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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・31

 がさがさ、と鳴り響く枝葉の音は、今にして思えば、わざと立てられたものなのだろう。しかし、その瞬間のヴェネスにとっては、敵襲を予感させるものだった。――普段なら、敵が陽動を企てている、という可能性も頭に浮かんだだろうが、樹海という未知の戦場に呑まれかけている今ではそれも叶わぬこと。必然的に喉からせりあがりかける叫びを、銃士の少年は辛うじて飲み込んだ。
 だから、次の瞬間に起きたことを目の当たりにし、ヴェネスは一杯食わされた気分になったのだった。音を立てた枝葉の中から飛び降りてきたのは、まごうことなき人間だったのである。それも、革鎧の左胸側にエトリアの紋章を身につけていた。
「やっぱそうだったなー。ファリーツェさんちーっす」
 執政院付きの人物だと思われるのだが、砕けたを通り越して軽薄な言葉遣いであった。否、その容姿も、公人としてはどうなのか、と思わざるを得ないものである。
 ファリーツェのものより明るい金髪を、ハイ・ラガードの田園地帯で見た麦穂のように逆立てた、面長痩せぎすの青年だった。体の動きを阻害しにくい装備は、彼が下草の生えた地面に着地したときも、さしたる音は立てない。背負った長弓と矢筒は、使い込まれた痕跡がありありとわかる。
 狩人レンジャー以外の何者とも思えなかったが、鋭い目元はレンジャーだからというより性格が現れているようにしか見えない。だが、人は見た目だけで判断してはいけないと古来より言う。第一印象に反して態度は気さくなものであった。
「あー、この坊主が、話題の。おっす、オレ、ボランス。よろしくな」
「あ、はい、ヴェネスです。よろしくお願いします」
 少しかがんだボランスと――なにしろファリーツェより頭一つ分背が高かった(頭髪除く)ので――握手を交わす。が、その後、狩人の青年はヴェネスに対する興味より知人との会話を優先させた。
「兵士になってから格好改めたんじゃなかったのか?」
「あーそうか、あれから、樹海で会うのは今日が初めてしたっけ。自分、樹海に入るときは大抵コレっす。やっぱ気合いの入り方が違うっすから」
「執政院に戻るときにわざわざ直してるってこと?」
「ええまぁ、防衛室長面倒でウゼぇっすからね」
「ははは、違いない。ところで他の二人は?」
「後からチンタラ来ますよ。オレ、先行してきたっす」
 チンタラ、とボランスは口にしたが、その言葉ほどには、残り二人の到着は遅くなかった。
「遅くなりましたあー!」
 そんな声が待ち人の到来を告げたのは、少し奥に行っていよう、と歩き出した三人が、十字路に行き当たり、常駐当番の兵士に軽い挨拶を向けたときである。
 森の奥から姿を現した声の主は、赤毛の女剣士ソードマンと、癖の強い銀髪の男性だった。
 女剣士は金属鎧を易々と着こなし、腰にはよく使い込まれた立派な長剣を佩いている。鎧にはボランスの革鎧と同じように、エトリアの紋章が付けられていた。女性としては体格がいいように見えるが、筋肉で引き締まったそれであり、女性としての魅力を損なってはいない。
 銀髪の男性はボランスのものに似た革鎧で、彼もやはり執政院付きの兵士だろう。しかし、狩人のものより若干廉価に見える弓はいいとして、他に携えているのはリュートである。危険な迷宮に楽器とはどういう了見なのか。なお、この時点でヴェネスは、冒険に加わる吟遊詩人バードの存在を知らない。
「紹介するよ、ヴェネス。こっちの剣士がシャイラン、吟遊詩人がヒロツだ」
 ファリーツェの声に我に返り、ヴェネスは慌てて頭を下げ、差し出された二本の手を順番に握り返した。それでもやはり、楽器が気になる。ついでに、なぜかヒロツが腰のベルトから革靴を片方ぶら下げているのが目に入った。小人でもなければ履けないサイズなので、何かのお守りみたいなものかもしれない。
「革靴が気になるかい?」
 不意にヒロツがそう声をかけてきたので、ヴェネスは我に返った。しかし、はいと答えるべきかいいえと言うべきか、判断に迷う。ヒロツの得意げな表情を見る限り、然と答えたら長い話になりそうだ。
 幸いにと言うべきか、このときは外部からの助けがあった。
「いい加減に、革靴にこだわるのはやめろってーの!」
 ぺちこーん、と、ヒロツの後頭部をいい音を立てる打楽器とせしめたのは、シャイランの一撃である。
 見た目(聞いた感じ)ほどには痛くはなさそうで、かがんで頭を抱えたヒロツは、すぐに立ち直って苦笑いを浮かべた。
「ははは、ごめんごめん、つい」
「あー、あの、迷宮探索に吟遊詩人ってのが、意外だったので……」
 なんだかこのまま流してしまうのも気の毒そうだったので、ヴェネスは本来抱いていた疑問、あまり長くならなさそうな話題を振った。
「そうかな? 戦場で吟遊詩人が皆の戦意を高揚させるのは、よくある話だと思うけどな」
 こともなげにヒロツは答える。思った通り長い話にはならなかった。というか二言で終わった。
 実を言えば、ヒロツの言う(そしておそらくファリーツェ達が経験してきた)戦場と、ヴェネスが想起するそれは、性格が大きく異なるものだった。隠密性が重要なヴェネスの戦場で、味方の吟遊詩人が華々しく活躍したら、任務など着手する前から失敗である。
「なんなら、実践しようか?」
「お前の歌の出る幕なんざねぇと思うけどなぁ」
「だよねー」
「そりゃつまり、僕が歌ってても戦況に不利はない、ってことだよね」
「たぶん前奏で戦闘が終わるけど、それでもいいかい?」
 わいのわいのと軽口を叩き合う一行(ヴェネス除く)だったが、話しながらもさりげなく場所を変え、側で一同の様子をずっと見ていた見張りの兵士と何かやりとりをし、ヴェネスの袖を引き、気が付けば、いつの間にか隊列が整えられている。前列に聖騎士と剣士、後列に狩人と吟遊詩人、そして銃士という組み合わせ。探索者としての経験のないヴェネスにしてみれば「たぶん、間違いないんだろう」と思うしかない並びだったが、その実、堅実な隊列である。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
 隊列を整える間に混沌の極みに陥った雑談を、ファリーツェの声が打ち切る。
 皆の間に漂う空気が少し変わった。ヴェネスはその様を語る言葉を知らないが、ヒロツならば、そして、ラガードでヴェネスの語りを聞いているマルメリであれば、的確な表現を口にしただろう。すなわち、「リュートの弦がいい具合に張った」と。油断を己の心から追い出し、かといって気を張りすぎてもいない、ほどよい緊張感が、元冒険者達にはあった。
 だが、ヴェネスにはそれはない。慣れ親しんだ孤独な戦場とは違う、これからの未知に、無駄に踊りすぎる己の心臓を抑えようとするのに、精一杯だったのである。

