←テキストページに戻る
ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・33

 その後の探索では、さしたることは起こらなかった。あと一、二回は遭遇するだろうと一同が覚悟していた魔物の襲撃もなく、密猟者も見あたらない。出会った数名の採集者達とは和やかな会話の後に別れ、樹海の風は血の臭いではなく、さわやかな緑の匂いと音を運ぶばかり。
 一同も、警戒は怠らないものの、自然と雑談に花が咲く。そのほとんどは特記するまでもない日常のことで、話す方も聞く方もその場で忘れて後で時々思い出す程度のことだったが、そのおかげで、冒険者の実力を前に強ばりかけていたヴェネスの肩の力も抜けたのは、確かなことだった。
 途中、樹海の南西方面で、芳香を撒く花畑に行き当たったが、そこでの休憩を誰も言い出さなかったのが、少し残念だったが。ヴェネスには判らなかったことだが、この花畑には毒のある鱗粉を撒き散らす蝶が現れるので、さすがに鱗粉からヴェネスを守り切ることはできないと判断したファリーツェが、早々に立ち去ることを選んだのである。
 そんな探索の末、十字路の兵士の下に戻り、最後に北西への道を辿ることになる。
「昔、樹海探索がなされていたときはね、この奥に、さらに地下に下れる階段があったんだ」
 と語るファリーツェの、そして耳を傾ける元『おさわがせトラブラス』の表情に、かすかな懐旧の色が浮かぶのを、ヴェネスは見た。短いながらも樹海を巡ってきたヴェネスには、その気持ちが少しだがわかる気がした。危険な生物が闊歩していて、その毒牙を掻い潜る、死と隣り合わせの毎日を過ごしていてさえ、否、だからこそ余計にか、樹海の美しさが、生き延びた喜びが、目的を成し遂げた達成感が、ずっと心に残り続けるのかもしれない。
 そも、自分自身も、冒険に関することではないながら、同じではないか。厳しい訓練と、無辜の民すら手に掛ける任務も茶飯事の、『組織』での生活でさえ、任務を成し遂げた達成感や、師に称揚されたときの喜びが、どれだけ強く心に焼き付いているか。それは『組織』から脱退した後々にも、思い出に残り続けるに違いない。
 そんなことを考えていたから、ヴェネスは、皆が不意に足を止めたことに気づけなかった。すぐ前を歩いていたヒロツの背に鼻をぶつけてしまう。前がファリーツェやシャイランだったら、鼻をさする程度では済まなかっただろう。
 ヴェネスの不注意とはいえ、こんな状況ではヒロツなら心配してくれると思うのだが、その気配はない。不満が沸いたわけではないものの、らしくなさに少年は訝った。
 密猟者がいるのだろうか。
 十字路から北西に向けて出発する際、「密猟者がいるなら、これから向かう場所にいる可能性が一番高い」との話を耳にしていた。先程の、過日には迷宮奥へ進む階段があった、という追加情報から、納得はできた。概して、赴く者の少ない場所にある物ほど、高値になる。一攫千金めいたものを望むなら、失われた過日の通り道を何とかして通れないか、と考えるものだろう。
 だが様子がおかしい。密猟者くらいなら、この四人なら、即座に戦闘態勢に入り、捕縛を試みるだろう。それが、魅入られたように前を見て、声を失うばかり。
 ヒロツの身体越しに前方を確認して、ヴェネスは声を上げそうになった。
 先はひときわ大きな樹に遮られ、行き止まりとなっている。おそらく人間が十人近く輪を作ってやっと取り囲めるほどの大きさだ。
 問題は、その樹の幹、地面から人間の背の高さを少し超えるあたりまでに、裂けたような虚穴が口を開けていることであった。
「これって、まさか」
 しばしの静寂の後に、ようやくシャイランが言葉を発した。その後は無言で足を進める彼女に、仲間達は付いていく。ヴェネスも状況はよくわからないながらも、後を追う。
 虚の中は、鎧を着込んだ人間がそこそこの余裕を持って動けるほどの空洞となっていた。ただし、実際にその中で自由に動くことは叶うまい。なぜなら、床に当たる部分がほとんどないからだ。
 地面の下に当たる部分には、大小無数の根が、伸び、絡み合いながらも下方へ続いている。太い物は地上のふつうの樹ほどもあるそれらは、足場をきちんと選べば、梯子代わりに下階への路となりそうだった。
 ……下階。本当に、この迷宮は階層構造になっているのだ。そもそも一度、絡まる根伝いに下りてきた身、今更この構造を不思議がるのもどうかと思うのだが、さらに続くとなれば、やはり信じられない気分になる。だが現に、絡まる根の隙間からは、遙か下の、現在階と同様の豊かな緑の地面が見える。植物の育成に必要な光源など、どういう仕組みで提供されているのだろう?
