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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・63

 その後の展開は一方的だった。
 最も大きな影響は、市街巡回隊がようやく帰還したことだろう。さして大人数ではなかったが、先にファリーツェが敵を挟み撃ちにする一助として数えていた隊である。この時点での敵を一蹴する助けとするには十分だった。
 ヴェネスはその様を、自身の銃撃地点から見下ろしていた。
 彼は警邏に出ていた一隊を知らない。個人的に見知っている誰かがいたとしても、今の彼には青い点にしか見えない。――そのはずだったのだが、巡回隊の最後方にある点の一つが、件の微細な光をまとって見えたのだ。
 誰なのかまでは、今は識別できない。ヴェネスはその点も、『味方の中でも特に注意を払うべき者』の枠に入れるに留めた。
 そして、改めて赤点に銃口を定め、躊躇いなく穿つ。
 その時には、先程までおっかなびっくりであった弓兵隊も、勢いよく弓を鳴らし始めた。敵が動きを鈍らせたことで、練度が低くても命中の目が出てきたのだ。そして威力は高低差が補助してくれる。様々な有利点に後押しされた彼らは、臍を噛みながら見つめるしかなかった味方の犠牲への贖いを迫るべく、獰猛な獣の襲撃もかくやの勢いで矢の雨を降らせた。
 赤点が次々と消えていく。七つを数えられたものが、六になり、五、四、三は瞬く間であった。それが二に減ったときには、多数の青点に囲まれ、もはや挽回の策はないように見えた。
 ヴェネスの出番は不要だろうが、油断は禁物。最後の赤点が消えるまで、彼は銃を眼下に向け続けるつもりだった。
 ……ただ、一瞬だけ、気をそらしてしまった。
 赤点の回りに集まる青点。そんな中、一つだけ、光をまとった青点――おそらく巡回隊の一人であるあの点が、ぽつんと離れて入口付近に居続けていたのだ。
 訝しくは思ったが、見張りと考えれば怪しいわけでもない。今のところ『彼』の周囲には赤点もない。安堵と同時に、自分の仕事を思い出して、慌てて目線を元に戻した。幸い、その一瞬で状況が暗転している、などということはなく、緊張を嘲笑うかのように、残っていた赤点もあっさりと消えていった。
 エトリアは、勝利したのだ。
 とはいえ、勝利の美酒を味わう間などなく、残る青点は慌ただしく動き始める。三分の二ほどが、次々と執政院の奥へ流れていった。別の戦場や貴賓達の様子を見に行ったに違いない。
 しかし、残る青点達はさほど慌てる様子はなかった。うろうろ動いているのは、いわゆる後片付けだろう。敵が全員死んだわけではないだろうから、生きている者は縛り上げ、後の尋問のためにも命繋ぎ程度には手当てをしてやる必要がある。
 こと、執政院入口に関しては、当面の危機は去ったと見てよさそうだ。
 青点みかたの幾人かは消えてしまったが、一番守りたかった、光をまとった青点は、全員健在だ。ひとまず、よかった、とヴェネスは思い、自らの暗示を解くべく、精神集中に入った。

