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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・62

 それまでヴェネスが動かなかったのは、満を辞して戦闘行動に移ろうとしたまさにその時に、状況が大きく動いたからである。すなわち、毒によって味方が一人害され、それまでの陣形が大きく崩れたところであった。
 戦場ではどんなことも起こりうる。ヴェネスは慌てたりしなかったが、攻撃に移るのをしばらく待つことにした。銃は音が大きい。味方が混乱している今、その音は大きなストレスとなり、どんな悪影響をもたらすかわからない。『過充填射撃』は別格として、通常の射撃もそれなりの音がするのだ。
 ようやく落ち着いた眼下の人の群れは、決闘でもしているかに見えた。赤い点と青い点が、おおよそ三対二の割合で入り乱れ、その周囲を青の点の群が見物人のように取り囲む。
 ……ふと、ヴェネスは、点の様相が今までと――エトリアでの活動のみならず、ずっと銃士として活動してきたこれまでと、少し違うことに気がついた。青い点が二つ、微細な光の砂を帯びていたのだ。
 その程度のこと、戦闘態勢に入ったヴェネスであれば、今までなら気にすることはなかったはずだ。しかし今回のヴェネスは、その差異の理由を考えた。思い当たることがあって、横を見た。視線の先には、先程までなら髪の長い野伏の姿が見えたはずだが、今は、色褪せた背景に青い点が存在するようにしか見えない。そしてその点もまた、微細な光をまとっていたのである。
 ああ、そうか、やはりそういうことか。
 ヴェネスは得心した。きっと、ドゥアトや『組織』の師バルタンデルがこの場にいたなら、同じように見えただろう。
 なぜそう見えるようになったのか、理由は分からないし追求する意味も今はない。少なくともこれからの作戦行動に、この見え方は何の益も邪魔ももたらさない。
 ただ、思った。もしも力及ばず、皆を守り切れないとしても――せめて彼らだけでも、全力で。
 戦闘に臨むヴェネスが抱くには異質な思考だった。今まで彼は、戦闘においては全てを平等フラットに見ることで、最適な行動を選択し続けてきた。それが今、初めて偏りを受け入れたのだ。
 この状況が吉凶の天秤どちらを傾かせるか。現時点では定かではない。そも、ヴェネスはそんなことを考えなかった。彼を知る第三者からは異質な変化でも、彼自身にとってはほんのわずかに決意の方向性が変わっただけでしかなかったから。まして、行動そのものは今までと何の変わりもない。
 いつもとは『少しだけ』違う心境で、いつも通りの戦いをするべく、ヴェネスは銃を構えた。
 狙うは――青の点の壁を備えた闘技場、その中央。

 主戦場から離れた場所にいるドゥアトだったが、もちろん彼女が安穏としているわけではない。
 彼女には彼女の為すべきことがあり、その助けとなれる者はエトリアには誰もいない。孤独な戦いになるだろうが、呪術師の女にとっては『いつものこと』だった。
 現在地は執政院長の部屋、すなわちオレルスの私室である。かつてファリーツェが貼り付けまわった偽呪符プラシーボは健在ながら、その対呪詛能力はもはや敵呪術師の力を押し止められていなかった――元から、ただの紙であるが。いまやオレルスは、かつて前時代を荒らし回ったという花冠熱もかくやの高熱に打ち倒され、かすかに呻きながら病床に伏すことしかできない無力な長であった。
 本来なら今すぐにでも相手の呪力を妨害し、長を苦痛から救い出すべきだ。しかしドゥアトは静かに佇むだけだった。
 執政院に招聘されながらも何の役にも立てない、腕の悪い呪術師。先だっての呪術探査でも相手を見つけることができず、今も手をこまねいていることしかできない、無様なカースメーカー。それが今の彼女。
