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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・41

 執政院はベルダの広場には直接に面しておらず、赴くには冒険者ギルドが管理する二棟の建物の間からさらに街の奥、方角にして北へと進まなくてはならない。それ以上面倒な行程を踏ませるつもりはさすがにないらしく、執政院の表玄関は南側に設えられており、広場側から建物に辿り着きさえすればすぐに入ることができた。
 入口は他に二つあり、普通『裏口』と呼ばれる方は、建物の北側、執政院旧区画にある。エトリア北に広がる森林がすぐそこまで迫ってきており、文明と自然のせめぎ合いの様を強く感じさせる。たまに森の奥から獣がやって来るので、主にそれを追い返すために、常時二名の兵士が見張りを行っていた。
 ちなみに、三つ目の入口は、ファリーツェとシララの交流の仲立ちを行っている深紅の鳥、ケミヒテクプが最初に飛び込んできた場所、食堂の勝手口である。執政院の食堂に馴染んだ者はこちらも『裏口』と呼ぶが、来たばかりのヴェネスがそう呼ぶことはないだろう。
 小規模の都市国家とはいえ一国の行政機関のものとは思えない、素朴に過ぎる扉を開けて、表に出る。盾のみを持ち、他の武装は平服のままである。
 顔なじみである見張りの兵士達に挨拶をすると、北西の方角に目を向けた。
 鬱蒼と茂る森だけが、視界を埋める全て。
 エトリアを攻め立てる何者かが不意討ちを望むなら、この森の中に身を潜めるのは確かにいい手だろう。だが、この森は非常に深く、人間が踏み込めるのは、浅い領域だけだ。エトリア側に気付かれないようにするには、エトリアから離れた場所から森に踏み込み、突っ切らなくてはならない。それはほぼ不可能に近い。このような森は世界の各地にあり、数十年前の大戦の時も、侵略者に対する自然の要害となり、あるいは、やむなく逃げ込んだ被侵略者達を永遠に飲み込んだのだった。迷宮ならぬ森も、人間にはとてつもない脅威なのである。
 ともかくも今成すべきことは、北西に盾をかざすことだ。実戦の時より心持ち上に盾を掲げたのは、何となく、おとぎ話を思い出したからである。よく謳われるではないか、剣を掲げたら地が割れたとか、杖を掲げたら海が割れたとか――もちろん、現実には盾を掲げても、攻撃が防げる程度の奇跡しか起こせないが。
 不意に、ファリーツェの耳朶を、風が切り裂かれる『音』が打った。
 それは矢が飛来する音に似ていなくもなかったが、どことなく不吉さを思わせた。どうしてそう思ったのか、ファリーツェは死ぬまで明確に説明できなかったが、いずれにしても、常人なら感じる前に結果のみを目の当たりにする羽目になっただろう。此度の『結果』は、鈍い衝撃を伴い、聖騎士の盾にべっとり付いた、白いものであった。なんだこれ、と呟きながらファリーツェは盾をひっくり返し、その白いものをまじまじと見つめた。
「ああ、やられたな、聖騎士殿」
 兵士達が笑いながら盾と空を交互に見やる。
 鳥にフンを落とされた――と彼らは思っているらしい。空には鳥の影はすでにないが、翼を持つものどもにとっては、あっという間に飛び去るのも造作もないことだ。
 ただ、今回は、そもそも鳥など執政院の上空には『いなかった』。
 いたとして、頭上を飛んでいるはずの鳥が、衝撃の向きから推測される、矢や投石のような軌道でフンをぶつけてくるだろうか。
「――そういや、あっちの方向って、何かめぼしいものってありましたっけ? ほら、俺達が借りてたギルドハウスみたいな元商人の館とか」
 これまでの展開と全く関係ない、北西を指しながらのファリーツェの質問に、兵士達は面食らっていたようだが、とりあえずは記憶を辿りながら声を上げる。
「特に何もなかったはずだが……」
「……いや、待て。確か、オレだけの秘密基地にしてた見張り台が」
「見張り台……ですか?」
 食いつくファリーツェに兵士の一人が答えて曰く。
「昔の戦争の時にエトリアが作ったらしい見張り台なんだが、使われなくなって久しいし、森にすっかり覆われたからなぁ。ガキの頃は登って遊んでたはずなんだが、すっかり忘れてたな……」
「その見張り台って、どうやったら行けるんですか?」
