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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・29

 ファリーツェとヴェネスが樹海に踏み込んだのは、結局、翌日になった。聖騎士一人でならともかく、樹海を少しも知らない者を、夜の森に招くのは危険すぎる。
 ヴェネスの逗留には、執政院の奥の倉庫を整理した場所を使ってもらうことになっていた。そこに荷物を運び込んだ後、オレルスの下に報告(兼、顔合わせ)に赴いたのだった。
 銃士の予想外の若さに長は驚いたようだったが、数多の冒険者を値踏みしてきた身、同じ年頃の冒険者さえも樹海を闊歩していた様を知っていたから、その件で心配を口にすることはなかった。微熱でけだるい体を起こし、述べたのは、
「万事はファリーツェ君に命じてあるから、よろしく頼む」
という旨であった。
 それから、各部門を訪ね歩き、ヴェネスを紹介して回った。件の会議の翌日には自分の非礼さを詫びに行っていたおかげか、今回も少なくとも表面的には友好的な態度で応対されたものだった(もちろん長からの下命があったからだろうが、それだけならもっと事務的な応対をされてもいいはずだ)。己の未熟さと年長者の寛大さには頭が下がる思いである。
 ただし、防衛室長だけは例外だった。眉根をしかめながらヴェネスの紹介を聞いていた彼は終始無言で、補佐が焦りを見せつつも応対してくれた側で不機嫌そうに鼻を鳴らしただけという始末。
「正直、あの人は苦手です……」
 防衛室長の下を辞した後、ぽろりとヴェネスに愚痴をつぶやいてしまい、あ、またやってしまった、と反省するファリーツェであった。
 そんな出来事を前日のものとなさしめた後のこと。
「おはようございます」
 控えめなノックに許可を返すと、すでに解錠してあった扉を静かに開けて、銃士の少年が入室してきた。前日に申し合わせていたとおりの時間、朝八時のことであった。
 この時間を指定したのは、訪れるかもしれないカーマインビークとの鉢合わせを避けるためである。かの伝書鳥が姿を見せるのは、朝の六時から七時頃、ないし夕方五時から六時頃と決まっていた。ただし、この日は姿を見せていない。
「やぁ、おはよう、ヴェネス」
 昨日と違い、ファリーツェの態度は砕けている。昨日、必要事項をすませ、割り当ての部屋にヴェネスを再び連れて行った後、別れ際に請われたゆえであった。依頼人に丁寧な応対をされるのは慣れないという。
 ファリーツェはすでに聖騎士としての装備一式を身につけている。腰には、樹海に入ったとき、急時に兵を呼ぶための角笛。
 反して、ヴェネスの姿は『組織』の銃士の制服。一番上の上着だけは部屋に置いてきたと見える。そして、樹海に入るというのに、武器らしい武器を――エトリアにも携えてきた銃すらも持っていなかった。服はともかく、銃の不持参は、ファリーツェの指示によるものである。
「あの、これから、樹海に入るんですよね」
 伝聞ながら、ヴェネスも樹海の危険さは承知している。武器なしで踏み込む危険性は容易に想像できる。だというのに、この指示だ。敬愛する聖騎士の言葉でも、不安が先に立つのは否めない。
 無論、ファリーツェはヴェネスを苛めるためにそんな指示を出したわけではなかった。
「君にこれを預ける、ヴェネス」
 聖騎士は机の引き出しを開け、中から一振りのナイフを引き出した。
 ナイフと呼ばれる武器は千差万別である。共通点は、片刃、刃の軸に対して非対称な柄。そして比較的小型であること。
 戦いに縁のない富豪なら、晩餐会で豪勢な食事を切り分ける食器を想像するだろう。だが、ファリーツェがヴェネスに差し出したそれは、もちろん違う。庶民が肉を捌くとき、木材を加工するとき、あるいは護身や攻撃の際に用いる、ナイフとしては大型のそれであった。
「接近戦時の護身術の心得は?」
「基本的なものなら、少し」
 せいぜい、街でごろつきに絡まれたときにあしらう程度のものだが。体格的な不利もあり、近接戦の達人を相手取れるようなものではない。それでもファリーツェは頷いた。
「自分の身が守れれば、問題ない。危機の時に動けるかどうかだけでも違うから」
 続けて渡されたのは、ヒンジで繋がれた二枚の水晶の板であった。ヴェネスはそれが『磁軸計』と呼ばれるものだと知っている。樹海探索時に自分の現在位置を知るために必要不可欠なものだ、と昨日のうちに説明を受けたからである。アリアドネの糸という、緊急脱出用の道具を使用する際にも必須のものだという。
