←テキストページに戻る
ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・59

 残された者達が暇ということはなく、防衛室長の怒号の下、執政院各所に走らされる羽目となった。
「急げクソども! ちんたらするんじゃねぇ!」
 声にならない悲鳴を上げながら、兵士達が自分の配備場所に駆けていく。
 場所の割り振り自体は、例の、飲み会に偽装した作戦会議で通達されている。それを思い出しつつ、ファリーツェとヴェネスも所定の場所に足を速めた。
「しかしなぁ……」
 防衛室長から十分離れた場所で、ファリーツェは不満の声を漏らす。
「なんで俺が、正面口の警備なんだろう」
「『ウルスラグナ』に次ぐ樹海探索の功労者サマには、せいぜい街のお偉いさんたちを出迎えるお人形さんになってもらうとするさ」――というのが、防衛室長の言い分であった。その言い方には腹も立つが、冒険者時代にいろいろと世話になった街の人々を感謝と共に出迎える役目、任されたなら力及ぶ限り果たしてみせよう。
 だが――出迎えならば文官でもできる。
 後には危機が待っているのだ。ならば聖騎士である自分は、鉄の守護として、危機が現れる可能性の最も高い場所で盾を構えるべきではないのだろうか。事実、防衛室長自身は、その場所――森の迫る裏口付近を自らの守護地として定めているのである。
 こんなときに気に入る気に食わないなどと言っている場合ではなかろう。騎士一人より二人の方が確実な守護となる。少なくとも、経験の浅い兵士を頭数だけ揃えるよりは。
 ちなみに、『おさわがせトラブラス』の聖騎士であるアダーは、食堂の『裏口』に配備されている。シャイラン以外の仲間も彼と一緒だ。『仲間はずれ』にされたソードマンの少女はといえば。
「あ、ファリーツェさん! それにヴェネス君!」
 正面口仲間だったりする。
 ヴェネスと並んでファリーツェの愚痴を拝聴したシャイランだが、
「あはは、ファリーツェさん、『飲み会』のときも不満げな顔してましたもんね」
 と笑いながら、したり顔で持論を披露したものである。
「まぁ防衛室長がちゃんと説明しないのが悪いんですけどねー。でも正面から『敵』の皆さんが来る可能性がないとも言い切れないですし。後夜祭に参加する人達に紛れてくるかもしれませんし」
「……シャイラン、それ本気で言ってる?」
「……すみません。あまり本気じゃないです」
 ……単なる慰めに過ぎなかった。
 余人に紛れて侵入するというのも、侵略者の手段だ。それくらいは想像が付く。とはいえ、後夜祭の参加者は限られている。招待された要人達と冒険者としての付き合いがあるファリーツェとシャイランであれば、仮に『敵』が参加者の誰かに化けてやってきたとしても、そうむざむざと騙されまい。『敵』がそれでもこの手段を実行するなら、やはり裏口からの侵入を助ける陽動として、だろう。結局、正面口一同は戦いの本筋から外された形になる。
「まぁ、いいんだけどさ……」
 半ばいじけた口調でぼやく聖騎士に、女剣士は苦笑交じりに言葉を返した。
「あれでも防衛室長、ファリーツェさんを結構買ってると思うんです。こういう配置なのも、裏の裏のそのまた裏を掻かれたときの用心だと思いますよ」
「……かなぁ」
 なんにせよ、もう一つの役目の手を抜く気はない。ヴェネスを除く二人は、正面口に割り当てられた他の兵士達と共に、生真面目に表向きの職務を遂行し始めた。冒険者時代の経験エピソードを取り混ぜた、短いながらさりげない会話の中から、相手の反応を確認し、違和感がないかを探る。二人にわかる限りでは、皆何かしらの形で会ったことのある人物だったし、怪しい点は何もなかった。
 なお、馴染みの彼らの中に、数十年単位でエトリアに根付いた敵側の手合い、東方の暗殺者達の符牒で言う『草』がいるという懸念も、あるにはあった。そのあたりは情報室総出で様々な記録を照合してもらい、可能性は極めて低い、というお墨付きを得ている。もしもその極小の可能性に当たってしまった場合は――正面口組にはどうすることもできない。
 そして、表向きの『やること』がなくなった。
「やっぱり俺も裏口に行こうかな……」
 といいつつもファリーツェがそれを実行しないのは、口先とは裏腹に、先のシャイランの『あまり本気じゃない』言葉を重く見ていたからだった。後夜祭の出迎えが終わっても、戦いはまだ終わっていない。ただの陽動だとしても、こちらが手を抜いていれば、それは本隊に等しい刃となるだろう。結局のところ、根本のところで彼は生真面目なのであった。