 黒幕は思っているだろう。
「エトリアも哀れなもの。長の病を前にして何もできず、混乱の隙に暗殺者の襲撃を受け、むざむざと国体を破壊される羽目になるのだ」と。
 彼らは勝利を確信している。暗殺者が政務の中心を破壊しながら長の命を狙う。それが叶わずとも呪術師が呪殺を狙う――呼ばれたエトリア側呪術師は呪詛返しもおぼつかなさそうである。だから、正面口と裏口で執政院の兵士達が健闘しているのも、『混乱の中よくやるが、無駄な足掻き、時間の問題』と見なしているだろう。
 すでに身体から離して壁面に下げている、知らせの鈴のいくつかが、超常の力で飾り紐を断ち切られ、からころと床に落ちていく。ドゥアトが最初から全力で権能を振るっていれば、そのうちの半分くらいは健在のまま、戦は早々と終わっただろう。
 それでも。彼女は動かない。
 敵が油断したその刹那、呪術という牙を露わにし、確実に敵を葬るために。
 勝利した、という確信を抱いたその瞬間、敗北に一気に追いつめられることが、人にとっては最も痛手であるがゆえに。
 敵がどんな者かは判らない。判るのは、それなりに腕が立つ呪術師であることだけだ。
 呪詛そのものを目にすることは不可能ながら、感知するカースメーカー達の意識は、時にそれに形を与えることがある。ドゥアトの脳裏に形作られたそれは、オレルスの枕元に座る老人の姿だった。その老人を、本人を、ではないが、ドゥアトは見た記憶があった。ファリーツェがくれたエトリア記念銀貨に彫刻されていた姿だ。
 ……そういえば、初対面時の『ご挨拶』を振り払われたときも、一瞬、この姿を感知したような気がする。
 老人の虚像はオレルスの額に右手を当てたまま、今は動かない。表情が穏やかなら、看病をしているようにしか見えなかったに違いない。しかし今の姿は、何か大事なものを奪っていった相手に向けるような、険しい容貌であった。
 呪詛の形は、どうしてか、掛けられた者の心の中の引っかかりが影響した姿であることが多いのだ。生前の老人本人の考えは知らない。だが、オレルスは、自分の前任者に当たる彼について思うところがあるのだろう。
 気にならないと言えば嘘になる。しかし今はそれどころではないのも事実。
「さぁ、どう出てくるつもりかしら」
 老人の姿をした呪詛の動向に注意を払いつつ、ドゥアトは状況の転変を待った。

 正面口広間では、執政院兵士達の囲みを突破しようとする暗殺者達と、それを阻止しようとする手練達の、競り合いが続いている。
 囲む兵士達だけを勘案するなら、暗殺者達の突破行は容易かったに違いない。兵士達は暗殺者の毒短剣を警戒、否、恐怖している。盾を連ねて壁と為し、その陰に身を潜め、震えをどうにか抑えている。それだけなら、盾を乗り越え、兵士達のうなじに毒刃を突き立ててもいいし、無視して執政院の奥を目指すのも自由だ。
 だが、それは同時に致命的な隙を生む。執政院側の手練達に背を向けることとなるためだ。結局のところ、暗殺者達は執政院側の主力を倒さねば先に進めないのである。あるいはそれも、裏口側の味方を目的まで通すための時間稼ぎ、と割り切ったか、暗殺者達は執政院側主力に向き直り、毒刃をきらめかせた。
 だが、総勢十二名の手練は怯まない。少なくとも表面的には。
 それどころか、である。ファリーツェは剣を鞘に納めると、握った右拳から立てた親指の先を、己が首の右筋に当ててみせた。そのまま首を掻ききるかの動作で一気に左筋まで動かす。浮かべた笑みはエルナクハのそれを参考モデルにしたものだが、他人にはちゃんと不敵に見えているかどうか。後ろでシャイランがぼそりと呟いた「ファリーツェさん挑発苦手じゃないですか」という評価には、「後ろからじゃ渾身の笑みも見えまいよ」と内心で反駁しておく。
 笑み云々はともかく、挑発は成功したようだ。暗殺者達は一斉に毒刃を構え、聖騎士に襲いかかってきたのである。もちろん全員一直線にではない。ある者は正面から、別の者は回り込み、さらには体勢を低くとる輩もいる。