 アリアドネの糸もヴェネスの手に載せながら、ファリーツェは続ける。
「樹海に行く前に、冒険者ギルドに寄って、磁軸計に君の『登録』をやる。それで、君は磁軸計に居場所が表示され、アリアドネの糸で樹海脱出できるようになる。詳しい使い方はギルドで説明するけど、先に言っておく。……もし、俺の身に何かあったら、君は躊躇わず脱出すること。いいね」
「……はい」
 我知らず、ヴェネスは息を飲んだ。この聖騎士をして、そのような準備を欠かせないほどに、樹海は危険な場所なのだ、と。
 実のところ、ファリーツェからすれば、万が一以下の可能性を考えたに過ぎなかったのだが、危機に備えるという目的自体は同じ、思考のずれには互いに気付くことなく話は進んだ。
「君の戦場は樹海じゃない。そんな場所で、もし君が――言い方悪いけど――出しゃばって、挙げ句に命を落としたりしたら、本当の戦場のために君を呼んだ俺はどうしたらいいんだい?」
 だったら――とヴェネスは考える。だったらなおさら、自分も使い慣れた武器を持参した方がいいのではないか。素人に毛が生えた程度のナイフ術ではなく、長いこと慣れ親しんだ長身の狙撃銃――
「……あ」
 その瞬間、ヴェネスは武器の不持参を指示された理由を悟った。同時に、そんなことにさえ頭が回らなかった自らの不明を恥じた。
 ファリーツェは樹海を知らぬ銃士の無知を嘲笑ったりはしなかった。ただ、
「そういうこと」
と、弟を諭す兄のような穏やかな声音で返しただけである。
 その後の会話はたわいない雑談――やれ寝具の寝心地はどうだったとか、やれ夕飯の味付けが気に入ったとか――だったので、ヴェネスは、初めての樹海入りへの緊張や、先の不明を恥じいる思いが、軽くなるのを感じた。
 それでも、
「さぁ、出ようか」
 聖騎士の一声が、声を上げた本人と銃士の少年双方の心を、ぴりりと痺れさせる。
 ヴェネスにとっては全くの未知の領域。先の問答の影響もあり、わずかでも気を抜けば死に直結する、と思いこんでいる。無論、樹海探索者の経験も覚悟もない彼のその考えは、決して大袈裟ではなく、むしろ正しいものといえた。
 対してファリーツェの方は、実のところ危険など感じていない。樹海の謎を解き『エトリアの英雄』と呼ばれる栄誉にこそ浴せなかったが、彼と彼の仲間ギルドは、現『英雄』ウルスラグナと競りながら一時は追い抜き、樹海の奥に眠る遺都シンジュク、古代の奥津城を、冒険者としては最初に見いだした強豪なのである。樹海探索から離れて久しい今は、むやみに遺都に踏み込めば、その道程の最中に死神を舞踏相手として押しつけられる羽目となるだろうが、地下一階ならば、執政院の職務として今も定期的に見回っている場所、己が実家の庭を案内するに等しい行為だった。もっとも、心に巣くう慢心を駆除することを忘れるほど愚かではない。
「そういえば」
 不意にファリーツェは思い出す。
「ヴェネス、君があと半月早くこっちに来てくれてたら、『エトリアの英雄』に会わせてあげられたんだけどな」
「そうだったんですか……?」
「うん。ハイ・ラガードの迷宮に挑むんだ、って、旅立っちゃったけどね」
「それは、残念です」
 ヴェネスはエトリアへの旅程で立ち寄ったハイ・ラガードの光景を思い起こした。その周囲を巡るのに何時間もかかりそうな、巨大な古木。冒険者ではないヴェネスは、その中にあるという迷宮を見たりはしなかったが、その探索を目当てに集った者達を、確かに見た。厳しい入国審査に待たされ、疲れてはいたが、未知への期待と少しの不安をはらみ、己の欲望をまっすぐに捉えるまなざしは、力を失っていなかった。あの中に『エトリアの英雄』はいたのだろうか。それとも、まだラガードに向かっているところなのか。
 銃士の少年は何となく、任務の帰りにまたラガードに寄ってみようと考えた――往路を逆さに辿って帰れば、必ず寄ることになるのだが。ひょっとしたら、『エトリアの英雄』に会えるかもしれない。
 そんなことを考え、聖騎士の後を追う銃士の少年の姿を、その数ヶ月後に生きる銃士の少年は、内心苦笑しながら想起した。当時の自分は、まさかその『エトリアの英雄』のギルドに入って樹海に挑むことなど、思いもしなかったのだ。 

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-29

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