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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・34

 厚く堆積した根を伝っての下降は、地上から樹海迷宮に下りたときのものと、さほど変わらない。
 唯一大きく違う点は、かつて冒険者が張った手摺代わりのロープが、役に立たないことだ。頼ろうとしたら、ぼろりとほどけ、体勢を崩された。なんとか持ち直したが、下手をすれば墜落して頚骨を折って即死、などという結末を迎えるところだった。否、それとても幸せな結末かもしれない、中途半端に息を繋ぐことに比すれば。
 ……うかつだった。皆にあれほど不安がられても無理はない。
 生命力にあふれた樹海は、その分、死にも近い。それは無生物にも等しく降りかかる。ロープにとっての『死』、すなわち風化と分解は、地上よりも若干早く引き起こされる。
 冒険が高潮だったころは、毎日点検と、不安な点が少しでもあれば張り替えがなされていた。だが、樹海が閉ざされて数ヶ月、その間、ロープは放置され、緩やかに『死』を迎えていたのだ。
 とはいえ、ロープがなくても行き来できる程度には、根の堆積は都合がいい形をしている。支えるべき伴侶を失い途方に暮れた体の、数本のペグを後目に、ファリーツェは慎重に歩を進めた。
 注意力が散漫にならない程度に考える。
 今の件は言い訳できないが、俺はそんなに頼りないだろうか。
 しかし、立場が真逆だったら、自分も相手を心配していただろう。そう思えば、樹海に入ると決める度に過剰反応されるのも、やはり甘受するしかないのかもしれない。少し嫌気がさしたので、腹いせに責任転嫁を試みた。胸元にひっそりと忍ばせた『種』に小言を向ける。
「――元はといえば、あなたのせいです、ルーナ様」
「結局、きっかけはあなたの不用心なことに変わりはないでしょ」
 という、現在のハイ・ラガードで断じるルーナの声が時空を越えて届いたわけではないが、『種』から同じような反駁を受けた気がして、聖騎士は少しへこんだ。
「はい、はい」
 気を取り直して探索に集中する。
 折しも、肌で感じる空気が微妙に変化していた。冒険者だった頃、樹海の奥でいやと言うほど体感したものと、それは同一だった。
 階層化した樹海迷宮は、それぞれの階で、能力的にある程度の均衡の取れた生態系を有する。だが、場違いな能力を持つ個体が居座っていることもある。その『場違いな魔物』を『敵対者F.O.E.』と呼び、冒険者は恐れてきた。その階をどうにか切り抜けられるだけの強さしか得ていない者が彼らに遭遇したら、生きて帰れるだけでも御の字だったために。
 空気の中に混ざるのは、その『敵対者』の気配だ。
 もっとも、地下二階に生息する『敵対者』角鹿は、階の生態系に比すれば場違いだが、『敵対者』としては(生態系内の魔物の突然変異種を除けば)最弱である。ファリーツェにとってはさほどの脅威ではない。それでも、久々の遭遇は、まだ駆け出し冒険者だった頃の恐怖を呼び覚まし、心のどこかからの「慎重になれ」と語りかける声に意識を向けさせる。
「……わかってる」
 一人ごち、根の階段から、地下二階を踏む最初の一歩を伸ばした。
 樹海がどこまで開かれているのか、また、迷い込んだ者はいないか、それらを確認するだけなら、獣除けの鈴を鳴らすべきだっただろう。しかしファリーツェはあえてそうしなかった。現在の生態系がどうなっているのか、また、地下一階の魔物同様に逃げやすくなっているのか、確認したかったからだ。
 昔の記憶を頼るなら、地下二階の魔物は、地下一階のそれよりも、少し強くなっている。『敵対者』のしもべと思われる鹿達や、草だけでなく肉をも食むようになったウサギが姿を現し、森ネズミやモグラが群を組むようになる。
 駆け出し冒険者なら、一人で当たるには危険すぎる状況、否、ギルド長言うところの『バランスのいいパーティ』を組んだ者達ですら、数多、土に還ったものだった。
 その原因として真っ先に挙げられたもの達と、ファリーツェは遭遇した。階段から離れて数分程歩いたところであった。
 紫色の羽に、白い紋が美しい蝶。
 毒吹きアゲハと呼ばれる、極めて危険な昆虫である。
 その鱗粉には毒素を含み、吸い込んだ者の肉体に強烈な痛手を与える。鍛えられていない者が毒に冒されたら、阿鼻叫喚という形容語句すら生ぬるい状況に陥る。事実、駆け出しもいいところの冒険者が、地下一階でこの蝶に遭遇し、毒に冒され悶え死んだ例は、枚挙に暇がない――蝶の生息域は地下二階以下だが、地下一階にある花畑の蜜を吸うために、現れることがあるのだ。
 とはいえ、もっと恐るべき毒の使い手たちと渡り合った経験のある今のファリーツェにとっては、毒吹きアゲハの毒など、体力と抵抗力で乗り切れる。だからといって、好き好んで食らいたくはないものではある。
 一匹倒したら逃げてくれればいいのだが。
 姿を現したアゲハは五匹。よく観察すると、二匹と三匹で固まって行動している。樹海のアゲハ類は数匹の群体として行動することが多いため、冒険者達は慣習的に、一群を『一匹』と数える。この場合、冒険者流に言うなら『二匹』である。
 『二匹』のアゲハ達は、久方ぶりに発見した人間の様子を窺うかのように、ふわふわと浮遊している。浮遊しているだけなら逃げるのも容易く思えるのだが、踵を返すと、その方向にはすでにアゲハが回り込んでいる。どうやら、逃がしてくれる気はないようだ。縄張りを侵した者に痛い目を見せる気なのか、蜜より手っ取り早い栄養素として狙っているのか――彼らの複眼から、意志を読み取ることはできない。
 隙を見出し、無理矢理離脱することも可能ではあるが……彼らが上階の魔物と同様、不利を悟ったら逃げるようになっているのか、確認しておきたい。
「退く気がないなら――圧し通る!」
 言葉が通じるはずもないのだが、最後通牒を裂帛の気合いと成して、聖騎士は剣を抜くや、手近なアゲハに斬りかかった。

