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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・44

 どうも、まだ数ヶ月とはいえ近しく付き合い、冒険者として執政院を利用しているだけでは知ることのなかっただろう、彼らの人間くさい一面を見ることも多くなったがためか、無意識ながら彼らを甘く見てしまっていたようだ。己の無礼を反省しつつも、室長と簡単な情報のやりとりをし、連れだってオレルスの部屋に向かうことにした。
 内部構造ががらりと変わるに奥部に踏み込むと、ドゥアトはその落差に大いに好奇心を刺激されたらしく、興味深い視線を落ち着きなく周囲に投げかけ始めた。
 だが、そんな彼女の様子が、長の私室の扉と向き合った途端に、がらりと変わった。たった今まで自分の属するものとは違う文化に興味津々で目を輝かせていた人物と同一とは思えない、あまりにも急な変化。市井の女性が急に女帝としての正体を顕したかのような、否、似て異なる、周囲の気温が数度下がったかに感じられる何か。
 その理由を知るファリーツェにはどうということもないが、情報室長は、その変貌の様に固唾を飲み、動きを止めた。
「行きましょう、室長」
 目的を忘れたかのように佇んだままの室長を促し、聖騎士の少年は執政院長の部屋の戸を叩いた。

 オレルスの目線から語るのであれば、それは化け物の襲来であった。
 執政院付聖騎士となって久しい元冒険者の少年の合図に応え、入室を許可したまでは、いつも通りである。なんだかうなじの毛がちりちりする、と思わなくもなかったが、気のせいだと結論づけた。だが、それも扉が開くまでの話である。結局のところ、もっとも状況を正確に把握していたのは、自らの理性ではなく本能だったというわけだ。
 それは、おぞましいほどに黒い霧に見えた。忌まわしい病を身にまとう羽虫の群、と表現した方が、今それを目にする気持ちを表すにはふさわしいかもしれない。それらは常に何か意味のある形を取ろうとし、失敗しているかのように、吹き上がっては流れ落ちる。
 オレルスが伏すベッドに、ゆっくりと近付いてくるそれの中心部には、人の姿。言うまでもなく女性のようだったが、オレルスは彼女を直視できなかった。
 彼女こそが、黒い霧の中心、恐怖の群体レギオンを統べる何かだったからである。
 その傍で平然と佇む聖騎士に視線を移し、どうにか平静を保ったが、噛み合わない歯はかすかに音を鳴らし、眼球は脳裏の平穏の園に逃げ込もうとして裏返る機会を窺っていた。
 ――これが、カースメーカー。
 樹海探索に挑む冒険者にも少数ながらカースメーカーはいたし、執政院にも前長ヴィズルの直属として呪い師ツスクルがいた。何を考えているか判らない雰囲気をはらんだ者がほとんどだったが、オレルスは彼らが呪術師としての本領を発揮したところを見たことがない。今目の前にいる女のように、目視できる(それがオレルス自身の脳が作り上げた錯覚だとしても)殺意をまとった呪術師に対面するのは、生まれて初めての出来事だったのだ。
 彼女にはいつでも、オレルスの生命を握りつぶす力がある。
 黒の群体より突き出されたほの白い掌、それに掴まれたとき、ちっぽけな存在じぶんはこの世から消え失せるのだろう。
 ――それも、いいか。
 ふと、そんなことを思ってしまった。新たな長としての務め、正体不明の呪術師(正聖騎士の言葉によれば)の攻撃……それらにさらされた身は魂の休息を欲している。目の前の繊手に身を委ねれば、それは手に入る。永遠に楽になれるのだ、決して悪い考えではない……。
 だが。
 心の奥に何かがよぎった気がした。懐かしさと誇らしさを、その朧げな影の中に見いだす。同時に、何故か、苛立ちと嫉妬に似た思いが。
 ――負けて、たまるか!
 自分でも想像だにしなかった反骨の意志が立ち上る。どうしてそんな思いが湧いたのかは判らない。ただ、目の前の恐怖に立ち向かう原動力となったことだけは確かだ。生命を摘み取らんと迫り来る魔の手に、オレルスは真正面から向き合った。
 五指が視界を埋め尽くすその瞬間に、己が腕を振る!
 ぱぁん! と、高らかに響いた音と共に払われたものは、魔の手だけではなかった。うぞうぞと蠢く黒灰の群も、同時に飛び散ったのである――否、飛び散ったものはすでに黒い羽虫状の霧ではなく、何故か、真白の鳩の群に見えた。その様は、幼い頃にベルダの広場で鳩に餌をやっていたときのこと、何かに驚いた鳩達が一斉に飛び立った時のことを思い出させた。あのとき、鳩が驚いた原因は、近付いてきた当時の長ヴィズルだったか……。
 夢現の旅はほんの一瞬のことだった。オレルスは目の前に、右腕を引いた体勢できょとんとしている人物を見た。若草を思わせる緑の髪に、魔を祓う南天ナンディーナを思い起こさせる赤い瞳。実齢は定かではないが、エトリア市井にもよくいる若奥様といった風情であった。状況を冷静に判断するなら、彼女こそが呪詛の黒い群体レギオンの中心にいた人物のはずだが、とてもそうは見えない。
 その女性は、彼女自身の従甥に当たるはずの人物を振り返り、唐突な豆鉄砲を食らった鳩がその様を仲間に報告するかの勢いで、やや上ずった言葉を発したのである。
「びっくりしたわー、この方強いのねファリーツェちゃん! あたし『ご挨拶』で腕を振り払われたの初めてだわー!」
「……きっといろいろあったからね、オレルス様にも」
 言葉を振られた方は、苦笑いにも似た面持ちで、柔らかい声を発したものであった。

