←テキストページに戻る
ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・35

 道程は順風満帆であった。
 獣除けの鈴を使うことで、魔物達の出現も抑えられ、ごくまれに出くわすものからは逃走を試みる。それでも戦わざるを得ない場合でも、後れをとるはずがない。
 しかし、『敵対者F.O.E.』には、鈴の音は効かない。
 幸い、桁違いの強さを持つ彼らは、その居場所が磁軸計に反映されるため、動き方がほぼ定まっていることと合わせれば、容易に避けていくことができる。障害とはなり得なかった。
 ――ただ、たった一体、障害となった『敵対者』がいた。物理的にではなく、心理的な障害として。
 地下三階、根の堆積を下りきってすぐの大広間に陣取る、大カマキリ。冒険者はそれを『全てを刈る影』と呼んでいた。

 背中を嫌な汗が流れ落ちていく。まだ冒険者ですらなかったころの思い出が、ぐるぐると脳裏をかき回す。憎悪と復讐心がせり上がり、身体を勝手に動かしていく。気付けば、右手が剣の柄を掴み、鞘から引き抜こうとしているところだった。
 遠目に見える大カマキリは、まだファリーツェの方には気が付いていないようだった。広間を横切り先に進もうとすれば、どこかの段階で必ず気付かれるだろうが、追いつかれないように動く術は、冒険者だった頃に嫌になるほど身につけた。ついでに言えば、捕捉されたとしても、今の彼の実力であれば労せず逃亡できる程度の相手だ。
 だというのに、身体が緊張と敵愾心に縛られているのは、なぜか。心があの敵に刃を突き立てることばかりを考えているのは、なぜか。
 自問するまでもない。かつて、ファリーツェの主人だった聖騎士が、この場所でギルドの仲間もろとも命を刈り取られたからだ。
 ――かつてエトリアに、『スリダヤナ』というギルドが存在した。
 その痕跡は、もう、冒険者ギルドの資料保管室にしか残っていない。冒険者に関わり深い街の人間でも、名を出されて「そういえば」と答えられるのは十人中一人くらいだろう。それは、意気揚々と樹海に挑み、夢見た未来に足指の先を乗せることすらできないうちに滅びた、数多くのギルドの一つにすぎない。
 それでも、ファリーツェにとっては、生きてきた過程の多くを占める思い出の一つ。生国たる『王国』で、従騎士だった彼が永く仕えるべきだった青年騎士が、騎士としての修行のために傭兵と共にエトリアで立ち上げた、ほんの短い間しか存在できなかったギルドの名だ。
 地下二階までは切り抜けた『スリダヤナ』は、地下三階に挑み、そして誰も戻らなかった。不安に追われ、ついに酒場に捜索依頼を出そうとしたファリーツェに、探索ついででよければ行方を探してみようか、と声をかけてきたのが、『エリクシール』のバードだった。そのギルドマスターからの、「どうせいつも留守番なのだから、連中が見つかったらお前は『エリクシールうち』に移れ」という条件と引き替えに、主人達の捜索を頼んだ日のことが、昨日のように思い出される。
 ――もちろん、見つかったのは五体の死体だったのだが。
 冒険者は死体を持ち帰らないことが多い。力を失った人体は予想以上に重く、魔物に襲われる探索中に運ぶのは容易ではないからだ。まして、『エリクシール』にとっての『スリダヤナ』は、どうしても街に連れ帰って供養してやりたいほど親しい相手でもない。だから『エリクシール』が持ち帰ってきたのも、遺品だけだった。
 遺体は、結局回収できなかった。後に『エリクシール』の冒険者となっても、忌まわしい大カマキリの懐にある彼らには手が届かず、この地を通る度に、動物の糧になるのか欠損していき、また風化していく死体を、遠くからとはいえ目の当たりにする羽目になったものだった。
 そうして、『スリダヤナ』は消滅した。ファリーツェはただの従者で、冒険者登録はしていなかったし、『エリクシール』との約束がなかったら、状況報告のために故郷への帰還を考えただろう。だから、主人達五人が死んだ時点で、ギルドは霧散する運命だったのだ。
 そして、今。
 ここは、主人の夢が潰えた場所で、目の前にいるのは、主人を手に掛けた魔物。
 ファリーツェは熱に浮かされた面持ちで、ついに剣を抜いた。
 ちりりん、と、腰の獣除けの鈴が鳴る。
 ひょっとしたら、獣除けの鈴には、人の心の中の獣をも払う力があったのだろうか。ファリーツェは己の中にわだかまる復讐心がすうっと消えていくのを、確かに感じた。軽く溜息を吐き、抜き放った剣を、元通りに鞘に収めた。
 ――落ち着け、俺。あいつは主人達の仇じゃない。
 仇と言える個体は、かつての冒険のさなかに、『エリクシール』の仲間達の助力も得て、葬ったのではなかったか。いや、その個体すら、ひょっとしたら、仇ではなかったのかもしれない。本当の仇は、先に他の冒険者に倒されていたのかもしれなかったのだ。
 いずれにしても、ファリーツェはすでに、主人の死に始末ケリをつけたはずだ。今、目の前のカマキリに剣を向ける理由は、何もない。
 聖騎士は、一歩を踏み出した。そのまま、記憶にあるとおりの道筋をなぞっていると、カマキリもまた、縄張りへの侵入者に気付き、鎌を祈るような形に持ち上げ、動き出す。だが、カマキリの動きは人間よりわずかに遅く、その差が、無事に広間を抜ける助けとなる。
 そうして、ファリーツェは心理的障害をも乗り越えたのだった。

