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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・36

 すっかりと暗くなり、ところどころに灯る街灯が揺れるエトリア。執政院に帰り着くと、意外なことに、入り口で情報室長が待ちかまえていた。表情からすると、ファリーツェを待っていたらしい。
 現在、ファリーツェは、例の何者かが襲撃してくるかもしれない件に備え、樹海の見回り以外は自由裁量での仕事が認められている。前もって何かしらの用件を言いつかっているのでもなければ、帰還が遅くなったことを詫びる必要もないのだが、そこは人として、頭を下げる。オレルスや副長と同年代の情報室長は、穏やかな笑みと共に、聖騎士を労った。
「遅くまでご苦労。報告は歩きながら聞こう」
 ファリーツェは訝しげに室長を見上げてしまった。
 樹海警邏の報告などは、よほどの重大事でもなければ、夜に報告書を書き上げ、翌朝提出する流れなのだが。そこまで考えた次の瞬間、聖騎士の少年は事情を悟り、訝しげな表情を消した。
 おそらくは、ボランスがヴェネスを樹海外に連れ出した後、経緯を情報室長に報告したのである。
 誤魔化しとけ、と言ったのになぁ、と考えなくもなかったが、これはボランスが気を回した結果だろう。
 樹海の地下二階以降が開かれたという話は、極力、広めたくないところであったが、ファリーツェとて長であるオレルスには報告するつもりでいた。
 しかし、客観的に見ればオレルスは病臥中。ならばその補佐官である情報室長に、概要だけでも先触れしておいた方が、後の話が忌憚なく進む、と、ボランスが考えるのも無理はない話だ。執政院では新米にすぎないファリーツェが重大な情報を抱えこむということは、上層部からの不興を買いかねない(すでに別口で一つ、重大事を抱えこんでいるわけだが)。そういう意味でも、情報室長に簡単な話だけでも通しておくのは、理にかなっている。
 ついでに考えるなら、ボランスは、「ファリーツェから報告するように言われた」という体裁を取ってくれたのだろう。
「今の一瞬の変顔は見なかったことにしておくよ」
 内心を察したのか、情報室長は冗談めかした口調でそう告げてくるのであった。
 半ば恐縮しつつ、情報室長に付いて歩くことしばし。情報室に近付き、他部署の人員の姿が見かけられなくなったあたりで、室長は切り出した。
「……それで、樹海の地下二階に通じる虚穴が再び開いた、と聞いたのだが?」
 ファリーツェは声なき肯定を返し、続きは言葉に仕立て上げた。
「できれば、オレルス様にも報告したいです。今、体調の方はいかがですか」
「微熱以外は問題なさそうだ。エッグタルトが食べたいとかぬかすから、金鹿の酒場に使いを行かせたところでね」
 長に向けるにはふさわしくない言葉が聞こえたが、彼とオレルスと副長は幼なじみだったと聞く。その意識がうっかり表面化してしまったのだろう。室長自身、気が付いたらしく、おほん、と咳払いをして誤魔化した。
「すみません、よく聞こえませんでした。もう一回教えていただけますか?」
 ファリーツェが誤魔化しに応じると、室長はニヤリと笑い、先の言葉を――今度は丁寧な言葉で――繰り返すのであった。
 ともかく、オレルスは報告を聞く程度の元気はある、ということだろう。
「では、不躾で恐縮ですが、病室で報告をしたいと思います。室長もご一緒していただけますか」
「もちろん」
 本来入室するはずだった情報室を通り過ぎ、執政院のさらに奥へと向かう。
 オレルスの現在の私室は、執政院長の執務室に隣接してある。前長ヴィズル亡き後、長の位を次いだオレルスが、執務室もろとも使うようになったのである。ファリーツェが借りている個室やヴェネスに貸し与えられた部屋と同様、古い時代からある区画に存在していた。
 新しい区画とは真逆の、無骨な泥壁で区切られた素朴な内装の中を進み、オレルスの私室の前に立つ。仮にも一都市の長の部屋だというのに、扉さえも、ファリーツェが使っている部屋のものと変わらない、最低限の防腐しかしていない簡素なものである。真鍮製のレリーフが飾られているが、執務室のそれに比すれば簡素にすぎた。そもそも、執務室の扉のレリーフでさえ、新区画の各部屋の装飾に比べれば粗末なものなのである。
 新区画の内装、一例として会議室――以前ファリーツェが官僚達の会議に乗り込み、生意気なことを述べ立てた部屋――のことを思い出し、やはり、あそこはあれでいいんだよな、と回想した。個人的には旧区画の部屋の方が親しみを抱くが、かといってこの区画に周辺都市や他国の重鎮を招くわけにもいくまい。
 ファリーツェがノックと誰何と応え、訪問時定番の行為をこなし、情報室長と連れだって入室すると、そこではベッドで上半身を起こすオレルスと、四客の茶杯を盆に乗せて持つ情報室副長の姿があった。
「おや」
 意外という体で声を漏らしたのは副長の方である。