「後ろ補助、頼む」
了解アイ騎士殿サー
 素早く背中合わせに円陣を組み直す手練達の中で、短く言葉を交わし合うファリーツェとシャイラン。目は敵から離さず、むしろその視線で焼き切らんばかりに睨め付ける。
 刹那、金の髪が幾筋か舞い上がった。
 まさに紙一重、正面から向かってきた敵の仕業だ。刃をまっすぐ突き込んでくる、と見せかけ、寸前で切り上げてきた。ファリーツェはわずかに上体を反らすことで、髪の数筋のみを犠牲にしてそれを切り抜けた。実は読み切っていたわけではなく、まぐれである。左手横合いから切り込んできた敵の方が少し速く見えたため、そちらに対処するために少し体勢を変えたのが、結果的に功を奏した。横の敵がいなかったら、正面の敵の攻撃は直線的なものだ、と、顔を切り裂かれるその瞬間まで勘違いしていたに違いない。
 肝の冷える思いをねじ伏せ、反射的に対策を取る。
 剣はまだ鞘の中だったが、聖騎士には盾さえあればよい。左手の盾の一撃が横合いの敵を薙ぎ払い、固いものを何本かまとめて折りきったかの音を奏でる。その時には、ファリーツェの髪を下手な散髪で幾分か台無しにした輩は、隣にいた兵士ウィンザルトが意趣返しとして前髪を両目ごと寸断していた。
 敵が二人、無力化された。しかし、数はまだわずかに執政院主力より多い。しつこくも突き出されてくる刃を、兵士達は刃で止め、盾で払い、間に合わねば鎧の厚いところで受けた。
 刃を剣や装甲で受けきったのごとき金属音が、八方から耳を穿つ。生々しい呻き声も数種類混じっていた。その中の一つが見知った者のそれであることに気付き、ファリーツェは眉根をひそめたが、すぐにどうこうできる状況ではなかった。
 極小の時間での交差の後、敵はひとまず飛び離れて間合いを取り、執政院側の円陣の外を反時計回りにじりじりと移動し始めた。さらには不定期な緩急と、前後それぞれ二歩ほどの範囲内の前後移動が混ざっている。次の攻撃がどの位置を起点とするのか悟らせないためだろう。……時間稼ぎ主体なら、このまましばらく攻撃してこない可能性もあるが。
 上階から弓使い達の攻撃が降り注ぐが、練度が低い彼らには、緩急のついた移動を行う目標は荷が重いようだった。一本だけ、一人の敵の後頭部に吸い込まれるように飛来したのは、間違いなくボランスの矢だろう。だが、その敵が踊るように後ろに回り向き、短剣を薙いだことで、矢は鏃とそれ以外に分かれて床に落ちた。恐るべき技量、だが、あの矢を切り伏せるにはタイミングも味方しなくては難しかっただろう。どちらかでも欠けていれば敵がもう一人無力化できたものを。
「警戒、頼む」
「……アイ。サー」
 ……? シャイランの返答の歯切れの悪さに、先程の呻き声も相まって嫌な予感を覚えつつも、ファリーツェは敵意の群から視線を外す。
 人間大の茶色い塊が五つ、床の血溜まりの中に転がっていた。二つは痛みに痙攣する敵、残りは既に生命なき暗殺者達の残骸。これで、約半数を落としたはずだ。
 しかし、やはり喜んでいる場合ではなかった。別に二つ、鈍色の塊が転がっていたからだ。
 執政院の全員を覚えているわけではないから、その二人がシャイランが引き連れてきた者達というのは分かったものの、名を知っているのは片方だけ。兵士テトラーグ、ファリーツェのことがどうしても気に食わないらしく、事あるごとに絡んできた男だ。正直、目の前からいなくなってくれないかなぁ、と辟易したこともある――だからといって、毒刃で全身を紫に染めて息絶えてしまえ、なんて思ったことなど――
 怖気が雷光のごとき瞬速で背筋を駆け上っていった。樹海で敵対者F.O.Eに気付かないまま遭遇する瞬間のよう。
 シャイランが自分の名を呼ぶのを感知したが、それよりわずかに早く、ファリーツェは己の勘の命じるままに盾をかざした。金属同士が奏で合う硬質の音が、直感が正しかったことを伝えてくる。