 気が付けば、もう、地下五階までを踏破していた。
 結局、密猟者の類は入り込んでなかったようだな、と思いつつ、先に進む。
 さすがに地下五階までの行軍は時間がかかる。冒険者だった頃に助けとなった樹海の抜け道を思い出しながら辿ってさえも、夕方を越え、夜に達する。もしもの時のために持参していた携帯食料を食みながら進む聖騎士は、ようやく、第一階層の最奥にたどり着いた。
 林立する木々によって動ける範囲が制限される、その場所は、第一階層の主の殿であった。
 純白の獣、スノードリフト。その姿から『雪走り』の名を与えられたもの。オオカミの長と言われるが、その姿はオオカミとはかけ離れている。多くの者が、むしろトラに見えた、と証言したものだが、正直な話、姿形の差違など問題ではない。重要なのは、確かにその獣がオオカミ達の統括者であり、かつて数多の冒険者を殺し、第二階層への障害となった、強大な魔物だということだ。
 ファリーツェとて、仲間達と共に初めて対峙し、そして辛くも打ち破ったときは、瀕死もいいところの状態だったものだった。メディックの、手に負えないとの言葉に、ここが自分の果てる地か、と、自刃の覚悟さえ決めた。そんな惨状の割に、今振り返れば笑い話なのだが――。
 とりあえず思い出に浸っている場合ではなかった。
 魔狼の長は、今もファリーツェの目の前に、悠然と待ちかまえている。
 彼(?)に限らず、各階層の守護者である魔物は、世界樹より『世界樹の芽』を与えられた存在だ。何度倒されても蘇る命と、同族を上回る力を得ている。すなわち、今この場にいる『雪走り』は、かつてファリーツェ達が何度も打破したものと同じ個体なのである。
 ひどい目に遭わされた相手だが、先のカマキリと違って、憎しみは湧かない。身近な人間が殺されたわけではないから、ということもあるが、それでも、少しは親しくなった相手が殺されたということはあったのだ。同じ個体であるものの命を、こちら側なりの理由があったとはいえ、何度も奪ったことで、もう充分だ、と感じるようになったのだろうか。
 聖騎士は剣を抜かないまま、スノードリフトの前に立った。
 スノードリフトは動きを見せないが、木々に隠れて見えないあちこちで、苛立った獣達の気配がうごめくのを感じる。しかしそれらに動じることはなく、ファリーツェは傲然と言っていい態度で言葉を放った。
「去れ。俺はその奥を見たい」
 さすがに言葉は通じないだろうが、意志はどうだろうか。
 戦いになれば、十中八九、こちらが勝つ。周囲のオオカミ達が全部駆けつけたとしてもだ。それでも一割の敗率は無視できないし、そもそも今回の目的が打倒ではない以上、相手には抵抗の愚を悟って退いてもらいたかった。
 アリアドネの糸が細く引き延ばされるような、緊張の時が続く。
 停滞を先に破ったのは、獣の方であった。のっそりと立ち上がり、胸を反らして高らかに吠える。それは、周囲に展開するしもべ達を呼び寄せる合図――に思えたが、様子が違うことに、ファリーツェはすぐ気付いた。オオカミ達の気配が、あっという間に遠ざかっていったのだ。
