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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・58

 笛鼠ノ二十日。降って湧いたお祭りの、最終日。
 その日の始まりは、それまでの祝祭開催日とさほど変わらなかった。強いて違うところを探すなら、割引セールを行う出店が非常に多いということくらいである。重い在庫を担いで帰路には就きたくないからだ。
 もう少しエトリアに残るつもりの者としても、自分の商品が相対的に高価になってしまえば売れなくなってしまう。そのため、商品の独自性に余程の自信がある者以外は、周囲に併せざるを得なかった。
 待ってましたとばかりに目当ての店に群がる客達、数日前から目星をつけていたはずの物がとっくに売れていたと知って消沈する者達。悲喜こもごもの争乱は、本来なら数日もすれば笑って話せる類の騒動に過ぎなかった。
 沸き立つ群衆の中を縫うように歩く、一人の若奥様がいた。ときどき立ち止まる様は、群衆の隙間から値打ち物を見定める体にも見えたが、売り場には結局近付くことなく、やがて人だかりを抜けた。
 堂々とベルダの広場を抜け、執政院へ続く道へと足を踏み入れる彼女を、見咎める者はなかった。そもそも彼女のことを気にしてすらいなかった――群衆達に限って言えば、だが。
 呪を使い、正面口の見張りに声をかけられることすらなく、しれっと執政院にお邪魔した呪術師。今更敢えて呪を使ったのには理由があった。
 彼女を半ば苦笑いを浮かべながら出迎えたのは、従甥に当たる聖騎士と、その雇われの銃士。
 軽い挨拶を交わした後、若長の臥せる部屋に向かいながら、ドゥアトは若干声量を落とした言葉で『理由』を語る。
「監視、されてたわね。視線が痛かったわ」
「やっぱりか……視線が痛いって、呪術師どうぎょうしゃかな」
「遠隔呪術で誰かと視界を共有してるのかもしれないわね。逆に言えば、その間は若長に呪を掛ける余裕はないと思うけど」
「……だからなんだね。今朝は熱が嘘みたいになくなって、久々にすっきりしたーとかおっしゃってたから」
「決まりね。とりあえず、『目の前』でバカみたいに呪まで使ったから、向こうはこっちが気付いたとは思ってないんじゃないかしらね。……裏の裏までかかれたらそこまでだけど」
「助かる」
 監視者自体に何かを仕掛けたら、相手の行動予定が変わってしまうかもしれない。予測の上で迎撃態勢を整えているエトリア側としては、いらない被害が増えかねない事態は避けたいところだ。
 ドゥアトには、そのまま執政院内でオレルスへの呪術に備えてもらうことになっている。
 聖騎士と銃士は街に出た。閉会式まではいつも通り、街の警邏を行うつもりだった。
 眼前に広がるベルダの広場。熱気に沸き立つこの光景も、明日からだんだんと冷えていくだろう。
 一応、今後のエトリアのことも考えてはいたが、もともとは街中に旗を張り巡らせるためだけにねじ込んだ祭りだった。隣都市の祝祭に便乗するという強引なものだった。屯所で防衛室長と話し合う少し前に考えたように、そして最近も叔母と語り合ったように、この祝祭に持続性はない。けれど。
「こう見ると、なんか胸に来るなぁ」
 理由はともかく、自分が企画し、各所に頭を下げ、急ごしらえながら形にしたもの。それが失われていくのが、悲しいのかもしれない。
 あるいは、今度はムツーラに便乗するのではなく、共同という形で何かの催しをするというのも、ありだろう。そう考えると、いろいろと夢は膨らむ。
 が、今現在、現実にやらなくてはならないのは、これまでの日々と同じ仕事。二人は生真面目に業務に取りかかった。
 報告書に記されるであろう結果から言えば、『本日特記事項なし』であった。もちろん細かいところではいろいろとあり、小悪党を捕まえたり、親とはぐれた子供を屯所に連れていったり、その件を街頭喧伝者タウンクライヤーに触れ回って貰ったり……その他諸々である。