「うーん、この分じゃ残ってないかもしれないが……」
 と、見張り台について言及した兵士が答える。
「オレがガキの頃は見張り台に通じる道が残ってたんだよ。まぁ、獣道みたいになっちまって、判りづらかったがな。一応、今も使われている道のどこかの脇から繋がってるはずなんだが……」
 獣や果実を狩る者のために、浅い領域には、街の北側から始まり、東に曲がって森を抜ける、一本の道が通してある。兵士の言う『今も使われている道』とはそのことである。
「入口付近に、色を付けた石を積んで、一定間隔ごとに同じものを目印にしていたんだ。ただ、もう色が落ちてるかもしれないし、崩れてるかもしれない。そもそも通りようがなくなってるかもしれないぞ」
「とりあえず、行ってみます」
「って、おいおい、何しに行くんだよ」
「ちょっと、人の大事な盾に舐めた真似してくれた鳥に意趣返しを」
「おいおいおいおい」
 執政院内に飛び込んだファリーツェの背後から、兵士達の呆れた声が聞こえる。それもそうだ。盾を汚したのが上空を飛んでいた鳥だとしても、それがまだ目視できる程度の近場に留まっていたとしても、見張り台に登った程度で手出しできるものではない。弓使いならいざ知らず。他者から見れば、盾を汚されてからのファリーツェの言動は奇妙この上ないはずだが、さしあたり、聖騎士の少年は己がそう思われるのを甘受することにした。
 そもそも、見張り台に向かう理由は、いもしなかった鳥への意趣返しなどではない。

 幸い、兵士の言っていた目印は健在だった。が、崩れていたとしても問題なかっただろう。道から逸れ行く獣道の、踏み荒らされてからさほど間がないと見られる下草の状態は、そこが人間でもどうにか通れることを如実に示していた。同時に、聖騎士の少年の、確信に近い予想を裏付けるものでもあったのだ。
 鎧も盾も身につけていない今は、身体がとても軽い。
 さらさらと小気味よい草の音を供に、半ば走るかの足取りで道ならぬ道を往く。
 予想外に長い行程の末、予想通りの代物が目の前に現れた。
 素朴な石組みの高い建造物。構造自体は単純で、底面から上に行くに従って緩やかに狭まる四角錐の形をしていた。ただし頂上は錐ではなく、一辺が成人男性の足で三歩ほどの正方形になっているようだった。その上に木造の小屋が建っているのだ。小屋は開放的で、壁は胸程度の高さまでしかない。しかも一辺にはそれすらない。そこから梯子を使って昇降するからである。
 見上げると、見張り小屋から顔を突き出していた者と目が合った。予想通りの人物であった。
「ファリーツェさん! やっぱり来てくれましたね!」
 見張り台の事を教えてくれた兵士が子供の頃にもそういう笑顔を浮かべていただろう、と思わせる表情を浮かべた、銃士の少年は、いそいそと壁のない面に近付いた。が、ファリーツェはそれを制止し、自分が梯子に手を掛けた。ヴェネスに手間を掛けさせたくなかったから――というより、単に自分が高いところに登りたかっただけである。
 見張り台の周囲は、木々の枝葉に埋め尽くされていた。ごく狭い隙間から見える光景は、視界が拓けていればさぞ素晴らしかっただろうに。
 いささかがっかりした思いをひとまず置いておいて、ファリーツェはヴェネスに向き合った。
「――一体どういうつもりなんだ、ヴェネス。人の盾に変なペンキみたいなものをぶつけといて」
 言葉程に声音は厳しくない。意味のない行動とは思えなかったからだ。案の定、ヴェネスは、悪戯小僧が悪戯を咎められた顔ではなく、至極真面目な表情で言葉を返した。
「攻撃がここからでも届くって、実際にお見せした方が判ってもらえると思いまして」
「攻撃って……銃の?」
 待てよ、見張り台から執政院裏口までの距離は、直線五百メートルほどあるはずだ。弓なら有効射程は二、三百メートル。銃だって、かつてフレドリカに見せてもらった試射を参考にするなら、同じくらいだろう。
 樹海迷宮の希少素材で作られた最強の弓なら、もう少し届いたのを見たが、それは例外みたいなものだ。
 それを、この銃は、おそらく一般的な材質(樹海産としてもさほど珍しくないもの)で作られたのであろう長銃は、少なくとも飛距離ではファリーツェが知る限りの遠距離武器を凌駕する。同時に威力が伴っていたら。あるいは威力自体がさほどでなくても、的確に目標の急所を撃ち抜けるとしたら……。