 そして、長自体はというと、悠然と聖騎士に歩み寄る。
 どうやら即時攻撃のつもりではなさそうだ、とは思いつつ、事態の急変に備えて身を堅くするファリーツェ。そのすぐ傍を、スノードリフトは、どう見ても猫科の生き物特有の、優雅な足取りで通り過ぎると、脇にある茂みに飛び込んで、姿をくらましたのである。
 あまりの堂々たる様を、ぽかんと見送っていたファリーツェだったが、気を取り直すと、もう届かない、届いたとしても通じないであろう、礼の言葉を口にした。
「ありがとな、スノードリフト」
 これで、第一階層最後の階段へ向かう前の障害は、もうない。
 歩きながら考える。もしも、この奥にまた下層への道が開いていたら、俺はどうするんだろう? 後輩達やヴェネスとは、第二階層には行かない、と確かに約束した。だが――もし、道があったなら、自分は好奇心を抑えきれるのだろうか。たとえ、好奇心の末に、かつてアルルーナと対峙した時のような――。
 心が痛む。身体が震える。押さえ込んだ思い出が記憶の傷を裂いて闇を吹き上げようとする。それでもなお、聖騎士は前に進む。進みたいのか、進みたくないのか、自分でも判らないままに。
 到達した行き止まりの大木。かつての探索期には第二階層に続く虚穴があった場所。今、その場所にぽっかりと口を開けた虚穴は――なかった。
 憑き物を祓われたような気分だった。心の痛みも身体の震えも止み、思考を塗りつぶそうとしていた闇は、あったこと自体が嘘のように消え去っている。不快感の残滓を、溜め息の形で吐き出すと、なんだかおかしくなって、ファリーツェはくつくつと笑声を上げた。
 なんだ、結局、今回はここまでということか。
 『ここまで』とはいうが、これは大きな前進だ。第一階層全域が開かれたことで、地上では入手できない様々な素材が、今まで以上に入手できるようになるのだ。もちろん、樹海が開いた(開かれた)理由如何にもよるし、どうやって、どれだけ採るようにするかも、これまで同様、考えなくてはならないが。
 とにかく帰ろう。予想以上に時間をかけてしまったことだし。
 磁軸計を取り出すと、表示面に指を滑らせた。遺都シンジュクの技術と同じもので作られているのであろうそれは、現在の技術では再現不可能な操作系に従って、二列の副文字アルファベータの単語を表示する。ファリーツェとヴェネスの名前。現在、磁軸計に登録された、アリアドネの糸で帰還するときに揃っているはずの人員である。
 今はヴェネスがいない。このまま、磁軸計からアリアドネの糸に、糸の起動のための電力ちからを通してしまったら、電力過多のために糸での跳躍先が狂う。樹海のどこかに飛ぶだけならまだいい方、世界のどこか、世界の中ですらないどこかに飛ばされる危険性もある。
 ヴェネスの名前をなぞるように指を滑らせると、その列の文字表示が薄くなる。
 これでいい。ファリーツェは小さく頷くと、糸軸を磁軸計の脇に開いた穴に接続した。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-35

NEXT→

←テキストページに戻る