 聖騎士は護りに特化した職能である。ゆえに、武具の扱いにかけては他の前衛職に劣る。目を見張るような剣の必殺技スキルなど、なにひとつ持ち合わせていない。
 それでも、樹海で経験を積み、仕事として(地下一階のみとはいえ)樹海に関わることで、他の元冒険者よりは力量を維持しているファリーツェの剣は、技でもないただの一振りでも、凡百のソードマンの必殺技に匹敵する威力を秘めていた。
 後輩達同様の、肩の力が抜けた、悪く言えば適当にしか見えない斬撃は、虚空の見えざる文字をなぞるかの軌跡で、『一匹』の――その群体に属する三匹の――アゲハを次々と捉えた。人間の掌大の大型の蝶達は、その体のほとんどである羽を失い、地に這うしかない小さく無力な存在と化す。まだ生きてはいるが、実質死んだも同じ。後で彼らの存在を忘れたファリーツェがうっかり踏みつぶさなかったとしても、別の小動物の餌になるあたりが運命だろう。
 アゲハ達が飛んでいるだけでも微量放出されている鱗粉が、斬られた衝撃で少しだけ多めに散る。駆け出しが吸っても毒になるほどの量ではないが、灼かれた呼吸器が不快感を訴えた。
 幸い、もう『一匹』は、敵わないと判断したか、あたふたと逃げ去った。
 ファリーツェは軽く咳込みながら、近場の樹に背中を預けた。水袋の中身をあおり、勢いよくうがいをすると、微量の鱗粉で荒れた喉が少し楽になった気がする。そのまま少し休憩と決め、最低限の警戒は怠らないまま、思考に耽る。
 ――一戦だけで判断するのは危険だが、どうやら、地下二階の一般の魔物の行動原理も、通常の生物並みになったようだ。
 それにしても、一度は閉ざされた樹海が開かれた理由は何なんだろう?
 自問してから、ファリーツェは違和感を感じた。理由? 俺は『どっち』の意味での理由を知りたがっているんだろう?
 すなわち、『どのような物理的理由』か、『どのような思惑』か。
 たとえば――この樹海迷宮が数十年前に開かれたときは、地震がきっかけだった、と聞いている。それは物理的理由だ。反面、思惑はといえば、あったのかどうか。少なくともモリビト達は歓迎していなかっただろうし、たぶん、フォレストセルにしても樹海を開けるつもりはなかったのではないか。総合して、かつての樹海顕現は偶然の結果だったと思われる。
 では、今回は?
 地震は――自治都市群近辺でよくある軽度のものはともかく、大きいものは――なかった。そもそも、特定の一本の樹の、かつて開いていた虚穴が、また開く、なんて現象は、地震などの自然現象で起こり得るものなのだろうか。
「やはり、巫女殿、あなたがやったのか」
 樹海を(地下一階を除いて)閉ざしたのは、ヴィズルに代わって世界樹の代行者となった、モリビトの巫女の力だったはずだ。なら、逆の行動も可能な道理。
 そして焦点は『思惑』に移る。一度閉ざした樹海を開けたのは、なぜか。
「人間を、信用してくれたのですか、巫女殿」
 ……だったらいいのだが、そう簡単に結論付けるわけにはいかない。これが『試験』なのかもしれないからだ。もしファリーツェが樹海の生き物を無駄に殺して回ったり、後から入り込んできた人間が無意味に大量の資源を奪ったりしたら、今度こそ樹海は永遠に閉ざされる、というような感じで。
 最悪の予想は、今回の件どころか、モリビトの巫女の最初の手紙から、ファリーツェを葬るための罠だ、ということだが……。
「ないない、それはない」
 聖騎士は苦笑いと共に否定――しきれなかった。「……たぶん」
 そもそもモリビト達の苦難を招いたのが自分の行動なのだ、復讐されても仕方ない。
 だが、ここまで手の込んだことをするだろうか。それに、わざわざ手紙を何度もやりとりしてくれた相手の善意を信じたかった。だから。
「やっぱり、それはないよな」
 彼は今度こそすっぱりと否定した。
 億が一くらいの可能性で最悪の予想が当たっていたとしたら――せめて、あるかもしれない襲撃の件が一段落してからにしてほしいものだった。
 ともかくも、喉の調子もよくなったので、探索を再開することにした。もう何度か魔物と遭遇し、彼らの行動の変化を確かめておきたかったが、やめておくのが無難かもしれない。ファリーツェは獣除けの鈴を取り出し、魔物がいやがる音を出すそれを腰に吊し、鳴らしながら歩き始めた。
 さっき自分が羽を断ち切った毒アゲハ達が、蟻――『外』のよりふた周りほど大きいだけの、人間を襲わない種――にたかられて食料とされつつあるのが、目に入る。あいにく祈る神を持たないファリーツェは、とりあえず、友人である黒肌の聖騎士の崇める大地母神バルテムの名を借りて、毒アゲハの冥福と蟻の満腹を祈ることにした。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-34

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