樹海体験の護衛を終えたファリーツェは、日の落ちた頃合いになって、ようやく金鹿の酒場に足を向けられた。
彼が冒険者だった頃よりは格段に安全になった樹海だが、夜に足を踏み入れるのは躊躇われる。冒険者達だけなら自己責任で踏み込むが、全くの素人を連れていくのはよろしくない。そのような理由で、樹海体験は夕方で終わりになる。
夜になれば、中央広場では、たくさんの灯火を寄せ集めて文字や図柄にした装飾が多数姿を現す。その下で、人々は、昼間よりアルコール分がだいぶ増えた飲食に興じるのだ。
反面、空の光はまだ物寂しい。まだ薄明るい空は星の光を阻害する。天を飾るのは夜中でも目立つ星ばかりだ。天頂にあってひときわ目を引くのは北斗七星である。夜闇で最も目立つのは月のはずだが、あいにくこの日は新月だった。
それらを遮るように空を横断する影は、修飾旗のものだ。
先日、エトリアの人々が洗濯物を干している様子から、漠然と連想し、やがて突き止めた知識がある。故郷である『王国』に隣接する、神仏の教えを軸にして成り立つとある山岳国。その伝統的宗教旗『風馬旗』である。
装飾旗は、それに着想を得て、ファリーツェ自身が指示をして張り巡らせたものだ。シリカ商店をはじめとする各商店、特に服飾店には、ずいぶん負担を掛けてしまった。その分、執政院から相応の報酬が出たとはいえ。
もっとも、その真の役目は、装飾ではない――防御だった。
狙撃兵や弓兵が、どこかから執政院を狙い、見張りなどを打ち倒そうとしても、ひらひらとたなびく旗が狙いを邪魔する。無論、熟練兵ならば『勘』で攻撃してくることもあろうが、何の対策もない時に比べれば、遠距離からの攻撃で誰かが命を落とす可能性は格段に減るだろう。だが、街中に装飾旗を飾り立てるなどという一大作業、どうしたら許可が下りるのか。
そこでファリーツェがオレルスに持ちかけたのが、隣の自治都市ムツーラの開港百五十周年祭に便乗した祝祭の開催であった。折しも、樹海を失ったエトリアは、街を維持する収入をどうするべきか困っていた。樹海はまた開きそうな気配があるが、楽観的に待つわけにもいかず。加工貿易で身を立てようとはしているが、効果が出るまでには少し時間がかかる。内部留保はたっぷりあるが、それは本当の危機のために極力手を着けず、何かしらの収入を模索するのは、悪いことではあるまい。
祝祭を執り行うことで人々と金の流れを呼び込むことは、当面の資金調達には悪手ではないだろう。幸い、短期間なら、世界の耳目を引いた樹海そのものが、祝祭の呼び物となってくれる。ムツーラ側に話を持ちかけたところ、先方も大いに乗り気で許可をくれた。
反面、押し寄せる人の波の中に、エトリアに害意を持つ者が紛れる危険も増大する。街門の守備兵達には、祝祭ということでいつもより厳重な改めを頼んでいるが――実際、スリや盗賊の脅威も侮れない――、それで怪しい者を発見するにも限界がある。とはいえ、祝祭をやらなくても、何らかの手段で『敵』は紛れ込んでくるだろう。
そろそろ、例の件で何か動きがあってもおかしくない。
以前、呪われたとおぼしきオレルスが急に致死に近い高熱を出した時、ファリーツェは「何かが起こるなら早くて一、二ヶ月後」と考えた。そう考えた理由はあるにはあるが、実のところ彼の推測は、どんな理由に立脚していても、当てずっぽうに毛が生えた程度でしかなかった。幸い、その『当てずっぽう』どおり、頼りにした銃士や呪術師が来るまでには、何事も起こらずに済んだが、これからも何事もなく済むと考えるのは楽観に過ぎる。その楽観こそが実現してくれるのが、一番いいのだが。
「でも、アトおばさんが来てくれたから」
ファリーツェの伯母達に対する信頼は強い。
これからは、目に見えない悪意に対抗するのに、自身の心許ない知識だけで立ち向かわなくてもいいのだ。
その分、自分は物理的な悪意に対処能力を割り振ることができる。遠距離からの攻撃には対策したが、近距離からの攻撃については自分や兵士達の力で対処しなくてはならないのだ。
祭りの初日、さすがに長の挨拶は必要だろう、と、執政院のバルコニーに立ったオレルスの背後で、暗殺者が来やしないか、と、心臓をどきどきさせながら警戒していた時のことを、昨日のことのように思い出す。攻撃に対する反応が間に合いさえすれば、命に代えてもオレルスを守ってみせる。それが聖騎士というものだ。だが、反応できなかった時はどうしようもないのである。
――そんなことを考えながら脚を動かすうち、金鹿の酒場の前にたどり着く。
からからん、と軽快な鐘の音を道連れに店内に踏み込むと、祭りの雰囲気に浮かされた人々が、陽気な会話と共に酒や食事をたしなんでいたところだった。店外であるベルダの広場でも似たような状況が展開されていたが、こちらは閉鎖空間であるだけに、飲食物の匂いや人々のざわめきがひときわ強く感覚を刺激する。
おなかすいたなぁ、と思ったが、自分にはやることがあった。これが終わったら夕ご飯にありつける。
