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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・47

「……おば……さん?」
 ドゥアトの方を見上げてはいるが、明らかに焦点は合っていない眼差しで、ぼんやりとした言葉が返ってくる。
 やれやれ、とドゥアトは肩をすくめた。
「ひとまずお仕事終わったから、眠りたいんだけど。あたしのお部屋、どこかしら?」
「部屋? ……あ、ああ、そうだった。ごめん。迎えを呼んでくるから、待ってて」
 迎え? ドゥアトは内心で小首を傾げた。執政院内じゃないのかしら?
 正気だったらその場で問いただすところだったが、あいにく今のドゥアトは睡魔との戦闘中であり、しかも敗北の淵に転がり落ちていた。寝室に行ける、と意識の片隅に刻印が成されたその瞬間、彼女はすとんと意識を手放してしまった。最後の抵抗で壁に寄り添ったため、無様に倒れることこそ防げたが、その壁に背を預け、ずるずると座り込むことになったのである。

 そんなドゥアトを、ファリーツェはどうやって宿まで運ぶつもりだったのか。
 実は、彼は宿の手配をしたその足で二輪莚車リクショー――いわゆる力車――の待機所に赴き、車と車夫をあらかじめ手配していたのである。本来は多少の金がある者のための施設だが、樹海探索後半頃には、小金を持った冒険者達が迷宮の入口まで向かうために使うこともままあった。
 聖騎士が執政院の外に出ると、少し前に到着していたのであろう車夫が、執政院傍のの段差に座り込んで煙管をふかしているところだった。その傍に停まる莚車は一人乗りの小型だったが、いかにも乗り心地よさそうなものだとは、見た目にも明らかだった。
 ファリーツェは車夫に声を掛け、執政院に招き入れた。入眠寸前(実際はもう眠っているわけだが)のドゥアトを二人がかりで莚車に運び乗せるためである。
 莚車が長鳴鶏の宿に着けば、そちらではアレイが万事仕切ってくれるだろう。

