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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・46

 紹介状の届け先、長鳴鶏の宿のフロアマスター・アレイは、受付カウンター越しに差し出された親書に目を通し、呆れたように息を吐いた。
「こんなもの頂かなくても、用意できる部屋は用意しますよ」
 だいたい、と、続く言葉はどこか非難めいていた。
「紹介状を用意されたところで、満室だったらお引き受けできませんよ。つまりそれは、ほかのお客様を追い出せってことじゃないですか。私にはそんな真似、とてもとても……」
 まして今は祭ですから、とアレイは締めくくる。
 過日は宿代の尽きた冒険者を容赦なく追い出したくせに、と思ったが顔には出さない。アレイにとって金のない客はもはや客ではない。逆に言えば、金のある限り客は丁重に扱うべき相手なのだ。そして、『宿泊分の金がある』という意味では、その多寡は関係ない。
「まぁ、幸いにも、ひとつ空き部屋がございます。ただし、ランクの高いお部屋ですから、少々高く付きますが……」
「そこを押さえたい。いくらになる?」
「他でもないファリーツェさんと執政院の頼みですから、多少は勉強いたします。しめて……」
 羊皮紙に書かれていく数字を、ファリーツェは不安げに見つめる。
 冒険者の頃を思い出す。樹海探索者への便宜を図るという理由から執政院の援助があり、新米冒険者の宿代は抑えられ、実力が認められるにつれて値上げされていた。とはいえ、まだろくな素材を入手できない新米の頃は、抑えられていた値段ですら負担がかかり、誰からともなくアレイを影で守銭奴呼ばわりするようになっていた。ファリーツェはそんな声に迎合こそしなかったものの、新米時の金策に溜息を吐き、実力者の一員になって金に困らなくなった後でも、宿代(その頃の自分達にはギルドハウスがあったから、他ギルドから聞いてだが)としては値の張る料金に目眩を覚えたものだった。
 今回は、はたしてどれだけの金額を請求されるのか。
 しかし、アレイの手が予想外に早く止まったことに、ファリーツェは瞠目した。
 数字は大きくなかった。その逆である。
「こんなんで……いいのか?」
 思わず口をついた言葉に、アレイは眉根をひそめた。
「……判っておいでですか、ファリーツェさん? それでも一応、世間的には『お高い』といえる値段なんですよ」
「え」
「……まったく、あなた方は樹海から様々な素材を持ち帰って、莫大な富を得ておりましたから、金銭感覚がおかしくなっているんですよ」
 ……反論はできない。確かに、今目の前にしている値段は、庶民一家族の一ヶ月分の食費に匹敵する。
 冒険者向けの(執政院の助成なしでの)宿代が高かったのは、宿の管理の手間賃がふんだんに乗せられていたことに因がある。探索して血と泥で汚れて帰ってきた跡をきれいに清掃しなくてはならない。魔物ではないが不快害虫を持ち込まれたら排除しなくてはならない。美観の問題だけではない、それらから未知の病気が広がることもあるからだ。施薬院に運ぶまでもない負傷や病気を治すためのメディックの人件費も必要だ。通常の宿泊客だけを泊めている時に比べれば格段の労力である。
 そういう『上乗せ』を抜いて冷静に考えれば、庶民一家族の食費一ヶ月分という値段は、確かに『お高い』。さらに滞在日数分が乗算されるのだ。
「……マスター、もうちょっと、まからない?」
「これ以上はまかりませんね」
 事態を正確に把握し、おずおずと申し出たファリーツェに、アレイはぴしゃりと言い切った。穏やかそうな糸目の割に、その言葉の壁はさながら前衛防御フロントガードのよう。
 足下を見られていようがそうでなかろうが、おそらく、この部屋以外に空きはないだろう。他の宿もおそらく宿泊客で一杯だ。選択肢はないわけである。聖騎士の少年は観念した。
 もっとも、伯母の口調からすれば、明らかに『敵』がいるわけだから、全ての経費は執政院に請求できる。とはいえ、節約できたはずのところを負担させるのは少々心苦しかった。もちろん計上はするが、つつかれて自己負担になってしまっても止むなしと考えている。
 この点に限って言えば、祝祭など計画したのが失敗であった。祭りでなければ普通の部屋が空いていただろうに。自分の読みが甘かった。
「それにしても、こんな急じゃなくても、今日のお昼頃でしたら、ちょうど良い部屋が空いておりましたのに」
「まー、そうなんだけどなー。おばさん来たのが夕方だったしな……」
 遠方から来る人物の到着日が読めない以上、部屋の予約というのもなかなかやりづらい。
 ところで後半の言葉は、胸の裡が漏れてしまった、独り言に近いものだった。だが、アレイはその言葉を耳ざとく聞きつけ、驚いた顔をした……相変わらず目は見開かなかったが。
「おばさん……と? お泊まりになるのはご親戚の方ですか?」
「ん? うん、まぁ」
「そうでしたか!」
 アレイの表情が目に見えて和らいだ。「他でもないファリーツェ様のご親戚の方でしたら、できうる限りのサービスをさせて頂きますよ。お任せ下さい」
「そうか、お願いする」
 ファリーツェは頭を下げた。その裡では、もしかしたら今なら攻めの好機ではないかという算段が渦巻く。よし、と心を決め、思い切って実行してみた。
「……俺の親戚なら、って話なら、もう少しまけてくれる?」
「これ以上はまかりませんってば」
 ……敵の防御力は実に高かった。

