだろうよ――

 ああ、そうなのだ。ギルド長ガンリューの言葉は、まさしく事実を指していた。
 聖騎士ファリーツェを好く者も、嫌う者も、英雄に近き者として崇敬する者も、間抜けとして鼻で笑う者も――その全ての者に共通した認識があったのだ。
 彼が『なまじな魔物が束でかかっても揺らがない鉄壁の盾』であり、エトリア執政院の守りの要のひとつであったこと。
 その鉄壁の盾は、ここに砕け果てた。
 この場に集いし全ての者を、好悪かかわらず一枚の防御壁として束ね上げた要石。失われれば全てが瓦解するは必定。
 そして――さらなる状況の悪化が発生した。
 床に転がる敵どもの幾人かが、正気を取り戻し始めたのだ。
 一度は失敗しかけた任務を成功に導く好機だ、と判断したのだろうか。エトリア勢の混乱の様を鑑みれば、現時点で動けそうな数名だけでも、広間を突破し、呪詛で弱ったオレルスを殺害することなど、まさに蟻を潰すようなもの。若長の傍にはドゥアトがいるはずだが、呪術行使の後で疲労しているであろう彼女が、従甥への信頼の虚を突かれて無事でいられるかどうか。
 ならば、自分がここで動かなくては……。
 銃士の少年は己が武器を構える。銃身は小刻みに震え、とっさに照門の向こうに捉えた敵、戦闘中に盾の攻撃を腹部に食らって動けなくなっていた鞭使いに狙いが定まらない。
 そもそも無様なことに、弾丸の装填を忘れたままということにすら気付いていなかった。
 三十ほど数えきった頃には、動ける敵は悠々と執政院の奥へ消えるだろう。戦意を失った兵士達を密やかに嘲笑いながら。
 ……しかし。
「……!?」
 敵とは別の動きが発生したために、ヴェネスの意識はそちらに逸れた。
 それは、現状には場違いな色だった。
 鮮やかな緑。この場に『緑色』が全くないわけではないが、ヴェネスの視界に入ったそれを凌ぐ色彩はない。例えるなら、エトリアの樹海迷宮に初めて足を踏み入れた際に知った、緑の真価。
 それはファリーツェの胸元から表れた。正確に述べるなら、もう少し上、首元の鎧の隙間から、保護された小動物がひょっこり顔を出すかのように、その姿を覗かせていた。
 樹海探索をある程度こなした者なら、一度くらいは見たことがあっただろう姿。
 ――『世界樹の芽』。
 『芽』を見たことがなかった銃士の少年は、色以外に特別な感慨を抱かなかったが、それも一瞬のことだった。
 ほぼ無音ではあった。強いて言うなら葉擦れの音だ。にもかかわらず、その場にいた者達は、轟音を擬態語として感知した。
 ほんのわずかな間に、その緑は、圧倒的速度で成長を遂げたのだ。苗床のようになっていた遺体を覆い隠したものは、無数にも見紛う蔓の群体。天井まで達するほどに伸びたそれは、鞭がしなるような音を立てながら、四方八方に先端を伸ばす。
 戸惑いの声と怒号が次々と上がり、間髪を置かず、悲鳴と断末魔に置き換わった。
 悲鳴はともかく、断末魔を上げているのは、全てが侵入者だった。偶然なのか、何らかの手段で選別しているのか、蔓は侵入者達を残らず(とヴェネスには見えた)捕らえていたのである。
 正気を取り戻して動こうとしていた者も、瀕死の重傷を負っていた者も、死体ですらも。
 展開されたのは、おぞましい処刑の儀式。
 四肢を別々の蔓に捕らえられ、別々の方向に引きちぎられていく者がいた。
 首を絞られ、顔を鬱血させゆく者がいた。
 無数の太い棘を持つ蔓に巻き付かれ、足元に血溜まりを作りゆく者がいた。
 穴という穴に蔓を侵入させられ、嬌声にも似た悲鳴を上げ続ける者がいた。
 悲鳴も断末魔も上げられぬ死体さえ、猫になぶられる獲物ですら幸運に思えるほどに、執拗な攻撃を加え続けられていた。
 今のところ、エトリア兵達は誰一人として『処刑』の対象にされてはいない。だが、繰り広げられる凄惨を目の当たりにして、正気を保っていられる者がどれほどいるというのだろう。
 ただヘラヘラと笑うしかできない者。
 聖騎士の死を前にしたときよりも必死に逃げようとする者。
 床に突っ伏し、何も見ていないとばかりに身を丸めて震える者。
 いずれも逃げの姿勢を見せる中、自分も攻撃されると思ってか、蔓の根元に無謀な攻撃を仕掛ける者がいた。蔓の一本がその兵士に向かって伸びてきたのをヴェネスは見たが、どうすることもできなかった。ヴェネス自身の方にも蔓が向かってきたからだ。
 ――忌まわしい臭い……。
 そんな声を聴いた気がした。
 喉奥から引きつった声を吐き出しながら、現実から逸らした目は、別の現実に相対することとなった。件の兵士は蔓に巻き付かれ、地獄に引きずり込まれるような叫び声を上げていたのだ。同時に自分も叫んでいたに違いない。自分も同じようになるのだ、と恐怖する思考に囚われていた。
 だが、蔓は、泣き叫ぶ兵士を、ぺいっ、と放り投げただけだった。
 床に叩き付けられた兵士は相当に痛いだろうが、『処刑』に比すれば段違いに穏当な扱いだった。
 そして、自分に迫ってきていた蔓も、興味が失せたかのように引き下がっていった。
 間違いない。この地獄の樹めいた蔓の群体は、明らかに敵味方を識別している。エトリアは一応味方で、侵入者が敵だ。ひとまず安堵するべきなのだろうが、ちっともそんな気になれない。侵入者の屍を生らせたそれを、どうして『味方』と思えようか。
 だが、この怪物は、聖騎士を苗床として出現した。何故か。
 あくまでも、その時点でのヴェネスの推測である――おそらくファリーツェは切り札として樹海の魔物のなにがしかを忍ばせていた。自分が力及ばず斃れた際の保険として。自身の屍を媒体とし、自分の遺志を反映して駆動する生体兵器をだ。
 ――我ながら荒唐無稽でたらめな推測だ。敵に対してとはいえ、このような残虐すぎる振る舞いを、あの聖騎士が望んだとは思えない。そんな狂った話を考えついてしまうのは、目の前の光景から逃避せんがための自己防衛なのだろうか。
 数多の屍を下げ、首吊りの樹のようにも見える蔓の群体の周囲で、もはやヴェネスを含めたエトリアの生き残り達は、悪夢よ早く醒めよとばかりに顔を覆い、己の視界を闇に閉ざすくらいしかできなかった。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-65

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