 そんなヴェネスの疑問は、少なくとも今はどうでもいいことだった。先輩冒険者達は顔を見合わせ、何があったのか推測し合っている。
「やっぱり、密猟者が穴をあけちゃったのかな?」
「いや、無理矢理こじ開けた感じゃしねぇな。どっちかっつーと自然に開いた感じがすっぜ。理由なんざわかんねぇが」
「でも、開いたのは自然でも、誰かが下に行っちゃったかもしれないよね」
「それは困るな……下には『敵対者F.O.E.』がいる。どれだけ危険かわからない」
 聞き慣れない言葉も漏れ聞こえてきたが、どちらにしてもヴェネスが口を出せる問題ではない。
 そのうち、現状は把握しきったのだろう、ファリーツェがひときわ通る声を上げた。
「よし、こうしよう」
 他三人とヴェネスは視線を聖騎士に向け、続く言葉を待った。
「君達は、この虚穴が他の人に見つからないよう、見張ってほしい。できればもっとここから離れたところで、来る人を追い返してくれるとうれしい。それとヴェネス、君はアリアドネの糸で街に戻るんだ。俺がどうしたかを誰かに言う必要はない。もし訊かれたら、まだ樹海で仕事してるとでもごまかしてくれ」
 そこまで一気に告げた後、ファリーツェは一息入れて、さらなる言葉を――皆が血相を変えることになる言葉を吐いたのだ。
「俺は、この下を確認してくる」
「冗談じゃありません!」
 その瞬間、『おさわがせトラブラス』一同が勢いよく拒否の言葉を吐いた。否、拒絶と言った方がふさわしいだろうか。同じ口調で「ファリーツェさんなんか嫌いです!」と告げていたら、言われた方は一生立ち直れないのではあるまいか、とも思える激しい言葉だった。
 自分自身を否定されたわけではないので、そこまで落ち込みはしなかったものの、あまりの剣幕の前に退き気味に、聖騎士は反論を試みた。
「俺、そんなに頼りないか?」
「頼りないっす!」
 ボランスの即答であった。
 他二人は、当然という体で頷いていたが、ヴェネスには彼らの剣幕が理解できなかった。
 彼らは強い。その実力は片鱗しか目の当たりにしていないが。事実ファリーツェは、樹海を踏破したギルドに実力的に一番近しかったギルドの一員だったはずだ。それがなぜ、ここまで否定されるのか。
 それとも、下層の魔物は、地下一階と比して格段に強いというのか。
「別にむやみに戦う訳じゃないよ。下に誰かが下りてないか確認するのが一番の目的だし、一応、進めるだけ進んではみるけど、無理のないところで切り上げる。それでも不安か?」
 聖騎士は理論的な(と、少なくとも彼自身が思っているだろう)言葉で説得を試みる。しかし、一同は首を縦に振らない。
「そもそもっすよ、ファリーツェさんがヴェネスと一緒に帰って、オレらが下を探索するってもありじゃないっすか?」
「そのときは誰がここを見張るの? 応援を呼ぶ間に別の誰かが入り込むかもしれないのに?」
「そりゃ、たとえばオレが下に行って、シャイラン達に見張っててもらうとか」
「俺を頼りないと言った君が、どの口でそれを言うんだ?」
 ……他者を辱めるような今の言葉はファリーツェさんらしくない、と、端で聞いていたヴェネスは思った。
 会って間もない人物の評を賢しげに語れはしないが、ファリーツェは焦っている気がする。この下にあるものを自分以外の誰にも見せたくない、と思っているような――ただの勘にすぎないが、そんな雰囲気を感じ取ったのだった。
 銃士の少年が考えられたのはそこまで。彼はシャイランの叫ぶ言葉に気を取られた。
「みんなファリーツェさんの力に不安があるわけじゃないんです!」
 注目を浴びた剣士の娘は、その言葉を発した力強い声からは考えられないほどに弱々しい態度で、続く言葉を口にする。
「でも……あのときみたいに……第二階層からずっと帰ってこなくて……『エリクシール』のみなさんが連れて帰ってきたときには、死ぬかもしれなかった状態だったって……あんなことはもう……」
 元『おさわがせトラブラス』の冒険者達は、ばつが悪そうな表情でうつむいた。
 ――それで、ヴェネスは彼らの態度に得心がいった。
 樹海に赴く前、磁軸計の準備のために寄った冒険者ギルドで、ギルド長も言っていなかったか。ファリーツェが第二階層で迷子になって死にかけ、ずっとエトリアでの笑いぐさになっている、と。