 それより若干の時間を遡る。
 執政院長の私室。第三の戦場では、呪術師と、かりそめの姿を得た呪術との、にらみ合いが続いていた。
 ただし一方的なものだ。呪術師が状況の転変を見逃さないように緊張を孕んでいるのに比べ、老人の姿を見せる無形の力は、その様を歯牙にもかけない。
 ドゥアトはただ見守っていただけではない。時折は鐘鈴を振るって『力』を励起させ、老人に手出しを試みていた。だが、老人はオレルスを見つめ、右手を彼の額に当てたまま、残る左腕をもって『力』を弾き飛ばす。
 一連の戦いは、第三者から見れば、鐘の音だけが響く静寂の演奏会でしかなかったが、ドゥアトにとっては自らの精神力を減らしていく、現実の戦いそのものであった。
「この『力』じゃ……やっぱ、だめなのね……」
 疲れ果てた声音でひとりごちたドゥアトは、次の瞬間、瞠目した。
 それは、おぞましい笑顔だった。左腕しか動きを見せなかった老人が、不意に頭を巡らせ、ドゥアトを見据え、顔に相当あたる箇所を笑む形に作り上げたのだ。先程までは視覚できていた瞳は失せ、目のあたりには虚ろな空洞がふたつ、残されているだけだった。鼻の隆起も平坦になり、縦長の穴がふたつ見いだせるだけ――すなわち、頭蓋骨に薄い霊体がかぶせられた印象を与える、この世のものとは思えない姿に成り果てたのである。
 ドゥアトの脳内に形作られただけの虚像が、そのような変貌を見せる理由はひとつ。呪力の変質だ。
 ドゥアトの攻撃をはじき返す以外には動きのなかったそれは、いまや、動かぬまま周囲に傷と病と死を振りまく、感知みため通りのまがつモノ。狼狽する間に、呪術師の女は、脳内でも形を与えられない無色の泥にまとわりつかれていた。皮膚から滲み入るような寒気が呪術師の肉体を侵食していく。
 ところで、『病』という状態は何によって引き起こされるか。『細菌』なる存在がここ数十年で発見され、少なくともメディック達の間では常識になっている。無論、病の原因となるのはそれだけではないが、試験で点数を与えられる回答ではある。
 だが、それら『病の原因』は原因であるだけ。真に病を引き起こすものは、『病の原因』すなわち異物に対抗するべく奮い立つ、体内の生理反応そのもの。そして――『病の原因』が今ここにある、と、肉体に誤認させられれば、当然ながら肉体は病を引き起こすのである。
 オレルスを襲い続け、今まさにドゥアトをも毒牙にかけようとしつつある呪詛が、それであった。
 身体が燃える。同時に凍る。肺が空気を取り込むことを拒絶したがる。
 オレルスを襲っている呪詛を凌駕する悪意。敵はドゥアトについては殺意の牙を隠そうとしていない。当然と言えばその通り。今後エトリアの長を生かして扱いたいにしても、守りを剥いでおきたいのは理解のうちだ。ドゥアトは今回限りの雇われではあるが、敵にはそんな事情は判るまい。
「……まさか、こんなことが……!」
 ここまでは作戦通りだったのに。懸命に対処するも敵わない力不足の呪術師の振りをして、敵の油断を誘うつもりだったのに。
 敵呪術師の力は、想定外だった。
 姉を相手取るつもりで準備を行ってきたものの、ここまでの力で襲撃を掛けてくるという可能性を低く見積もってしまっていた。
 空気を求めながら喘ぎ、咳き込み、身体を支えるだけの力も失った肉体を床に転がして、呪術師の女は頭を垂れた。
 第三者が室内にいたならば、それはドゥアトの敗北宣言に見えただろう。防ぐはずだった呪術に無様にも冒され、当然ながら守護契約を果たすことなどできはしない。その結果が、三大呪術師一族のひとつの高名を地に堕とすがごとき、今の自分の醜態ざまだ。
 こんなことなら、無理してでも、従姉レイにこちらを頼むんだった。
 先約大事、大親友の頼み、ではあるが、従姉への依頼者ミッタなら、ドゥアトが代わりに行くと言っても納得してくれただろう。従姉も、最終的には首を縦に振ったに違いない。ファリーツェに会いたいのは彼女も一緒のはずだから。
 そして、従姉なら、こんな醜態をさらすこともなかったはずだ。
 痛む頭に両手を当て、髪を掻きむしりながら、呪術師の女は歯ぎしりする。熱死か、窒息死か、普通の病ならありえない、呪いによる不可解な死か。自分を待ち受ける運命を前に、自身の迂闊さを呪いながら――。

