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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・32

 素材を得ることが目的の一つになったが、それほど血眼になって魔物を捜すつもりはない。魔物が逃げる前に倒せる者が少なくなった、とはいうが、民間人の採集者が実力で、あるいは運良く魔物を倒せることもある。彼らが苦労して採集した素材の現状買取価格の暴落を防ぐためにも(素材の持ち出し量が制限されているのは、そのためでもある)、執政院付兵士達が大活躍するわけにもいくまい。
 民間人の採集者達は、この日も数名が樹海に足を踏み入れていた。時には無許可の密猟者が紛れ込んでいることもある。そんな不届き者を掣肘するため、先ほど十字路で顔を合わせた見張りの兵士から預かった採集許可所持者リストと照らし合わせ、許可証を確認することも、ファリーツェ達の仕事である(ちなみに、持ち出される素材量を確認するのは、樹海入り口にいる兵士の仕事だ)。しょっちゅう樹海で顔を合わせ、顔も身元もよく知るようになった『常連』なら、許可証の確認を省くこともある。
 リストの中に、特に年季の入った顔見知りの名を見付けて、ファリーツェは意外そうな声を上げた。
「あれ、ゼグタント?」
「ああ、そういや久しぶりに名前を聞きましたね」
 最近とんと見かけなかったので、てっきりラガードに行ってしまったかと思っていたのだが。どうしていたのか聞きたい気にはなったが、残念ながらこの日は彼と顔を合わせることはなかったのである。
(そして、現在ラガードにいるゼグタントにしても、己の空白の時間について語る気はなさそうであった)
 ともあれ、時折、採集者達と鉢合わせながら樹海を進むこと、数十分――ファリーツェ達が樹海に踏み込んでからはおおよそ一時間が過ぎた頃。
 執政院の寮の食事は悪くないが香菜クラントロ入りのスープだけは勘弁してくれ、とぼやくボランスの言に、賛(ヒロツ)否(ファリーツェとシャイラン)と困惑(香菜を知らないヴェネス)飛び交う、そんな雑談に花を咲かせていた一同は、感覚に引っかかった戦の匂いに、それぞれの得物ぶきに手をかけた。

クラントロって何だろう? と考え込んでいたヴェネスは反応が遅れた。
 藪を鳴らし、一同の目前十メートルほど先に飛び出してきたのは、赤に近い体毛を持ったネズミであった。ただし、猫ほどに大きい。周囲の空気を嗅ぐように、しきりに髭を動かしていたが、人間達を認識したか、ちょろちょろと駆け寄ってくる。その様は、大きさと色合いを除けば、まさに普通のネズミ。
 だが、ようやく敵を認識したヴェネスは、それを普通のネズミとは思えなかった。
 獣が獲物を見いだし、狩ろうとする殺意を、敏感に察したのである。
 それは彼が冒険者としての素質に優れている証拠といえたかもしれない。かつて迷宮に挑んだ新米冒険者には、このネズミによって冒険者失格の烙印を押された者も数多かったのだ。ネズミの巨大さに驚きながらも、「しょせんはネズミ」という思いこみによって、樹海の洗礼を受け、一部の者はそのまま迷宮の地に果てたのである。
 かといって、このときのヴェネスが抱いた考えもまた、危険なものだった。
 ――一刻も早く踵を返し、この戦場から逃れたい。
 彼自身の本来の戦い方、基本的に相手の害意の届かぬところから攻撃を加える戦法を考慮すれば、その思考に至るのも責められはしないだろうが。
 しかし、辛うじてヴェネスは踏みとどまった。一時間ほど前の忠告を思い出したからである。

 ――そのガキはお前が思うようには動いてくれねぇぞ。守ろうとして盾をかざしたのに、その場を逃げ出してて、あっちの方向でネズミにかじられてる、なんてこともあるかもしれねぇ。