 閉会式まであと二時間を切った、午後四時頃。街頭喧伝者タウンクライヤーが、保護した子供の一人、赤毛の少年について触れ回っている。大分早い時間に保護したはずの少年なのに、まだ保護者が見つからないのか。広場の片隅のベンチで軽食飲料片手に小休止していた二人は、喧伝の特徴と合致する少年のことを思い出し、懸念を抱いた。だがそれもつかの間、喧伝者の下に男女数名の団体が駆け寄り、何かやり取りした後に走り去ってからは、もう迷子についての喧伝はなかった。どうやら今のが保護者達だったらしい。
「ああ、よかった。とりあえず心配事を残さないで終われそうだ」
 心底安堵し、ファリーツェは今しがた口にした茶の暖気と共に言葉を吐いた。夏の熱い盛りとはいえ、軽食の方がよく冷やされた果物だったので、冷たくなった口内に温かい茶が心地よい。
 ふと見やったヴェネスの顔が驚愕に彩られているのに気づいて、慌てて首を振る。
「いや別に、思い残すことはないとかそういう意味じゃないから!」
 銃士の表情は、融けるように緊張を失っていった。しかし蕩けきることはなく、瞳の中には氷の欠片に似た冷たい光が残っている。
「よかった……でも気をつけてくださいファリーツェさん。そういうことを口にしていた人が任務中に亡くなるのを、何人も見てきました」
「むぅ……」
 聖騎士は鼻白む。
「忠言、感謝する。でもね、ヴェネス」
 やにわに両手を伸ばし、銃士の両頬を掴んだ。
「俺は冒険者。冒険者の信条は、不吉な予感しぼうフラグは踏み倒すもの』だ。もちろん過信は禁物だけど、言葉尻を掴んでまで人の心を萎えさせたりすんな。今からそんなことじゃ、『本番』で十分に活躍できないかもだよ?」
「それは、そうですが……」
 ヴェネスが口ごもるところに、ファリーツェは追い打ちのように笑んだ。
 とはいえ相手の言うことももっともである。目の前の安堵に浸って緊張を失っていれば、『本番』で、黄幡旗ふきつの影を見ることになろう。そう思いつつ、心の裡で己の精神に鞭を入れた。
 それ以外では、これから大ごとになるとは思えない程に穏やかな時間だった。
 その後、小一時間ほど仕事の続きを行ってから、二人は執政院に帰投した。
 執政院内部は喧噪の中にあった。閉会式の準備や襲撃への備えもあるが、それ以上に慌ただしいのは、閉会式後に街の重鎮を招くパーティの準備である。
 戦場にするつもりの場所でふざけているようだが、理由はある。パーティを口実にエトリアの重要人物を一箇所に集め、万が一にも襲撃が飛び火しないように守ろうという魂胆であった。
 幸い、会場となる会議室は、一都市国家の見栄を張って作られたため、必要以上に頑丈に作られている(なお壁の中の土嚢は突貫で充填された)。部屋の入口が突破されるか建物ごと崩されるかでもなければ、中にいる人間に被害が及ぶことはそうそうないだろう。
 防衛室長が直属の配下に警備の指示をしているのを横目に、バルコニーに繋がる待機室に足を向ける二人。
 窓から差し込む赤み始めた光の中、そこにヴィズルがいるのかと一瞬錯覚した。
 オレルスが己の立ち振る舞いの確認をしているところだった。病臥中でも四六時中伏せていたわけではないが、介護の手を必要とせず、自らの足でしかと立っているのは久方ぶりであった。しかしながら、その様、威風堂々。背筋の伸び方からして、祭典の開会式の時から、格段に変わっていた。これから樹海を巡る荒波に巻き込まれようとする街を、その双肩に背負おうとする、鋼の支柱。とはいえ、
「ああ、二人とも、よく戻った」
 笑みの中には、若干の緊張が見え隠れする。そこだけが、よく知るオレルスを感じさせ、少しばかりの安堵を抱かせる。
 近くの壁際では、ドゥアトが身体を寄りかからせ、目を閉じていた。もちろん眠っているわけではなく、敵呪術師の新たな攻撃に備えている。
 オレルスは、今は元気だ。が、予測通りなら、襲撃の直前で再び倒れる。その時こそが彼女の独壇場だ。
 邪魔をしないよう、小声で「よろしく」と呟くと、ファリーツェはヴェネスと共に改めてオレルスに向き合う。
 長の手に収まる懐中時計が、閉会式の時間に向けて、規則的で硬質な呟きを吐き出していた。