 世界樹の迷宮はすっかりと変わった。
 執政院の騎士として、迷宮に足を踏み入れる度、ファリーツェはそう思っている。
 冒険者として初跡を印したときは、緑の地獄、としか言いようがなかった。当時のファリーツェは今のヴェネスのような立場で、いくらか樹海に慣れた冒険者と同行してはいたが、それでも、だ。
 迷宮に修行として挑んだ主人とその仲間が、ほんの三階まで降りたところで全滅した、という事実が、怯えを助長していたことも、否めない。だが、数回の樹海入りの後に三階まで降り、主人と仲間を惨殺したであろうモノ、巨大なカマキリを見た瞬間、すとん、と得心してしまった。――ここは人間が来るべき場所ではない、と。
 それでもギルド『エリクシール』と共に、少なくとも遺都シンジュクを発見するまでは歩ききったのは、もとより、主人達の捜索を『エリクシール』に依頼し、その報酬として自分の身柄をかのギルドに預ける契約だったからに過ぎない――当初は。迷宮を進むにつれ、自分なりの目的もできたわけだが、それはまた別の話。
 ともかくも長い探索を通じて痛感したのは、迷宮に住まうモノは基本的に、侵入者を排除する意志を持って動いているということだった。もちろん、通常の生き物も、縄張りから外敵を排除しようとする。だが迷宮の生き物は度が過ぎていた。どれだけ傷を負わされても、(一部の例外を除けば)決して逃げず、死ぬまで立ち向かうなんて、どれだけ戦闘本能が強いのか。
 それを考えれば、樹海は変わった。地下一階にしか入れないから、閉ざされた奥ではどうなっているかは知らないが、魔物と呼ばれた動物達は相応に逃げるようになった。人間を襲うことはままあるが、抵抗に遭って、少しでも分が悪いと感じたら、ためらわずに身を翻し、侵入者あらしが去るまで身を潜めるようになった。獣除けの鈴が響いていれば、まず出てこない。だからファリーツェも、魔物を殺して得る素材が必要な時を除けば、今の樹海で彼らに手をかけたことはなかった。
 とはいえ、襲ってくるときの魔物達の強さそのものは、かつてと変わらない。強さを持たない人間にとって、自分達を彼らの弱肉強食の法則に組み込むべく襲い来る魔物は、未だに脅威以外の何者でもなかった。獣除けの鈴を忘れた(使い果たした)一般人が餌食になりかけることも多い。ファリーツェ自身が関わったところでは、救えなかった生命はないが、知らないところで犠牲者が出ていてもおかしくはない。
 さて、この樹海は、後列で身を固くする銃士の少年には、どう映っているのだろう。
「魔物が出たらどうするの? やっつける?」
 ファリーツェの隣を進むシャイランが声を上げた。口調が砕けているのは、後列の仲間達にも向けた言葉だからだ。なお獣除けの鈴を鳴らしていないのは、ヴェネスに魔物を見せておきたいというファリーツェの意向である。
 返答はボランスからあった。
「シリカが素材ほしがってたぜ」
「えっ、もうなくなったの? このあたりで狩れる素材なのに」
 意外という風体で口を挟むファリーツェにヒロツが答えて曰く、
「ほら、少し傷つくと逃げるようになっちゃいましたから。逃げる前に倒せる人は大体、ラガードに行っちゃったか、引退しちゃったかで……」
「あーなるほど、そういうことか……」
 そのあたりは予想外だった。
「じゃ、今回は、魔物が出たら殺すってことで」
 内容の割にはあっさりとした口調でファリーツェは宣言した。無駄殺しには嫌悪を抱くが、必要となれば厭わない性格である、と自負している――相手が人間であっても。何しろ呪術師としてそう育てられたもので。三つ子の魂百までとはこのことか。  

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-31

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