 そうだ、あのときは業腹だったが、ギルド長の言うことは正しかった。もし自分が今の思考に駆られてこの場を逃げ出したら、ネズミはひょっとしたら、自分に襲いかかってくるかもしれない。そのとき、自分で対処できるとは思えないし、聖騎士の盾も届かないだろう。今の自分は、この場で動かず、先輩達を頼りにするのが正解なのだ。
 ところが、その先輩達は、どうも頼りなさげである。武器に手をかけているものの、抜き放つ気配もなく、ネズミの威嚇行動を前にのんびりと作戦会議を行っている。
「ファリーツェさん、ここはオレらが極力早くナルハヤでやるっすよ」
「あたしもやります!」
「俺、あぶれるの? つまんないなぁ」
「だってファリーツェさんはヴェネス君を守らなきゃいけないじゃないですか。あ、僕、演奏しますよ」
「いやまぁ、そうだけど……まぁいいか、皆に任す」
「はーい」
 元冒険者ギルド『おさわがせトラブラス』一同は、提示した作戦を受理され、喜色を浮かべながらも、のんびりと了解の意を示す。
 しかし――次の瞬間。
 己以外の四者から、得体の知れない気配オーラが立ち上るのを、ヴェネスは察知した。
 ボランスは、えびらから引き抜いた矢を手早くつがえ、ほとんど力を入れていないかに見える軽い引きを経て、狙うのも面倒とばかりに無造作に放った。シャイランは、かすかな刃鳴りと共に抜いた剣を構えるより先に駆け出し、ボランスが狙わなかった方に肉薄すると、当てる気がないように見える雑な斬撃を繰り出した。
 だというのに、ネズミは、心臓を正確に貫かれ、頸骨を真直に切断され、翡翠色の下草をおぞましい深紅に染めながら、あっという間に命の火を消されたのだ。
 瞬きするほどの後に、すべてが終わっていた。のんびりして見える人間達の真の実力、かつて樹海を闊歩した猛者であるという事実に、ネズミ達自身が気が付く前に。
 遅れて響いた、リュートの音が、もはや敵意も殺気も発せられない魔物達への鎮魂歌となった。
 リュート奏者の表情は不満げである。
「前奏すらできなかった!」
「そりゃそうでしょうよ」シャイランが笑いながら答える。
「いや、きれいにれたねー」
 敵対者のいない戦場を、守るべき者から離れたファリーツェが、一瞬前までは生き物だったものに近づいた。
「駆け出しの頃を思い出すよ。倒すまで何度も攻撃しなきゃいけないから、皮はぼろぼろ、牙は欠けるし、いい値段で買い取ってもらえる質の素材がなかなか取れなくてさ」
 語りながら、腰からナイフ――護身用にヴェネスに預けられたものと酷似している――を引き抜き、さくさくと片方の解体にかかった。もう一体にはシャイランが取りかかっている。
「なぁ、たぶん初めて見ただろ、魔物。どうだった?」
 のほほんとした様相でヒロツが近付いてきて話しかけてくるのに、ヴェネスは、一瞬身構えかけた。ほんの先ほどまでとは、彼らを見る目が明らかに違っているのを、自分でも感じる。
 これまで狙撃銃の下に葬ってきたどんな敵よりも、恐ろしい人達だ。ソードマンやレンジャーは言うに及ばない。今の戦いでなにも動か(け)ず、おどけた様相で自分の不活躍を嘆くだけだった、目の前のバードも、自分を守ってくれるだけだったパラディンにしても、戦場では数多の敵を狩る鬼神と化すだろう。もちろん、樹海で獣を相手にする戦いと、人対人の戦場、遠方からの狙撃では、比べることなどできないが、それを差し引いても、ヴェネスは冒険者達に恐怖した。そして、味方でよかった、と思ったものだった。彼らに比べればネズミのことなどどうでもいい。
「そんな怖いもの見るような目で見ない」
 窘めるような、それでもどこかおどけが混ざった言葉と共にヒロツは肩をすくめ、よっこらせ、と下草に腰を下ろす。構えたリュートに弦だこの目立つ指を乗せ、弾くはの音。先の戦いとは違い、音はその一つでは終わらず、泉から沸き立つ清水に似た勢いで、めくるめく音の連なりが樹海の大気を震わせた。
 木々のざわめきを音楽として表現したような、多彩な音の割に静かな曲は、冒険者の戦いを初めて見たことで沸き立ちすぎたヴェネスの心を、緩やかに沈静化させていく。
「……落ち着いた?」
 おおよそ数分というところだろう、曲を演奏し終えたヒロツはリュートを下ろし、にっこりと笑みを浮かべてヴェネスに目を向けた。ヴェネスは深く息を吐く。先程までの恐れは、心の奥底に息を潜めていたが、無視できるほどになっていた。
「はい、ありがとうございます、落ち着きました」
「それはよかった。まぁ、僕らも、ファリーツェさん達やエルナクハさん達に同じようなこと思ったことがあるから、責められないけどねー」
 座ったときと同様に、よっこらせ、と声を上げて立ち上がるヒロツ。その背丈が自分よりずいぶんと上にあるのに気が付いて、ヴェネスは自分がいつの間にか座り込んでいたことを知った。あわてて、ヒロツに倣って立ち上がる。
 ネズミの解体に集中していたはずのファリーツェとシャイラン、周囲を警戒していたらしいボランスが、二人に近付いてきたのは、そんな頃合いであった。
「皮も牙もいい具合に取れたよー」
 誇らしげにシャイランが素材を掲げる。
 野生種として生きる過程で付いた傷がいくつかあるものの、概して上質と言える毛皮と牙だった。この森はよほどに豊かなのだろう。故郷の決して豊かとは言えない森で、やせ細った獣からわずかな肉とぼさぼさの毛皮をはぎ取ったことを思いだし、ヴェネスは驚嘆を感じた。そして、ほんのわずかな羨望も。
 魔物は(目の前の元冒険者達に比すれば赤子だが)怖いが、彩りまぶしく、多大な恩恵を与えてくれる森。過日には、エトリアを小さな辺境の街から巨大な都市に膨れ上がらせたという、宝の山。
 ――確かに、どこか別の国が奪取を企んでいても不思議ではない。
 これを守りきるため、あるかもしれない襲撃に備えるのが、執政院の、ひいては雇われた自分の役目なのだ。改めて痛感する。
「これからどうすんっすか?」
 素材を背袋に納めながらボランスが問う。
「いつも通り、一通り回らないと。密猟者がいるかもしれないから」
「この子連れたまま?」
 ファリーツェの返答にシャイランが逆に問う。ヴェネスを疎んじている口調ではなく、単なる確認のようだった。
「俺達がいれば大丈夫だよね」
 どこか楽観口調に聞こえるファリーツェの言葉だが、元『おさわがせトラブラス』の今なお健在な実力を確認した上での、確かな判断なのだろう。それは一同にしても納得できたようで、反対するものなきまま、再探索の準備に入る。
「君は、今まで通り後列だからね」
 ヒロツに言われて、ヴェネスは素直にうなずいた。この樹海の魔物は、ネズミですら今の自分の手に負えないだろうことが、はっきりとわかったから。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-32

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