 オレルスの恐縮に、ドゥアトは気にしないでほしい旨を伝えた。初対面の者に対するナギの一族ナギ・クースの『挨拶』は、(そうしない時ももちろんあるが)いつも今のようなもので、あらかたの反応は想定内だったからである。とはいえオレルスのような反応を返す者は稀で、だからこそドゥアトの驚きを招いたのだった。
「一体何故、このようなことを?」
 そう問われるのは当然のことだろう。
 もちろん、単なる脅かしで、人一人が死をも考えるような仕打ちをしたわけではない。
 理由は大別して二つ。
 一つは、呪術師として甘く見られないようにすること。己が力あるカースメーカーであると知らしめるための示威行為。必ずしも依頼人を屈服させるためではない。力があると示せなければ、その力を頼りに自分たちを頼ってきた者を納得させられない。
 今一つは、己の力の程をあらかじめ知らしめた上で、自分が味方であることを納得させること。先の理由と似通ってはいるが、目的は微妙に違う。
 呪術には様々な形式のものがあるが、対象者の心への働きかけが容易く、そのため成功率が極めて高いものも多かった。冒険者達になじみ深い呪術を挙げるなら、力祓いや軟身などである。初級の呪術師でも、効き方自体は熟練者程ではないが、基本的に失敗しない。
 ところが、心への働きかけが容易い初歩呪術は、対象者が無差別なことが多い。その呪術の声を耳にし、掛けられる、と思った者は、味方であろうが例外なく、その影響下に組み込まれる。
 力祓いや軟身ならまだいい。もっと危険な無差別対象呪術が必要になったらどうするか(高度な術はたいてい、対象の指定が可能だが、それは置いておく)。
 呪術師が味方を対象から外せない以上、味方の方に『この呪術師は味方である。自分に危険な呪術を掛けるはずがない』と思ってもらうしかない。仮に味方に影響しない呪術しか使わないにしても、『本番』で呪術行使の様を見た依頼人に無用に怯えられても困るので、いわゆる『免疫』を付けてもらいたい、という意図もあった。
 冒険者達が力祓いや軟身などの呪術に掛からないのは、自分の仲間のカースメーカーを完全に信頼しているからに尽きる。とはいえ、いくら呪術師を信用した者でも、危険ではない呪術は掛けられてしまうかも、と思ってしまうことが多い。街の酒場などでは、ときおり『命ず、踊れ』などの呪詛に操られて踊る者の姿もあった。ハイ・ラガード到着前夜のエルナクハが、信用しているはずのパラスの呪術を恐れたのも、同じ理屈である。
「なるほど、そういう理由で……」
 オレルスは何度も頷いたが、そうすることで己の心に懸命に『呪術師は味方』と言い聞かせているように見えなくもなかった。始めのうちは仕方があるまい。とはいえ、今すぐにやらなければいけないことがある。それを拒絶されても困るので、少し落ち着いてもらわなくてはならなかった。
 ところで、この室内に入った瞬間に、ドゥアトは奇妙な光景に気がついていた。とはいえ、それを為した者とその意図にはすぐに思い当たっていた。傍に控える従甥を振り返り、努めて明るい声で確認する。
「ファリーツェちゃん、部屋中に呪符貼ったの、あなたでしょ? さすが対処が早いわね」
 以前の記述の繰り返しになるが、この呪符はいわば偽薬プラシーボ、呪術を防ぐ力など、微塵もない。だが、オレルス本人に、自分が敵の呪術の対象となっていることを認識させ、味方の呪術で守ってもらっていると錯覚させることで、彼自身の呪術への抵抗力を発揮させる効果は確かにあった。 

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-44

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