 呪術師が、敵の呪術師の居場所を、その呪術の波導を辿って突き止める感覚を、何かに例えるなら、もっとも近いのは『聴覚』かもしれない。
 発信源が近場なら、それがどちらの方向からやって来るのかは、比較的わかりやすい。ある程度の場所を突き止めるのも難しくはない。だが、遠くなるにつれ、それらは極めて難しくなる。相手側の妨害もあるのだ。
 『ナギの一族ナギ・クース』の呪術師達は、幼い頃からそういった感知能力の訓練を行っているが、それでも、遠方からの呪術の発信源を正確に特定することはできなかった。
 それは、今回も同じことである。
 若長に掛けられた呪術の波導をよすがに辿り、これまでの経験からくる勘で割り出した候補地は、持参した世界地図の上に、中心角百六十度ほどの朱色の弧として記されている。地図上では指先でさっと引いただけの線だが、これでも数カ国に渡る広大な範囲を示している。実際にこの範囲に出向いて犯人を捜すのは、部屋に落とした縫い針を探し出すことよりも遙かに難しい、いや、不可能であろう。
 もとより、そんな『犯人捜し』をするつもりは、ドゥアトにはない。そもそも、呪術師をどうにかするだけなら、地図上の距離や場所の情報は必要ない。敢えて地図にしたためたのは、従甥からのたっての要望からである。
 とはいえ、自分の勘を具象化したものを改めて眺めるのは、情報の整理上、有用ではある。それは、自分の頭の中に置けば事足りる、と思っていた知識を文字としてしたため、確認するに似たものであった。
 事実、己の勘だけなら気がつかなかったことを、ドゥアトは知ったのである。
「……うち?」
 朱線は、『王国』の王都サンドリアーディを貫き、塗りつぶしていた。必然的に、その傍にある森の中に位置する『ナギの里』をも指していることになる。朱線が『敵』の居場所候補地だという情報付きで、他者にこの地図を見せたなら、まずは『ナギの一族』の関与を疑われることは間違いないだろう。
 もちろん、『ナギの一族』はそんなことをしていない。それはずっと里にいた自分がはっきり判っている。そもそもエトリアに呪いを掛ける理由がない。だが――第三者がどう考えるかは、全く別の話である。
「余計……頭痛くなったわね……」
 溜息が漏れる。あと一時間もすれば払暁という時間まで、徹夜で呪術探知を行っていたのだ。ただでさえ、休息を求めて頭がきしきしと痛むというのに。
 ここで、相手をぷっつり握りつぶせたら、すかっとするんだけれどねぇ。
 生物の基本的欲求を奪われているため、思考に八つ当たりに近い残酷さが見え隠れする。
 敵の呪術師は、その抵抗も虚しく、すでにドゥアトの手中にある。散々探知したが妨害に引っかかって見付けきれなかった、という風を装うため、止める直前に呪力を不安定に揺らしたが、当然、相手の波導は把握している。
 肉体の居場所こそ断定はできないが、相手がオレルスに今の術をかけ続けている限り、『繋がろう』と思えば簡単に捕まえられる。その気になれば呪術返しで命を奪うこともできるだろう――いや、むしろ、生かしておく方が難しいと言った方が正しい。感知した敵の実力は上の下といったところだが、それが相手の欺瞞ブラフだろうとなかろうと、当代最高位の呪術師である従姉を相手取るつもりで呪術返しを行うと決めていたからだ。
 ただし、今はやらない。従甥から呪術返しの保留を頼まれているためである。エトリアの方針も聞かず、不用意に殺したら、あとあと面倒が起きるだろうし。
「命拾いしたわね、あなた」
 顔も判らぬ敵に悪態を吐き、ドゥアトは呪術探知を止めた。
 仕返しは次回のお楽しみだ。今はとにかく、寝たい。
 よろよろと立ち上がると、他人に見られたらはしたないと言われること請け合いの大あくび。入口扉に向かって、弱々しく呼びかけた。
「ファリーツェちゃん、ねぇ、ファリーツェちゃーん。そろそろベッドに案内してくれないかしら」
 返事がない。てっきり部屋の前で番をしてくれていると思っていたのだが。オレルスと添い寝でもいいから、とベッドに入りたがる心身を叱咤しつつ、どうにか扉の前まで歩ききった。
 扉をゆっくり引き開けると、その扉を支えにしていた何かがついてくる。しまいには、こてん、と室内に転がった。
 ただの屍……ではなく、屍であるかのように寝入った、従甥であった。
 どうやら、部屋の前で寝ずの番をしていたのは想像通りと見える。だが、おそらくは睡魔に耐えきれなかったのだ。
 いつもなら微笑ましいのだが、今のドゥアトには少しばかりかんに触る光景だった。それでも相手がかわいい身内だからか、ある程度の自制は効いた。
「人を差し置いて寝てるんじゃないわよ!」
 ごちこん、と手刀がファリーツェの額に命中した。さしもの聖騎士も、状態異常:睡眠では防御できない。だが睡魔を追い払うことはできたようだ。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-46

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