 エトリアの祭典は、開催から一月が過ぎようとしているところだったが、熱気は未だに衰えることはない。
 遠方から噂を聞いた者達の来訪はますます増え、その中に含まれる商人や職人のおかげで出店の種類も増えた。ちょっとした世界博覧会の様相を呈してきた祭典ではあるが、参加者のほとんどにとっては、とにかく楽しめればいいのだ。
 ヴェネスには、吟遊詩人達の演目が増えてきたのが嬉しいことだった。外国に出るのは任務の時だけだった彼にとっては、聴くもの皆新鮮な話ばかりなのだ。
 何度か、ベルダの広場の片隅でヒロツが演奏していたのを見た。旅人達から聞いたのだろう、滅んだ都市ゴダムや波間に消えた国アーモロード、西方の果てタルシスなどの歌を吟じていた、様々な地域から人が集まっているとはいえ、さすがに滅亡都市や遠すぎる国からの者はおらず、歌の原作であるべき情報は又聞き、信憑性は若干低い。だが、繰り返しになるが、聴者にとっては楽しめればいいのだ。
 そんな熱気の中、不届き者もまた多い。
 一年の第二月に当たる、笛鼠ノ月。その朔日ついたち
 昼餉の時間を若干過ぎた頃合いに、ヴェネスは、長鳴鶏の宿の屋根裏部屋を借り、少しだけ開いた小さな窓から、小型の三脚に設置した単眼鏡越しにベルダの広場を見ていた。うつぶせの状態で、青い長銃を構え、銃口は窓から少しだけ出している。小さな溜息を吐いて、引き金を引いた。くぐもった音は、ざわめきに紛れ、広場の者には聞こえなかっただろう。
 財布を摺ろうとした不届き者を発見したので、警告用の弾丸――ペイント弾から塗料を抜いて水を詰めたもの――を打ち込んだのである。
 突然の衝撃に、盗人はきょろきょろと犯人を捜し始めたが、ヴェネスが見つかるわけもない。弾丸の残骸も、極めて流動的な周囲の人混みに蹴り飛ばされ、どこかに行ってしまった。その間に獲物も見失い、盗人は気を殺がれたのだろう、がっくりと肩を落として去っていった。
 その様を見送って、ヴェネスは安堵する反面、陰鬱な思いを息にして吐き出した。
 自分がやるべきことは、小悪党の排除ではなかったはずだ。
 もちろん、その役目自体は大事なことだし、小犯罪に巻き込まれて困る人が一人でも減るのは喜ばしい。だが、自分の役目は、群衆の中に紛れているかもしれない、エトリアの街そのものを混乱に陥れようとする者を見付けることのはず。
 そういった行動を目論む者には、行動にどこか怪しい点が見うけられることが多い。どこで見分けるかは『勘』としか説明しようがないのだが、ともかくもヴェネスは、人生のほとんどを占めている狙撃手としての経験の中、そういった人物を見付けては排除してきた。
 なのに今回、その手合いはなかなか見付けられない。
 午前中に、祭りを楽しむ少年の振りをして街中を巡っていた時も、今も。
 余程に訓練された相手なのか、ヴェネスやエトリアの兵士が探し切れていないところに潜んでいるのか――それとも、そもそもいないのか。
 いないなら、それでいい。いるのを見逃す方が、問題だ。
 エトリアの方針が決まった今、『敵』の動向は何としてでも把握しなくてはならないのに。
 昨日――ファリーツェの伯母だという呪術師がエトリアを訪れた次の日――の午後遅く、エトリア執政院の官僚達は長の招集に応じ、会合の場を設けた。その場には、ファリーツェや、ようやく目を覚ました呪術師は当然のことながら、ヴェネスも呼び出されていた。
 議題は、『オレルスに呪詛を掛けている不届き者にどう対処するか』。
 オレルスの病臥の原因が呪詛に間違いないことは、呪術師の働きによって証明された。その呪術師こそが嘘を吐いているのではないか、と疑う声もわずかに上がったが、彼女が纏うおぞましい陰気を見せつけられ、発言を撤回するしかなかった。脅された、というのとは違う。彼女が悪意をもって何かをするなら、嘘などという『婉曲』な行動を取る必要などない、と思い知ったからである。
 ところで、呪詛が陽動に過ぎず、別に何らかの干渉がある、と予想された件は、どうだろうか。
 ヴェネスが聞いたところによれば、数ヶ月前、オレルスが初めて熱で倒れた時には、それが呪詛だと言われても信じ切れないものが多かった。ましてや、別の干渉など、一笑に付されるだけの世迷い言としか取られなかった。そも、言いだした者ファリーツェ自身も、自分の思い過ごしかも、と考えたほどである。
 そういえば、『組織』への依頼書にもそんなことが記してあったか、とヴェネスは思い起こした。
 だが、今回は、前回――ヴェネスが直に立ち会ったわけではないが――と違い、その件が物議を醸すことはなかった。長であるオレルス自身が、宣言したからである。
「この期に及んで、世迷い言と切って捨てるのは、危機感の欠如というものだろう。襲撃があって当然と考えるべきだと思う」
