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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・38

 オレルスの微熱と、あるかもしれない襲撃者の件を解決するためには、まだ時間が必要だったが、その準備を含め、他にやるべきことは、たくさんある。
 ある日、ファリーツェはシリカ商店の店主シリカに呼び出された。
 彼女は、樹海を失った(厳密には第一階層は開かれたのだが)エトリアが、今後どのように生き延びていくかの、鍵の一人となる人物であった。かねてより執政院とも協議を重ねていたが、結局、他地域から仕入れた素材を加工し、それらをさらに輸出するという事業に着手することになった。未知の物質であった樹海の素材の適正を見極め、加工する中で、様々な技術を会得・開発してきた、シリカ商店ならではの強みである。
 加工場付近に置いてあるいくつもの大きな籠の中に、それぞれ山積みになっている、鉱石や動植物素材を眺め回し、ファリーツェは感嘆の声を上げた。商人であった父の後について、店の中を『冒険』としゃれ込んでいたときのことが、思い出させられる。
 だが、シリカ商店に呼び出された理由は、いわゆる『加工貿易』の件ではない。
「おっまたせー」
 工房からシリカが顔を出した。ちなみに、ファリーツェが早く来ていただけで、シリカの登場は約束の時間通りである。
 互いに軽く挨拶を交わした後、本題に入った。
「『ウルスラグナ』が置いてったものの整理を始めたんだって?」
「そうなんだー。それでね、せっかくだからファリーツェさんにも手伝ってもらおうと思ってさ!」
「まぁ、そういうことなら……」
 先にも説明したことだが、ファリーツェの仕事は自己裁量に任されている。樹海警邏からはずれた今はなおさらだ。この日は特に言い含められていた用事もなく、時間ならいくらでもある。それに、エトリアの産業の要になる商店の面倒を見るのは、悪いことではないだろう。
「でも、少し待ってくれないか?」
 冒険者時代からなじみ深い商店主の言葉が途切れたのを見計らって、ファリーツェは声を上げた。
「せっかくだし、ヴェネスも連れてきたいけど、いいかい?」
「あのガンナーの子? そりゃもう!」
 拒否する気など微塵も感じさせない明るい声音が、あっさりと返ってきた。
 ここ最近、ヴェネスはエトリアの方々を回り、自分の故郷にはないものに目を輝かせていた――と、普通のエトリア住人には思われていただろう。その実彼がやっているのは、もしエトリアを密やかな襲撃という形で侵してくるものがいたなら、どこに潜み、あるいはどこから攻撃するかを探す、そんな役割であった。
 この日も例外に漏れず、そのため、この場にはいない。
 一応、昼時には食事を摂りに執政院に戻ってくるので、その時に話を伝え、『ウルスラグナ』の置き土産が眠る現地でシリカと待ち合わせることになった。
「せっかくだし、あの子に伝えといてよ。銃の手入れ、修理、特殊弾丸の補給、ぜーんぶシリカ商店が承りますからお気軽に! ってさ! 職人さん達が銃造りの腕を持て余しててねー」
「そうか、樹海探索時唯一のガンナーもいなくなっちゃったからなぁ」
「そうそう。リッキィはナビアルと一緒に旅に出ちゃったからねぇ……」
 その本名をフレドリカ・アーヴィングという。エトリアが樹海探索に沸き立っていたとき、この街にいた唯一のガンナーの少女である。『ウルスラグナ』『エリクシール』に次ぐ強豪ギルド『リグラス』に属していた彼女は、銃の設計図をハイ・ラガードから製造権ごと購入したシリカ商店にとっては、技術力披露の意味でも格好の上客であったのだ。なにしろ彼女が来るまでは、銃は造られるだけで誰も使いこなせなかったのだから。そのフレドリカ、愛称『リッキィ』がいなくなり、彼女に習って(グリモア石の助けを借りてとはいえ)銃を手にした者達もエトリアを去った今、新たにやってきたガンナー・ヴェネスに熱い視線が注がれるのも無理はない話だった。
 さて、シリカの用事の舞台となる場所は、いわゆる『ギルドハウス』である。
 エトリアの迷宮探索が開始されたばかりの頃、その富に目を付け、エトリアに拠点を築いて商売を始めた他国の商人が、何人もいた。だが、樹海の厳しさに探索が停滞すると、採算がとれなくなった商人達は多くが撤退し、彼らの拠点であった館が残された。
 執政院はそれらを管理するも、エトリア人の誰かに買われたり、地震の際に倒壊したり、あまりに劣化が激しいので解体されたりした。探索が再活性化した頃には、使える形で残っていた空き家は、三棟のみだった。
 そんな折、遙か北東の国オンタリオの貴族シェルドン家の当主から、エトリアで活躍を始めた娘――ミズガルズ図書館から派遣されたパラディン、ラクーナ・シェルドンのことである――のために、いい状態の空き家があれば購入したい、との打診があった。執政院側は三棟のうちもっとも状態のよかったものを呈示し、商談は成立。その館は、ラクーナがエトリアで属していたギルド『リグラス』のギルドマスターによって『メルドの翼棟』と名付けられ、『リグラス』の拠点となった。