 それは同時に、どれだけ強い者でも、どれだけ警戒していても、不意のことから危機に陥る、という証左でもあるのだ。まして、一人で赴くなら、誰の助けも得られない。ギルド長も警戒した状況を前に、聖騎士を慕う元冒険者達が、万が一があったら、と不安がるのも無理はない。
 そう考えると、ヴェネスも同じ気持ちになってきた。このまま聖騎士を下階の確認に行かせたら、戻ってこないのではないか。
 だが、彼には雇い主の決意を止める権限はないのである。忠告ぐらいならできるかもしれないが、樹海に浅い銃士の言葉が何の役に立つのか。それに、先に感じたことからすれば、ファリーツェも引く気はないのではないか――。
「ファリーツェさん」
 とヴェネスが呼びかける声に、一同は振り返る。
 銃士の手には磁軸計とアリアドネの糸。磁軸計には聖騎士と銃士の情報が登録されている。今、それを使えば、二人は労することなく街に帰れる。他の三人は置き去りだが、彼らは別途、自分達用の磁軸計と糸を持っているはずだ。
 それを、ヴェネスはファリーツェに差し出した。
「探索に行くなら、これ、持ってってください。少しでも危ないって思ったら、これですぐ帰ってこれるんですよね?」
「君はどうするんだ?」
 不審げにファリーツェが返す。聖騎士が磁軸計と糸を持ち去るということは、当然だが銃士の少年がそれを使うことはできないということになる。元『おさわがせトラブラス』の帰還に便乗することもできない。そうするには、彼らの磁軸計にヴェネスの情報が登録されていることが前提だが、登録は街でなくてはできないからだ。
 しかしヴェネスはしかと首を振る。視線は聖騎士を離れ、元冒険者の三人に移る。己の期待が裏切られることを微塵にも想像しない、まっすぐな瞳。
「みんなが無事に送り届けてくれるでしょう? この階ならそんなに危険じゃないし、きっと『獣除けの鈴』とかも持っているんでしょう? それにボランスさん、自分が一人で下の階に行って大丈夫みたいなこと、さっき言ってたでしょ? なら、二人に見張りを任せて、おひとりでボクを街まで送ってくれるのも、難しい問題じゃないんじゃないかな」
「オレが一人で行けるってのはなぁ……」
 ボランスの声には苛立ちが若干混ざっている。
 ヴェネスには彼の言いたいことがわかった。彼が一人で下階に行けるというのは、レンジャーとしての技能を最大限に活用して立ち回れることを前提としたもの。反面、自分の身を守れるかもわからない者を連れて行動するのは、その技術をほぼ全てそぎ落とされるに等しい。
 もちろん、地下一階、獣除けの鈴もある。ヴェネスを無事街に送り届けるのは造作もあるまい。それは別問題として、少年の言い分は詭弁なのだ。
 それでも結局、ボランスは白旗を揚げた。
「……まぁ、そうするのが最善手っちゅーことか」
「ボランス!」
 悲鳴に近い声をシャイランが上げるが、制したのはヒロツである。
「もうやめよう。これ以上は侮辱だよ」
 結局のところ、彼らも感情の落としどころを探していたのかもしれない。聖騎士への絶大な信頼と、それでも拭い切れぬ不安の狭間で。だがそんなことには一切触れず、ヴェネスはファリーツェに磁軸計と糸を手渡した。余計なことかと思いつつも、言葉を添えながら。
「万が一もないとは信じてますけど、絶対に、無事で帰ってきてくださいね。依頼人がいなくなってしまったら、ボクはなにをすればいいのか、わからなくなってしまいますから」
「……わかった」
 一瞬、ファリーツェは苦笑じみた表情を浮かべたように見えたが、ふと顔を引き締め、渡されたものを収納装備にしまい込む。新たな道に向かい合うその姿には、ためらいは感じられない。
「大丈夫だよ、無茶はしない。……もし第二階層まで行けそうでも、そこまでは入り込まないで戻ってくるよ」
 虚穴の中に姿を消す直前に聖騎士が残した言葉が、元『おさわがせトラブラス』の三人の顔を少しだけ明るくしたのを、ヴェネスははっきりと見た。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-33

NEXT→

←テキストページに戻る