 呪術師ドゥアトによって示された、呪詛の主がいるだろうと思われる場所は、弧上のいずれからにしても、エトリアに軍事行動を意図しての来訪を行うなら、準備や移動など諸々を含めて、早ければ一ヶ月から二ヶ月かかると見込まれる地域である。その予想は、長が呪詛の熱で倒れた直後にファリーツェが予想したものと同じだったのだ。
「ひょっとしたら、俺の中に少しだけ残ってた呪術師の勘が、オレルス様を襲っていた呪いを感知して、何となくだけど、場所を突き止めていたのかもしれないね」
 とは、会合の後にファリーツェが語ったことである。
 仮に、オレルスが初めて呪詛に倒れた日が『始まり』だったとするならば、敵は既に、エトリアの雑踏の中に紛れているかもしれない。
 無論、実際に襲撃者がやって来た(あるいは来つつある)という証拠は、今のところどこにもない。それでも、ファリーツェがこれまでに無駄覚悟で考えていたことが、この日初めて、エトリア統治者層全員の共通認識となったのだった。
 となれば、対策をどうするべきか。
 繰り返しになるが、襲撃者本体については、現状いかんともしがたい。地道な調査を繰り返し、尻尾を掴むしかない。掴めるかどうかすらわからない。
 だが、現状で確実に手を打て、しかもエトリア側が主導権を握っている状況が、一つある。
 その手段を取りえる立場にいる者、一見そうは見えない女呪術師は、右腕を軽く持ち上げ、口を開いた。
「で、どうしますの?」
 右腕の形は、その掌に見えざるリンゴを掴んでいる様を感じさせた。しかしその実、会した者達は、その手の上に弄ばれている架空存在が果物であるとは、微塵とも思っていなかった。色は似ている。大きさも同じくらいだろう。だが、詰まっているのは甘い果汁ではなく、鉄と塩の味がする赤い液体――そう、彼女が弄ぶモノは、心臓だ。
 古き神話に謳われる、真実の羽根マアトと釣り合わなかった罪人の心臓イブを食らう怪物アメミットのごとき様相で、呪術師の女は続けた。
「あたしは、エトリアの敵の生命をこの手に握っている。オレルス様を呪い、諸氏を不安に陥れた邪術師に、呪いを返すことができる。――いいえ、それだけじゃない」
 その右手が、きゅふっとすぼめられる。目の当たりにした諸氏は、幻覚と判っていながらも、潰れた心臓と指の間から流れ落ちる血の流れを見、金臭い匂いまでもを感じ取った。
「少し長めの時間をもらえれば、生命を奪うことだってできる。そうすれば、敵は呪詛でエトリアを攻撃することなどできなくなるでしょうね。次の呪術師を見付けるのも簡単じゃないでしょうから。それと、これは確証はできないけれど――こっちに潜んでいる実働隊と連絡を取って、引き上げさせるかもしれない。エトリアは計画に気付いている、実行は危険だ、と思ってね」
 会した者達のほとんどは、奇妙に感じているだろう。敵などとっとと排除してくれればいいのに、なぜいちいち議題に挙げるのだ、と。少なくともヴェネスはそう思った。狙撃兵の彼にとって、敵を射程内に収めた時点で方針の確認など、時間の無駄に過ぎないことだったからだ。
「呪詛返しの保留を頼んだのは、私だ」
 その言葉は、微熱の続く身体を背もたれの調節ができる椅子に預けながらも、会合をとりまとめていたオレルスのもの。
 あら、そうなの、と言いたげな表情でドゥアトが長を見たのは、その頼みが従甥の発案だと思っていたからだった――と、後にヴェネスは彼女本人から聞いた。
 視線の集中を受けながら、数ヶ月前に長になったばかりの若者は、諸官を見渡した。会した者達が背筋を伸ばしたのを、ヴェネスは目の当たりにしたが、銃士の少年(加えてドゥアト)は、単に長の威圧に圧されて配下が襟を正しただけ、と思っていた。

 だが、長くエトリアにいる諸官にとっては、その程度の意味ではなかった。
 ファリーツェはオレルスの変貌を目の当たりにし、精神的に身構えた。一瞬、そこにいるのがオレルスだということを失念したのだ。――否、正確に述べるのであれば。
 ヴィズルが、エトリアの迷宮時代を支えた前長が、甦ったようにさえ見えたのだ。
 オレルスの瞳に宿る光は、それまでファリーツェや諸官が見てきた彼のものとは明らかに異なり、目的を果たすためならいかなる犠牲をも辞さない、狂気寸前のそれだった。ヴィズルが迷宮について、樹海は人間のものだ、と告げた時のものにも似ていて、ファリーツェは強い不安を抱かざるを得なかった。
 先立って、オレルス自身の言動によって執政院への不信をぬぐい去られていたから、様子を見ることにしたが、そうでなければ、かつての会議の時のように大声を上げたかもしれない。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-47

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