 否、事実、威力は充分で、命中率も高い。あのペンキのようなものが盾に当たったときの衝撃から察するに、それが実弾なら、おそらくファリーツェは死んでいた。もちろん防御技スキルを使えば無傷で済むが――。
「ヴェネス、君が知らせたかったのは、このことなのか」
 長距離射程は武器としてこの上ない利点。人類は、自らが傷つかず、相手を一方的に殺傷するために、投石を、投げ槍を、弓を、発展させてきたのだ。
 ヴェネスの持つ銃は、この見張り台から執政院裏口を撃ち抜ける。見張り台を奪取した者がヴェネスのものと同タイプの銃を持っていたら、裏口を見張る兵は何も判らないまま撃ち殺される。ファリーツェだったとしても防御技を使う間もなく殺される可能性が高い。そして、執政院に侵入したい者達に道を開くことになるだろう。
「ボクの組織は、今のところエトリア襲撃の依頼を受けていません」
 ヴェネスは酷く鋭い目で執政院裏口の方を睨め付けながら、口を開いた。
「そして、少なくともボクがエトリア警護の依頼を受けている間は、ボクの組織は相反する依頼を受けることは決してないでしょう。でも、こういう狙撃銃を扱える者がボクの組織にだけいるってわけじゃない。それに、威力を問わなければ弓でも届くし……届きさえすればできることもあるはずです」
 ファリーツェは頷いた。まさに彼自身が、モリビト『殲滅』戦の際に行ったことだ。植物を弱らせる薬を極力薄めたものを、彼らの無力化目的で、仲間のレンジャーに頼んで、矢を射る要領で撃ち出してもらった。モリビトの足元にさえ届けば、衝撃で薬剤を吹き出し、彼らを苦しめる(実に申し訳なかったが)代物だった。
「これで執政院の方を見て下さい、ファリーツェさん」
 胸ポケットから単眼鏡を取り出して手渡してきた銃士の表情は、先程に比べれば和らいでいたが、それでもまだ緊張を孕んでいた。
 単眼鏡を受け取った聖騎士は、右目でレンズを覗き、言われた通りの方向に向けてみる。枝葉の集積ばかりが目に入ると思いきや、自然の悪戯だろうか、余程の強風で枝が揺れない限りは必ず開いている隙間がある。その向こうに、先程まで自分がいた執政院の裏口が見えた。視界の狭さを除けば、まるで、ほんの数十メートルしか離れていないようだった。
 五百メートルも離れていれば、肉眼では目標の捕捉も難しい。だが人類は道具を使うことでその障害ハンデを乗り越える。あり得ないと思った、否、予想すらしていなかった危機は、単眼鏡で引き寄せられた光景のように、すぐ傍に現れたのだ。
 どうすればいいのか。どうすれば、この距離の防壁を易々と越えて飛来する危機に対処できるのか。
 もちろん、目の前の少年に頼んで任せれば、適切な判断を下してくれるだろう。そもそもファリーツェはそれを期待して銃士を呼んだ。
 だが、いつか――それが一年後か、百年後かは判らないが――より簡単に扱える機構を得て、今よりも多くの者が扱えるようになれば、銃はきっと戦場の主役に立つ。その時に――否、先日ヴェネス自身がつまびらかにした通り、今は味方でいてくれる『組織』が敵に回った時を考えれば、自分も銃にどう対処するか、知っておかなくてはならない。
 ひとまず心を落ち着かせるために、一番知りたいこととは別の話題を口にした。
「ヴェネス、今し方、君が撃ったのは、一体何なんだ?」
「ペイント弾ですよ」ヴェネスはあっさりと答えた。
 確かに、とファリーツェは盾を汚した白いものを思い出した。あれは、当然、鳥のフンなどではなかったが、正体が分からなかったことには違いない。しかし正解を聞いてみれば、自分が先程「ペンキみたい」と称したその通り、白い塗料ペイントに間違いなかった。水で落ちればいいけどなぁ、と考えつつも話を進める。
「ペイント弾って何に使うんだ? 攻撃には向かないようだけど」
「本来は射撃の練習用なんです。あとは、いろいろな色を組み合わせて信号にも使えますかね」
 こちらも別に極秘事項というわけではないのだろう、ヴェネスは淀みなく答えた。
「本当は実弾で練習するつもりでいたんですが、滞在も思いの外長くなりそうですし、持ち込んだ弾を使い果たしても困るなぁ、って思ってたところに、シリカさんのお店が銃を扱ってたって聞いて、作ってもらったんです。それに、今回みたいに、攻撃がどこまで届くのかの目安に使えますから」