 互いの緊張をほぐすかのように、他愛のない世間話を繰り広げるうちに、時間が来た。ヴェネスには上階の小窓から不審者に対応してもらうことなっており、自身はオレルス以下閉会式要員と共にバルコニーに出た。
 ……正直な話、閉会式のことを、ファリーツェはよく覚えていない。はっきり覚えているのは、眼下に広がる人々の高揚した顔と、この中に街への害意を持つ者が紛れて機を待っているのかもしれない、という憂鬱さである。後に待ち受けているはずの戦いに、気持ちが引きずられていたからだろうか。
 式が終わって、オレルスの後を付いてバルコニーから引き上げ、背に住人達の歓声を浴びて、ようやく大きく息を吐いた。閉会式後には執政院から皆に祝い酒が振る舞われる手はずになっていたはずである。
 壁際に寄りかかっていたはずの叔母を見ると、先程は閉ざしていた目を開けてこちらを見ており、軽く口角を上げている。警戒自体は解いていないにせよ、とりあえずは敵はまだ何の行動も起こしていないようだ。
 次にヴェネスを探して頭を巡らせる。ちょうど上階から降りてきたところとおぼしき彼は――まるで人形。
 その無表情さを目にしていると、ようやく持ち直した心を虚無の穴が浸食していく気分に陥りそうだ。無邪気で少し気弱なところのある『弟』と同一人物だとは思えない。
 それともこちらが本性なのか。いや、故郷に置いてきたという母親について語る様を思い出すに、そうとは思いづらい。それでは、まさか。
「――アト叔母さん!」
 悲鳴のような声を上げてしまった。呼応した叔母が、何事かと言いたげに駆け寄ってくる。
 しゃらじゃらしゃらじゃら、と、大量の鈴を身に着けているかのような、繊細でいながら耳朶を激しく掻きむしる音がした。
 声と鈴の音に、休憩がてら情報室長と打ち合わせをしていたオレルスをはじめ、周囲にいた者達が、すわ来るべき時が来たのか、と色めき立つ。
 ヴェネスと目線を合わせて腰を落とし、様子を確認していたドゥアトだったが、やきもきして様子を伺うファリーツェに笑み返し、再び銃士の少年に向き直って。
 ぺちり、とその額に手刀を軽く落としたではないか。
「いつまでお仕事してるの、ヴェネス君。気が保たないわよ」
 ひ、と空気を誤飲したような無声音が、少年の喉奥からはっきりと聞こえた。数度の瞬きの後に現れた瞳は、いつもの、年相応より少しだけ幼く見える少年のものだった。自分の『変質』についてはっきりと自覚しているのだろう、取り繕うように慌てた様子で言葉を紡ぐ。
「いや、あの、すみません……。ボク、自己暗示の解除に、失敗しました……」
「自己暗示? なんだ……」
 ほっとした。てっきり敵呪術師の攻撃を受けたのだと思っていた。冷静に考えれば、ドゥアトが落ち着いているのだから、件の敵呪術師は動いていないはずなのだが。
「でもファリーツェちゃん、今の反応は正解だわ」
 ヴェネスの髪をぐしぐしと撫でながら、ドゥアトは称賛の言葉を口にする。
「今回のヴェネス君には呪術の気配はなかったけど、あたしが注意してるのとは別の呪術師がいないとも限らないから。少しでも変な様子を確認したら即座に対策を考える。大事なことよ」
 ヴェネスを撫でる手が平手での軽い叩きに変わる。
「で、ヴェネス君は、ちゃんと『戻って』これるようになさい。正直、今の暗示は『かかりすぎ』だわ」
「すみません、久々だったので。次はちゃんと」
 返答の代わりに呪術師の女は微笑み、銃士の少年の肩を軽く叩くと、様子を伺う表情をしながら近付いてきたオレルスに寄り添うように立った。オレルスは、要人を集めた後夜祭に少しだけ顔を出した後、自室で待機する手はずになっている。そんな彼の呪術的守護としてドゥアトは付き添うのである。
「気をつけてね」
 呪術師はそう言い残して、長に従い、待機室を辞していく。しゃらしゃらという鈴のような音は、もはや耳を騒がすほどではない。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-58

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