 執政院ラーダの正面口と呼ばれている場所、在りし日には冒険者達が当時の情報室長オレルスと面会をした広間は、交差穹窿ヴォールト構造の吹き抜けで、高さはおおよそ一般的な住宅の三階程度となっている。入口からは少し長めの回廊を抜けて至る場所で、入口方面から見た正面には世界樹を象ったようなレリーフと、神格を感じさせる壮年の男性の正面顔を象った黄金の円盤が飾られ、祭壇にも似た黄金の台座が設えられていた。樹海迷宮を得たエトリアが執政院を増築するにあたり、それらしい『箔』をつけたものだと思われる。
 広間から延びる進路は幾つかある。
 まずは入口から見て左右に延びていく、吹き抜けの廊下。兵士の屯所や市民向けの設備など、比較的『外』向きの施設を抱えながら、執政院の一階の外周付近を巡る。奥に行くと、増築前の古い執政院の名残が現れ、天井もぐっと低くなってくる。長の執務室や、ファリーツェやヴェネスが泊まり込んでいる部屋はこの付近に当たる。
 そしてレリーフの両側を回り込むようにある左右一対の階段。レリーフの真裏にある踊り場で一度合流し、踊り場に設置された扉から、執政に欠かせない各『室』の事務室や、貴賓室、会議室を孕む区間に続く。本来なら長の執務室になるはずの部屋もこの区間にあるのだが、先に述べた通り、オレルスも、前長ヴィズルもこれを使わなかった。ちなみに件の古い執政院には、この区間の奥からも行くことができる。
 そして、踊り場での逢瀬を最後に、広げた翼のように互いから離れ、上階に延びていく階段は、二階に至り、一階の吹き抜けの廊下と併走する通路となる。所々の開口部から外周部の廊下を見下ろすことができる。バルコニーや待機室も、この二階通路から行くことができた。
 ヴェネスが待機しているのは、この二階通路、正面口広間にほど近い開口部の傍である。正面から見て左手側の方だ。ちなみに正面口を挟んで対称となる右手側には、ヴェネスからは見えないが、レンジャーのボランスが身を潜めているはずだ。
 左手眼下には、正面広間が見える。右手側のいくらかは、吹き抜け廊下の向かい壁で遮られているが、台座のあるあたりを含めてそれなりの広範囲を視界内に収めることができた。
 見下ろす広間には人の群れがある。
 群れがある、と述べた。現在のヴェネスにはそれ以上の感慨が湧かない。しかも、『人』であることは知識として把握できているだけであり、今の彼には色の付いた単なる点集合にしか見えない。
 明らかな味方は青。どちらに転ぶかわからない者は黄。敵だとはっきりした者は赤になるはずだった。が、それが現れる気配がないまま、黄点が青点に変化して執政院の奥に吸いこまれていく。遂に、人の群れはほぼ消滅した。残るのはいくつかの青点だけである。