 万が一、狙いが逸れて人に当たったら、実弾じゃ困るでしょう、と肩をすくめるヴェネス。
「狙撃銃では狙いを逸らさない自信がありますが、極力備えた方が、安心かと思って」
「うん、それは、確かに正論だ」
 万が一にでもエトリアの住人に実弾を当てられたら困る。
 そこまで考えたところで、見張り小屋の隅に目線が向く。そこには一丁の狙撃銃が、銃床――といったか、銃の後方部分を下に立てかけてあった。ここ数日ですっかり見慣れた形のものだが、いつもヴェネスの傍らにあるものとは、大きな違いがある。銃身が真っ青だった。シリカ商店で手に入れた、あの銃だ。
 目線から問いを察したのか、銃士の少年は頷きながら答えた。
「ペイント弾用の銃なんです。実弾は入らないようになっています。実戦用の銃と間違えないように青くしてあるんです」
「そういや、ペイント弾の箱は俺に預けてたじゃないか」
「商店で、数発分箱から抜き取っておきました」
 爛漫な様子で種明かし(?)を行うヴェネスとは裏腹に、ファリーツェは自分の迂闊さに頭を抱えた。店で見た箱の中身はみっちりとしていた。そこから数発抜いていたなら、運ぶときに多少なりとも音を立てていたはずだというのに。
「あ、代わりにコルクを詰めておいたので、音とかで気付いたりはできなかったと思います」
 とうとうくすくす笑い始めたヴェネスの前で、降参とばかりに両手を差し上げたファリーツェだったが、そろそろ本題に入ろうと考える。
「ここからの――に限らないけど――狙撃を防ぐには、どうすればいい?」
「基本的には、弓などに備えるのと、同じです」
 明確な返答であった。
 たとえば、防壁を作成する。いくら銃弾でも、分厚い壁は突破できない。
 たとえば、この見張り台を取り壊してしまう。拠点がなければ、狙撃も容易ではなくなる。
 しかし、だ。狙撃の拠点は、この見張り台でなくてもいい。街のどこかの高台。どこかの木の上。否、ある程度の高さのあるどこかの建物の窓からでも可能だろう。それら全部を網羅できる防壁の作成など不可能だし、建物や木を全部取り除くなど狂気の沙汰だ。執政院の周りを壁で取り囲む? おそらく襲撃には間に合わないし、むやみに住人達の不安をかき立てるようなことは、許可が下りないだろう。
 なら、どうすれば――。
 解決手段を求めて、ファリーツェは返しそびれていた単眼鏡を覗き見た。もちろん、いい方法が見つけられると思ったわけではなく、現状の再確認、いや、もっと正確に言うならただの気分転換だ。
 単眼鏡の向こうには、執政院裏口の様子が見えている。いつの間にか、人が増えていた。汚れた衣類を洗う兵士。執政院には出入りの洗濯屋もいるのだが、節約のため、多少の汚れなら自分で洗う者も多いのだ。
「せめて、視界を遮るものがあればいいんですが……」
 そんなヴェネスのつぶやきを耳にしつつ、単眼鏡を動かす。先程理解した通り、木々の枝葉だらけなことに変わりはない。よりによって、どうして執政院を狙撃できるところだけ空いているのか。自然の悪戯に苛立ちつつ、再び執政院裏口に目を移すと、洗濯をしていた兵士が折りたたみ式の干し台を広げ、衣類を干しているところだった。幸い、いい天気である。森と執政院に挟まれた裏口付近は日当たりに期待できないが、多少乾いた風が、どうにか衣類を乾かしてくれるだろう。
「仕方ない、一度帰ろう、ヴェネス」
 いい方法を探すのを一旦諦め、ファリーツェは単眼鏡を返しながら溜息を吐いた。

 自治都市群のこの季節、怒猪ノ月を中心とした一ヶ月強は、『梅雨』と呼ばれる曇と長雨の季節である。ヴェネスがエトリアを訪れた日のような、鬱になるような雨の日が多く、そうでなくても鉛の色の空が頭上に広がる。洗濯物を干せるような日はなかなか来ず、一家の家事担当を苛つかせること甚だしい。
 そのためか、日当たりを望めたこの日、あちこちで衣類を干す様が見うけられた。大抵は軒先にぶら下げているが、数階建ての集合住宅では、公道を挟んだ向かいの集合住宅との間にロープを巡らせ、その間に布帛をはためかせる場合もある。
 その光景を眺めながら、執政院への帰路につく。森から直に裏口に戻らず、わざわざ街を通っているのは、緊急時でもないのに、ヴェネスをそんな裏ルートから帰らせるのはどうだろう、と思ったからである。ファリーツェ自身が行きの際に行儀悪い(?)真似をしていたのは棚に上げている。