 間断なく四方からも金属音。今度は嫌な呻き声は聞こえなかった。いや、自分が他所に意識を向けるどころではなかったからかもしれない。
 盾越しに爛々と輝く双眸と、聖騎士は対峙していた。瞳の奥に見出すは、激しく燃える殺意の炎。だというのに敵意ねつは感じられない。さながら、ただ相手の生命を奪うためだけに作られた罠の表面に装飾された宝石。その輝きが、これまで感じていたことに確信を抱かせた。
 やはりこいつらは、高度な訓練を受けた暗殺部隊だ。どこかの国が世界樹の迷宮の利権ほしさに襲撃を仕掛けている、というのは間違いあるまいが、ちょっと羨ましいから手を出した、程度のものではない。大戦を経た各国が握手をしながら護身武器の在処に思いを馳せているような状況下で、虎視眈々と暗器を研ぎ続けた輩の、満を辞した雄叫びだ。
 そうなると、真っ先に浮かぶのは、叔母が呪術感知で割り出した範囲内にも入る、故郷、『王国』。
 そんなはずは、と思う。もちろん、『王国』にも暗殺めいた真似のできる特殊師団がいるのは知っている。見たこともある。けれど、先王ならともかく、現王がこんな真似をするはずがない。
 ――いや、詮索は後だ。そうでないと……!
 その先の思考がはっきり形になるより前に、ファリーツェは自分の死角からおぞましい気配を感じた。
 視界の端に鈍く光るものは、毒をふんだんに孕んだ短剣に違いない。それが、鎧の隙間から自分を刺し貫こうとしているのだ。
 気を散らしている場合ではなかった。慌てて盾をかざして隙間を守ろうとする――だが、それは叶わなかった。左手首に綱状のものが巻き付いていたからだ。
 『綱』すなわち鞭の柄を持つのは、左手方面に位置する別の敵。短剣以外の武装を持っている者がいるとは。しかし想定してしかるべきだった。現に自分がそれに絡め取られ、満足に盾を使えないでいる。もちろん、力尽くで振り払えなくもないが、それを実行しようとしたが最後、自分は体勢の均衡を崩し、正面の敵にあからさまな急所を晒すことになるだろう。
 逃れようもない死のあぎと。形になった思考と、現状に対する隠喩たとえが、ぴったりと重なっていく。それは、さながら大鰐の閉じゆく口に噛み砕かれるかのように――
 途端、ぱん、と乾いた音がして、目の前の敵の頭が弾けた。
 頭皮を苗床として彼岸花が紅鮮やかに咲き乱れ、敵の上半身に花弁を散らしていく。瞳から炎の輝きを失った敵は、力なく床に伏した。
 ようやく、ヴェネスが動いたのだ。いや、『ようやく』などと考えてしまうのは失礼だろう。――周囲に壁を展開している兵士達の幾人かが、『過充填射撃』ほど激しくはないとはいえ、普段聞き慣れない音に、身をすくめているのを見た。状況次第では、彼らは銃の音に過剰反応して後先考えず逃げ出したかもしれない。銃士は銃士なりに、そういった影響も加味して『機』を計ってくれたのだろう。
 そこまで思考を働かせたのは、稲妻がひらめくがごとき刹那のことだった。圧縮された思考の中でひとつ定めた行動指針が、考えるより先にファリーツェの身体を突き動かした。
 狙撃された敵の持ち物だった短剣を拾い上げ、ピンと張っていた鞭を断ち切る。弾みで体勢を崩した鞭使いの腹部に、追い打ちとして盾の下辺を叩き付ける。胃液のようなものを吐き出しながら倒れる鞭使いは、当分は動けないだろう。
 混戦で誤って味方に当たらないよう、毒付きの短剣を放棄したところで、襲撃者がまたも距離を取るのを見た。
 もう、人数を数えるのも容易い。残敵は七。狙撃された者と盾で打ちのめした鞭使い、他一人が無力化された計算になる。
 こちらの被害は――。
「シャイラン、頼む」
 しかし、返事がない。