 ――で、ヴェネス君は、ちゃんと『戻って』これるようになさい。正直、今の暗示は『かかりすぎ』だわ。

 先程、ドゥアトに言われた言葉が脳内をこだまする。
 なのに、眼下の点は、人の姿に戻ってはくれなかった。
 暗示自体が解け始めているのは確かだ。だからこそこうして、色々なことを考え始めている。硝子の檻の中でいろいろと考えながら、雨に打たれて灰色になった外界を見ている、そんな感覚だった。
 だが、さっきもそうだったが久々のためか、上手く戻れてくれない。
 違う――正しくは、戻りたく、ないのだ。
 敵である赤点を射貫いて回るのは自分の任務だ。初めて単独で任務を任されたある日、任務が終わったと自己判断し、いつものように暗示を解いた。その翌日から、ヴェネスは暗示をなるべく長く維持するようになってしまった。
 幸いにもまだ罪もない弱き者が蹂躙されているわけではないエトリア。長く滞在しているうち、ひび割れた心も少しずつ救われていたように思う。けれど、それも終わりだ。自分は敵と判断した者を射貫かねばならない。もし暗示を解いたとき――目の前にあるのが、見知った者の屍だったとしたら。
 頭ではわかっている。赤点は遂に現れなかった。わかってはいる。それでも、自分の意識は現実を見るのを拒絶している。
 ――何をしているんだ、ヴェネス・レイヤー。さっき「次はちゃんと」と口にしたばかりだというのに。
 渦巻く感情の板挟みとなって動けないヴェネスは、外から見れば表情を失った人形のように見えるだろう。
 先程もそうだったに違いない。さっき自分を見たファリーツェの表情を思い起こし、あんな顔をさせてしまったことを悲しく思う。もっとも、今目の前に同じ表情を突きつけられても、何の感慨を抱くこともできないだろう――彼のことはただの青点にしか見えないだろうから。
 そう、思っていたのだが。
 ごう、と風が吹いたような気がした。理論的に考えるならおかしい。ここは屋内だ。外部から風が吹き込むにしてもそうそう届くまい。
 その先に思考を進める前に、甲高く澄んだ音を無数に立てて、何かが砕けた。
 硝子の檻が、粉々に崩れて消え失せていた。
 その檻は、ヴェネスの脳内でだけの概念だった。そのはずだったが、ヴェネスの周囲を取り囲む状況は、劇的に変わっていた。
 点にしか見えていなかった人々の姿が、通常通りに戻っていたのである。
 実は、今回が初めてではない。それはまだエトリアに来ることなど考えもしていなかった頃、『組織』の狙撃手としてあった頃に、何度かあったことだ。
 それは決まって、敬愛する師バルタンデルが相方だった時だ。彼が呼びかけてくれた時だけ、ヴェネスは安心して暗示から解放されることができた。そうでないときは誰の声もヴェネスの深層には届かず、暗示は自然に『解けてしまう』のを待つしかなかった。その結果、初めて暗示を自己解除した時と同じ衝撃を受けることも、幾度か。
 しかしエトリアに師はいない。では、何故?
 要因を探して頭を巡らせたヴェネスは、階下の回廊に人の姿を見た。青点にしか見えないであろうことを嘆いた相手、山吹色の髪と晴れた冬空色の瞳の持ち主だった。
「ヴェネス! しばらくは落ち着けそうだ。次に備えて休もう」
 呼びかけてくるその姿に、ヴェネスは遠くにあるはずの師の姿を幻視した。
 思えば初めて出会った時から、似た色の髪と瞳ということで、師を重ねていたことを思い出す。
 その瞬間から好意はあった。憧れを抱き、不快には思われたくないと必死に振る舞っていた。自分は雇われの銃士、必要以上に馴れ合うべきではないのに。
 昨日か一昨日かに、エトリアへの移住を誘われ、ぎこちない応えになってしまったのも、そんな心情を抱えていたからだ。母の意見が大事だというのも嘘ではないが。
 そうして、雇い主の聖騎士は――。
 自分の中で、敬愛する師に肩を並べる程に大事な、安心できる存在になっていた。
 ヴェネスは大きく息を吐くと、聖騎士に呼びかけた。
「今、行きます!」
 名は呼ばなかった。名を呼んだら気がおかしくなってしまいそうで。それはある意味、恋に似ていたかもしれない。あくまでも感情の昂り様の相似を指しての話だが。
 しかしヴェネスは未だに『組織』の銃士でもあった。一歩一歩聖騎士との距離を詰めるごとに、自分の心が静かに冷えていくことを自覚した。自分達が未だに戦場のただ中にあることを思いだしたからだ。今は小康状態に過ぎないのである。
 それでも、心は光を見つめていた。
 この任務が終われば、自分には様々な道が開けている。病気の母の面倒を見ることは確定事項だが、それをどこで、どうやって成すかに、『組織』で目の前しか見られなかった時に比すれば格段の選択肢がある。
 そして彼自身は、母が頷いてくれるなら、ここエトリアで過ごせたらいいな、と考え始めていた。任務での数ヶ月という短い時間だったが、街にも街の人々にも(薄壁一枚挟んでとはいえ)大分馴染んだ。実際に住み、深く踏み込むようになったら、今まで気付かなかった嫌なことに直面するかもしれないが、それはそれ。
 戦人として感情を沈静化させはしたが、『これから』を思うヴェネスは、いつになく高揚していたといえよう。
 だが――光の裏には影が潜む。
 喜びは程なく後悔に変わる。聖騎士が師に等しく大事な存在になっていたことを認めてさえいなければ、今後の状況は真に彼の望む方に変わっていたかもしれない。
 もはや道が望まざる方に決したことに気付くことなく、ヴェネスは慣れ親しんだ人に走り寄る仔犬のように、聖騎士の傍に駆け寄った。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-59

NEXT→

←テキストページに戻る