「室長、まだお仕事じゃなかったんですか。ファリーツェ君の方は長への夜の挨拶に来る頃合いだと当たりをつけていたんですが」
「私の分まで茶を用意しておいて、それか」
「いえ、これはお遣いに出てくれたの分なんですが」
 むぅ、と唸る室長に笑いかけながら、
「まぁ、仕方ないから、あの子の分はなかったことにさせてもらいましょう」
 という副長の言葉に、ひどいな、とファリーツェは内心で苦笑混じりに突っ込んだ。自分の分を回してくれてもかまわないのだが。そもそも新しいのを淹れるという選択肢はないんだろうか。
 自分が淹れましょうか、と口にしようとしたその時、ノックと、若い声の名乗りが扉の向こうから聞こえてくる。時間切れのようだ。
 許可を得て入室し、一礼したのは、情報室の末席を占める、今年成人したばかりの少年文官であった。まだ子供の盛りの面影が残る彼は、漉紙でできた袋を大事そうに抱えていたが、それを副長に渡す。
 副長は袋の中から一つを取り出すと、同じく袋の中にあったらしい、漉紙製のナプキンにくるみ、少年文官に差し出した。
「お遣いありがとうございます。これは御礼です」
 少年文官は恐縮しながらも報酬を受け取り、退室していく。どことなく穏やかな雰囲気が、残り香のように室内に漂った。
 その香りが消えないうちに、というわけでもあるまいが、副官がいそいそと袋からタルトの残りを取り出し、ナプキンにくるんでは皆に渡していく。ちょうど全員にひとつずつ、つまり買ってきてもらったのは五個入りだったというわけだ。オレルスの少し不本意げな表情を確認し、ファリーツェは密かに戦慄した――オレルス様、まさか五個全部を一人で食べるつもりだったんじゃないだろうな?
 少年文官には渡らなかった茶も、室内の者達には行き渡る。全員分の椅子があるわけではないので、オレルス以外は立ち食い立ち飲みという体だったが、ちょっとした茶会のような雰囲気が場を包んだ。しばらくはエッグタルトを食む音と茶をすする音だけが、互いの会話であった。
 だが、穏やかな時間はいずれ終わりを告げる。
 オレルスがファリーツェに厳しい表情を向けたのは、決して、少年騎士のせいでタルトをひとつ食べ損ねたからではない。
「簡単だが話は聞いている。地下二階に通じる虚穴が再び開いた、と?」
「はい」
 ファリーツェは頷いた。その脳裏では、予想される質問と対する答をいくつも推考しながら。自分がボロを出しやすい性格なのは自覚しているので、モリビトとの交渉についてはうっかり漏らさないように自戒する。例の件を知らせるのは時期尚早だ。
 幸いにも、質疑応答はほぼファリーツェの予測通りに進んだ。
「密猟者の類が、無理矢理にこじ開けたとか、そのような事態だったのかね?」
「いえ……そういった人為的な痕跡は見あたりませんでした。行けるところまで――地下五階の最奥まで進んでみましたが、判る限りでは、何者かが侵入した気配もないようです」
「つまり、自然に開いた虚穴だ、と?」
「そのあたりは、判断しづらいです」
 モリビトのことを隠し通すのなら、『はい』と答えた方が、後の展開が簡単な質問であった。しかしファリーツェは、敢えて真実(と思われる事象)に近い答を返すと決めていた。
「ひょっとしたら、フォレスト・セルが――モリビトの巫女が、何かしらの目的で開けたのかもしれません」
 フォレスト・セルと、かつてのヴィズルの後を継いで『世界樹の王』となったモリビトの巫女。両者については、当然ながらオレルスも、彼らと直接対峙した『ウルスラグナ』から聞き及んでいるからである。人間が人為的に開けたという理由の次に、ありえると判断されるであろう、この推測は、隠し通す方が不自然だ。
「何らかの理由……復讐、かね?」
「その判断は尚早かと」
 まぁそう考えるだろうな、とファリーツェは思う。自分も樹海ではちらりと考えてしまったことだし。
 オレルス自身はモリビト殲滅反対派だったが、ヴィズルの命令だからと私心を押し殺し、『エリクシール』に殲滅ミッションを呈示したのである。今なら、その葛藤、罪悪感、そして、いつか彼らが、という恐れは、判らなくもないが。
「復讐なら、『世界樹の王』になった直後にでもやればよかった。でも巫女がその時にやったことは、『ウルスラグナ』を無事に地上に送り届けただけ。しかも、『人間をどうこうしようとする気はない』と言っていたと聞きます。その言葉、容易に翻しはしないと思いますが。人間とは違って」
 ……最後はあからさまな棘だっただろうか、とすぐに反省する。やはり自分は一言多い。
 オレルスは、『棘』については、少なくとも表面的には聞き流したようだ。返答として出た言葉は、経験浅きとはいえ長らしく、今後の対策についてであった。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-36

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