 瞬間で危機を察した。テリアカβをポーチから引きずり出しながら急いで視線を動かすと、悪い予感通りだった。シャイランは二本の足で辛うじて立ってはいるものの、その全身は悪寒に震え、目は焦点を結んでいない。傷も出血もファリーツェからは見えないが、毒刃を喰らったのは明らかだった。
 耐えられているのは、彼女が樹海探索経験者で、ある程度の抵抗力があるからだ。だが、放置していれば確実に生命はない。毒だけならいずれ消滅するかもしれないが、それ以外の危機が周囲にはあるのだ。
 早くテリアカを、と薬を持つ手を伸ばしかけるも、そこで敵がまたも行動に移った。
 盾をかざして身を守るのは容易だ――ただし、自分だけが。シャイランは見殺しになる。
 かといって、彼女を守るなら自分の防御ががら空きになるだろう。後に残るのは毒で弱った剣士。その他兵士も決して弱者ではないが、戦力が櫛歯欠けるように消えていけば、いわゆる『ジリ貧』に落ちていく。
 ヴェネスの行動も間に合わない。間に合ったところで敵の全てを止められるわけではない。
 思考そのものは音速を超えるが、時間は確実に動き続け、危機は刻一刻と迫っている。
 そんなとき、甲高く響く音が耳を打った。
 本来、こんな状況では聞こえるはずがない。懐にしまい込んだはずの鈴の一つが、途中でちぎれた紐を引きつつ、ころりと転げ、床を叩いた音だった。
 その時、ファリーツェの脳内では何が想起されたのか、自分でもわからない。ただ、思考内を一瞬駆け巡った稲光に打たれ、聖騎士は鈴の紐先をつまみ上げた。
 見えざる刃で薙ぐかのように振り払われた鈴の音と共に、放つは文言。
『「この程度で勝ちを確信するか、下郎ども」』
 ただ一歩、踏み出しただけだ。威嚇のために勢いよく足を振りおろしはしたが、あくまで人間の力に過ぎない。
 だというのに、刺客達は足を止めた。
 樹海の三竜の歩みを垣間見たかの怯え。戦闘に入ってから初めて浮かんだ、彼らの表情。しかし、想起された何かに突き動かされたファリーツェには、その様は見えていなかった。
『「我らの一人を害するに、貴様らの生命をいくつすり減らしてようやっとだ?」』
 盾の下辺を床に打ち付ける。もちろん、ただの人間の力でだ。
 だというのに、刺客達は頭を抱え、膝から崩れ落ちた。竜の爪が至近の地面をえぐり取る様を目の当たりにしたら、似たような動作をするかもしれない。
『「それでエトリアを侵す気でいようとは、片腹痛い!」』
 再び薙いだ鈴が、しゃらり、と音を立てた。
 耳を塞いだ刺客達からすれば、聞こえるかどうかのその華奢な音も、竜の咆哮に聞こえているのだろうか。
 だとしたら。
『「畏れよ、我を! 畏れよ、我らを! 畏れよ――エトリアを!」』
 文字通りの騎士の鬨声は、竜の息吹ブレスに相当したに違いない。
 否、これは鬨声ではなく。
 そこでファリーツェは我に返った。
 ようやく、敵の変化に気がつく。今まで無表情に近かった敵が、今や明らかに恐怖の表情を浮かべ、床に爪を立てている様を。すでに自身の立て直しにかかってはいるものの、元通りの刺客に『戻る』には、しばらくかかるだろう。
 自分が何をしたのか、そも、脳内で想起されたものが何だったのか、すでに当人は理解していた。

 かつて、銃士ヴェネス・レイヤーがエトリアを訪れた日のこと。
 金鹿の酒場の奥の部屋で、ファリーツェが彼に告げたことがある。

「俺は呪術師の血を引いているけど、今のように、呪力はもう使えない。ごくたまーに、気まぐれみたいに発現することもあるけど……十年前、聖騎士としての道を歩き始めた俺は、呪術師としての力をほぼ失ってしまった」

 そのはずだったのだが。
 時の彼方に置き去りにした、生まれながらの力。その気まぐれが、まさに今、危機を救ったのだ。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-62

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