「アトおばさん」
店内をきょろきょろと探して、カウンターの隅に捜し人を見つけた。普通のカースメーカーだったらすぐわかるのに、ナギの一族の女性陣はあっさりと市井に紛れてしまうので見つけづらい。
「あら、ファリーツェちゃん」
伯母は最初、雰囲気に酔っていたのか、どことなく調子の悪さを思わせたが、気合いを入れるように自らの両頬を軽く叩いた後は、いつもの伯母だった。
「待たせてごめんね。これから長に会ってもらいたいけど、大丈夫かな」
「あら、もちろんよ、大丈夫」
言いながら、目の前にあった大小二枚の皿とグラスを、向こう側から下げやすいようにそっと移動させているドゥアト。皿もグラスもきれいに空っぽだった。伯母は『出されたものは極力食べる』主義だが、商売として料理を饗する店の飯が不味かったら機嫌が悪くなるので、どうやら金鹿の酒場の食事はお気に召したようだった。ちなみにもう一人の伯母は、商売人の飯が不味かったら容赦なく文句を付ける。
酒場の女主人サクヤに軽い挨拶を告げ、表に出た二人。
臨時に設えられた数多の野外卓は、余った席を見つけられないほどの盛況ぶりである。乾杯の声が唱和し、笑いさざめきが響く、夕凪の街の光景。その隙間を縫うように、聖騎士と呪術師――鎧を着たままの前者はともかく後者はそう見えないが――は歩いた。
ベルダの広場の北端、昼間に二人が再会を果たした辺りまでたどり着き、歓喜する人々の群が背後遠くに離れたところで、ふとドゥアトが振り返る。離れた灯火に憧憬を託す面もちで、口を開いた。
「にぎやかでいいわねぇ。毎日お祭って」
「あと一ヶ月くらいは延期すつもりだよ」
というファリーツェの応えに、伯母はますます目を細めた。呪術師の里は平和だが、にぎやかさとは無縁の地だから、こういった催しごとには素直に羨望の念が湧くのだろう。
「でも、たぶんその一ヶ月で、このお祭もおしまいかな」
「あら、残念ね」
「あんまり『ハレ』の日ばっかり続くと、ありがたみないだろ?」
「それもそうねぇ……」
がっかりな様子を隠そうともせず、ドゥアトは肩をすくめた。
実際、祭というものは、平穏な、悪く言えば変わり映えのない生活の中に短期間だけ、忽然と輝いてこそ意味がある。長く続ければ無理が出る。今は珍しがられている『元・樹海探索の街』もいずれ飽きられる。北方に現在絶賛稼働中の『樹海探索の街』があるのだから、なおさらだ。
それでも、街中に防御用の旗を張り巡らせた大義名分だ、あと少しは延ばしたい。
「これから、街長に会にいくんだったわね」
気を取り直したらしいドゥアトが確認のように口にする。彼女をエトリアに呼んだ理由がそれなのだ。祭を執り行っている真の目的についても、その時に話すことになるだろう。
「うまくいくかしら」
「お手柔らかに」
言葉だけを聞いた者には訳が分からないだろう伯母の独白に、意図を掴んでいるファリーツェは苦笑気味に返した。
広場から延びる道なりにしばらく行った場所にある、執政院ラーダ。その入り口を守る兵士達が無表情でいるのは、職務に忠実だからという理由のみから来るものではない。道の彼方に見える灯火やかすかに流れ来る歓声を感じ取っていれば、自分が生真面目にやっている仕事が馬鹿馬鹿しく思えるものだろう。だが、それなりの給料と引き替えの仕事、がんばって勤め、祭は非番の時にめいっぱい楽しんでもらいたいものだ。
そんなことを思いつつ、ファリーツェは彼らに軽く挨拶し、伯母を先導して院内に踏み込んだ。兵士達に少し表情が戻ったのは、ドゥアトを見て「誰だこの人」と思ったからに違いない。
彼らは口に出さなかったが、院内に残っていた者からは異口同音の疑問がぶつけられた。その度にファリーツェは軽く笑んで答える。
「私の伯母です。エトリアの噂を聞いてわざわざ来てくれて、せっかくだから長に挨拶したいと申しておりまして」
その応対には若干の悪戯心が混ざっていた。
ドゥアトはエトリアに足を踏み入れる際、街門の門番に執政院からの招聘状を見せている。そのことは門番から執政院に連絡が行っているはずなのだから、院内の者であれば、ファリーツェが連れている者がその人物だという連想も働きそうなものである。なのに、会う者ことごとく正聖騎士の言葉をそのまま捉え、「あ、それはどうも」だの「甥ごさんにはいつもお世話になって」だのと、ある意味間の抜けた対応ばかりが返る。それはやはり、伯母の(というかナギ・クースの)らしくなさゆえだろうか。
とは思ったのだが、これからオレルスの下に向かうらしい情報室長までが同じような応対を始めたときには、さすがに「大丈夫かこの街」と突っ込みを入れかけた。だが、敵もさるもの、その前にニヤリと笑い、言ってのけたのである。
「あなたが、我々をお助けくださるカースメーカーですか」
虚を突かれたファリーツェは、そんな反応をする必要はないのに、反射的に身を堅くした。
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