 執政院は、この際だから残り二棟も冒険者の拠点として提供しよう、と考えた。建物は人間が住んだ方が痛みが少ない、という理由もある。そこで対象者となったのが、当時新人ながら飛ぶ鳥を落とす勢いで樹海を邁進していた『エリクシール』と『ウルスラグナ』である。
 『エリクシール』が供された方は『ルルス研究所』と名付けられ、約一年、『エリクシール』の拠点として働き、彼らが絶好調なときも絶望の中にあったときも変わらずに安住の地であり続けた。冒険者達が引き払った現在では、他国の購入希望者が現れて交渉中だという。話を伝え聞いたとき、短い間とはいえその館で過ごしたファリーツェは、どこか寂しい気持ちになったものだった。
 そして、街を郊外方面にしばし、腹の虫を供として歩くファリーツェとヴェネスの前に現れた、こぢんまりとした館。それこそが、『ウルスラグナ』がエトリア逗留時に使っていた館にして、シリカの用事の目的地、『アトゥンの館』と命名された建物である。
 ファリーツェは館の入口扉前に知った顔を見つけ、軽い声を上げた。
 暗い色の生地に真白なレース飾りがまぶしい、清楚なメイド服に身を包んだ、年若き黒髪の女性だった。かつて執政院から派遣され、『アトゥンの館』で家事や設備管理を取り仕切っていたメイドで、名をメイアンという。自分達のギルドハウスのメイドでもないのに見知っているのは、『エリクシール』と『ウルスラグナ』はライバルではあるが仲がよく、探索非番の面子が互いの拠点を往来しあっていたことに因がある。
「久しいね、メイアン。樹海が閉ざされて以来だったかな」
「お久しゅうございます、ファリーツェ様。それと、ヴェネス様でいらっしゃいますね?」
 慣れた様子のファリーツェとは対照的に、なぜか身体を強ばらせ、警戒を解かないヴェネス。一体どうしたのか、とファリーツェはいぶかしみ、少し考えた後に、銃士の少年の後背から腕を回して抱き寄せる。少し考えたのは、初対面時に背に手を回そうとして拒絶されたことを思い出したからである。
 かつての仲間だったダークハンターの口調を意識し、おどけた調子で声を出した。
「なぁに緊張してんのさ、ヴェネス。ひょっとして惚れたのか?」
「いっ、いえ、そういうことじゃなくて」
 ……メイドなる者は、世の男女の羨望を集めるものである。地位の高い者に仕えるに耐えうる振る舞い、卓越した家事の腕(まれに家事の一部または全部が壊滅している者もいるが)、平均以上の(少なくとも見る者に好感を与える)容姿――ヴェネスもそういう点で見とれ、緊張したのだろう、と聖騎士の青年は思った。
 ところが、結局ファリーツェには明かさず終いになったのだが、ヴェネスがメイアンを見る点は、全く違ったのである。
 彼がまだ故国周辺で任務に従事していた頃、地位の高い者を抹殺する任を何度か受けたことがあった。そんな折、標的が身の回りの世話役――時にそれは性的な方面をも意味していた――としてメイドを傍らに置いていたことがある。そういった状況の何度目か、メイドはあくまでも世話役で障害にはならない、と考えていたヴェネスだったが、彼が狙撃のために潜伏する場所を、あまつさえ短剣を振るって襲撃してきたのが、かのメイドその人だったのだ。標的が護身のために配備していた、手練れの暗殺者ナイトシーカーだったのかもしれない。辛くも師匠バルタンデルの援護射撃で難を逃れたヴェネスだったが、それ以降、メイドというものがすっかり苦手になってしまった。
 とはいえ、ファリーツェに抱き寄せられたことで冷静になってみれば、目の前のメイドからは、荒事のにおいなど微塵も感じられない。代わりに漂うのは、焼きたてのパンと、新鮮なハム、瑞々しい野菜のにおい、ほんの少しだけ混ざる、部屋の隅々の汚れをかき集めた雑巾の臭気――ヴェネスがいつかは、と夢見た、母との平穏な生活のにおいに相違なかった。
 メイアンは、ヴェネスが物騒な回想をしていたなどとは思ってもいるまい。来訪者達の視界に入った瞬間から変わらない笑顔で、掌を上とした手でギルドハウスを指し示した。
「シリカ様が先にお待ちです。昼食を用意してございますので、お仕事前にお召し上がりくださいますよう」
 ああ、やはり、というのが、来訪者二人の共通した感想だった。シリカから、昼食を食べないで来るように、という指示があったのだ。これまで同行してきた腹の虫二匹とは、近々別れの時が来るようである。

 内側に南方由来品のオリーブオイルを塗ったパンに、新鮮な野菜とハム、ベーコン、輪切りのゆで卵を挟んだサンドが、昼食の主役だった。ドレッシングには隠し味に東方皇国の醤油を使用してあるらしい。付け合わせの、『リグラス』のギルドハウスを管理していたメイド、ローザから教わったという、『プーティン』と合わせ、シリカも含めた三人の空腹を満たすには、充分以上の代物であった。
 食後のコーディアルやシフォンケーキを含め、一時間近くを生物の根源的な欲求の充足に当てた後、三人は、ようやく本題に入った。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-38

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