 一度帰り着いた後、ヴェネスはファリーツェの盾を持って裏庭に出て行った。銃の威力を知らしめるためとはいえ、盾を汚してしまったのは自分だから、と、洗浄を申し出てきたのだ。やることもあったので言葉に甘えることとして、慣れない盾を抱えて出て行く様を見送った。
 自身は机に向かい、羊皮紙を引き出しから引っ張り出す。これから書くのは一応は公文書なので、報告用の羊皮紙を使っても構うまい。
 ペンを手に、慣れた様子で文字を記し始めた。
 それは、件の王冠に同封する手紙。
 久々に文字ことばを交わす朋友へ、挨拶と、労いと、今回の冒険の無事を祈るもの。そして、同封したものが何であり、なぜ送ることになったのかを知らしめるもの。
「思えば、何でこんなことになったんだっけなぁ」
 忘れていた、というか、ある意味馬鹿馬鹿しいので忘れたかった。だが、一旦は置いて行かれたものを送り付けるのである、理由はきちんと書かなくてはならない。
 それは街の感謝の印。未曾有の災厄を防ぐという武勲を立てた者への賞賛。
 エトリアにとってはそのはずだったが、贈られた者にとっては邪魔なもの。なにしろ冒険者は己自身のために戦っていたに過ぎず、王冠が意味する武勲すら偽り(とも言い切れないが)なのだから。
 だから、こうして再度送りつけるのは、エトリア側の意地に過ぎない。
 そうであることは、置き去りにされた王冠を目にしたオレルスも、酷く落胆しながらも受け入れたはずなのだが……。
「――っと、ヤバいヤバい」
 手紙に妙なことを書いてしまった。オレルスの落胆ぶりについて、『見もの』と表現してしまったのだ。
 自分の心の奥底に執政院への不信が残っているのは、自覚している。とはいえそれはこの間、ほぼ払底され、浮上を抑えられる程度にはなったと思えたのだが。
 訂正のために羊皮紙削りに手を伸ばしかけたが、ま、いいか、と思い直し、二重線を引いた後に『見ていられないものでした』と書き換えるに留めた。
 きちんと削ればいいものを、なぜやめたのか、自分でも判らなかったが、後に、不満払底ガスぬきのつもりだったのかも、と思い至った。わずかとはいえ残る不満は、ふとしたきっかけで膨れあがりかねない。それを防ぐため、親しい者に「俺だって執政院に少しは負の感情を持っているんだ」と表明したかったのかもしれない、と。
 ともくも手紙はその後つつがなく書き進められ、送り先『ウルスラグナ』の活躍を期待する旨を示す言葉で括られた。
 あとは自分の署名を記し、執政院の印を押すだけ――なのだが、どうもしっくりこない。
 しばらく考えて、思い至った。
 『ウルスラグナ』の活躍を願う心は嘘ではない。だが、それ以上に望むことがあった。共に樹海の脅威を肌で感じた同士として、己の(多少は維持できているとはいえ)技能の低下を自覚するものとして。
 だから、彼は最後に記した。そのような望みを冒険者相手に持つべきか、と断りつつも。

 酒場で語られるような華々しい活躍などしなくても構いません。ただ、堅実に、ご無事でありますよう。

 手紙を同封した小包を手に、ファリーツェは再度、外に出る。
 梅雨時であることが嘘のようないい天気だ。輝く太陽は街を行き交う人々の影を濃く映し、ここぞとばかりに干された衣類が相変わらずはためいている。
 執政院を出るときにすれ違ったボランスが、おそらくレンジャーとしての勘だろう、明日からまた雲行きが怪しくなりそうだ、と口にしていた。向こう一月ほどの中では、今日は陽光を享受する数少ない機会となるだろう。
 ……ふと、何かがファリーツェの脳裏に降りてきた。
 まだ明確な形はなく、もやもやとした感じだったが、ひとつだけ確信できたことがある。この『何か』を突き止められれば、先程考えながら答に辿り着けなかった、狙撃への対処に、いい対策が得られるのではないか、と。
 もしかしたら、この陽光を浴びながらもっと考えれば、形を得られるかもしれない。
 そう考えた聖騎士の少年は、直近の目的も果たすべく、冒険者ギルドに向かって歩き始めた。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-41

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