 ――なーんて、ね。

 敵呪術師の力は、想定外だった。
 ――ええ、思ったよりは強かった。でも対処できないわけではない。
 ここまでの力で襲撃を掛けてくるという可能性を低く見積もってしまっていた。
 ――ええ、見積もりは低かった。だからといって無視するいわれはないし、対処する余裕がないわけではなかった。
 無理してでも、従姉レイにこちらを頼むんだった。
 ――ええ、『相手が相手』だから及び腰になっていた。
 従姉なら、こんな醜態をさらすこともなかったはずだ。
 ――ええ、レイなら遊びなく片付けた。自分あたしとは違って『情はかけない』。
 いや、従姉にこんな『汚れ仕事』を押しつける方が愚行だ。ここは自分が、片付けなくてはならない。
 頭皮すら諸共に引き剥がしかねない勢いで頭髪を幾ばくか引き抜きながら、ドゥアトはわらう。鬼女のごとき様相だろうが、鏡は遠いから気にならないし、それどころではない。
 引き抜いた頭髪を両手に握ったまま、ゆらりと立ち上がる。
 ゆっくりとはいえ、高熱と呼吸困難に苦しむ者が、立ち上がるなどできようがない。
 否、こんな呪い、本来ならはね除けられた。先にも述べたが、味方の犠牲から目を反らし、呪術の戦いを引き延ばしていたのは、意図的なものだ。確実に敵呪術師を葬るために、ドゥアト自身に呪詛をかけさせ、油断させると同時に、彼我の繋がりを強めようとした。
 その過程でちょっとした想定外に気付いたので、必要以上に苦しむことにはなったが。
 だが、もう迷うものか。ここまでも、これからも、『作戦通り』だ。
 ドゥアトは引き抜いた自身の髪を束にして口に含む。髪は呪物としては基本のものだ。それだけに、適切に使えば呪詛の成功率を引き上げる。その髪が、自らの体内に残る敵の呪力に結びつく様を想起しながら、鐘鈴を鳴らし、告げる。
『「行け、我が身の恨み、我が身の蛇よ。熱には熱、風には風、死には死を――ここに等価交換は成れりペイントレード」』
 つるり、と、麺か何かであるかのように、口内の髪は喉奥に落ちていった。髪束を呑むなど嘔吐えずきそうな行為だが、呪術下にある行為は通常では考えられない結果を見せる。
 ここから先は、老人の姿から変じた呪詛同様、ドゥアト以外には不可視の領域である。
 呪術師の女の胃に消えたはずの髪が、ひゅるると音放つつむじ風の勢いで、すぼめられた彼女の口から飛び出した。呑んだ方も長くはあったが、それを遙かに超える、数十メートル、数百メートルはあろうかという、途切れなく伸びる翠の髪。それらは闇狩人ダークハンターの鞭使いも感嘆する正確さで、おぞましい霊体の頭に、手に、身体に、ぎちぎちに巻き付いていった。
 抵抗する時間は、ごく短かった。絞りに絞られた霊体は、苦悶の表情と共に、霧となって散り果てた。巻き付いた髪も同様に消え去った。
 そして、ドゥアトは己の意識野に、断末魔の叫びが響くのを感じた。
 痛みと苦しみを訴え、近しい者に縋る、甲高い『声』。
 それも、数瞬と経たぬ間に、轟と吹きすさぶ呪力の残滓と共に、消え失せた。
 …………
 ……
 ……かち、かち、かち、かち……
 これまで意識はしていなかったが、部屋のどこかにある、時計の振り子が奏でると思しき定間隔の音が、聴覚に染みこんできた。その生活音を、たっぷり六十を数える程度堪能した後に、呪術師の女は、ようやく、安堵の息を吐く。
「……どうにか、終わったわね……」
 執政院ラーダで起きている戦いのひとつ、長の私室での戦いは、どうにか勝利の女神の微笑みを見ることができた。
 死ぬかと思ったほどに味わった、身を侵す熱もままならぬ呼吸も、きれいさっぱりと消えていた。いや、そもそも最初から起きていなかったかのようだった。この数ヶ月を呪病に悩まされたオレルスも同様だったらしく、これ以上ない安らかな寝息と寝顔で、一日を安寧と充実の内に過ごした者が夜に味わえるであろう、夢の園の旅へと向かっているのだった。
 ただし、それは肉体的なことに限る。
 床に伏していた若長はともかく、戦っていたドゥアトは、精神的な負担が半端なかった。
 実のところ、それだけが想定外だった。
 本来なら、自身の身をも切る作戦だったとはいえ、もっと楽な対処ができたはずだった。そして、事を済ませた暁には従甥達の戦いに馳せ参じることもできただろう。
 自分に甘さがなければ、戦いでそれをさらけ出さなければ。もはや、今さらと言うしかない。
 敵の呪術師が、何かと引き換えに志願してこの戦いに加わったのか、あるいは何かを質に強制されて呪術を仕掛けてきたのか、今となっては知りようもない。偶然だったのか、敵の甘さを搦め手として狙った人選だったのかも、答を知ることは永遠にないだろう。
 ……いや、既に葬り去った敵のことを、こんなにも気に掛けてしまうこと自体、甘いのだろう。
 とにかく、疲れた。
 ……それから、どれくらい経ったのか。いつの間にか、精神疲労回復のためにうたた寝に入っていたようだった。
 ある程度回復したためか、執政院を包み込む重苦しさが減少しているのが判る。
 若長の様子も、平穏そのもの。ひたすら、静かに眠り続けている。
 それらが示す状況を具体的に喧伝する声が、扉越しにかすかに聞こえる。
 ――勝利! 勝利! 我らエトリアは、正体不明の敵団体を撃破せり! 被害多数なれど、貴賓に影響なし!
 被害多数。確かに、飾り紐を断ち切られて床に転がる鈴が、最後に把握したときより若干増えている。それは残念だったが、従甥、銃士の少年、明るい剣士の少女をはじめとした近しい者の分は、健在のままだった。
 ああ、手放しでよかったとは言いがたいけれど、どうやら、招聘ばれたことが無駄にはならなかったようだ。
 ふふ、と優しい笑みを浮かべ、呪術師の女は目を閉じた。危機が去ったのなら、もう少し休んでもいいだろう。ああそういえば、この部屋の鍵を掛けたままだ。長の無事を確認できずに皆やきもきするだろうが、従甥に渡した鈴の中にはオレルスに紐付けられたものもある。彼がそれを確認して、皆を安心させてくれるだろう。
 ドゥアトの意識は、今度こそ、安心して休める夢の中へと沈んでいった。
 完全に沈む寸前、ちりん、と鳴る鈴の音を聞いた、ような気がした。 

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-63

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