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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・28

「ところでファリーツェさん」
 契約――ヴェネスにとってはそれ以上の何か――の再確認が済むと、銃士の少年は、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「こんなこと申し上げたら失礼かもしれません。でも、もし、ファリーツェさんの予想がはずれて、何も起こらなかったら、どうするんですか」
 返答は淀みない。
「まぁ、『何か』が思い過ごしなら、いいんですが」
「いいんですか?」
「何も起きないってことは、何も起きないってことですよ。オレルス様の体調不良はただの病気、エトリアを狙う連中なんか存在しない。それだけです」
「でも、それじゃあなたの立場は」
「私の立場など、どうとでもなる」
 堂々と聖騎士は述べる。
「その時は、君はエトリアの予算でタダメシをたらふく食べてお帰りになって、私が対応ミスで始末書を書く程度で済むことです。まぁ、ひょっとしたら責任取って免職クビとかあるかもしれませんが、物理的に首切られるわけでもあるまい。故郷に帰ってカースメーカーの修行のやり直しでもしますか」
 あっはっは、と朗らかに笑う。ヴェネスの方が心配になるほどに。
 だが、ひとしきり笑った後の表情と声は、ひどく真剣なものだった。
「その程度で済まなくなる方が、よっぽど怖い」
 ヴェネスは息を飲んだ。
 何か起きるなら、何かが起こる。まともな文法になっていないような思考だが、実際そうなのだ。無防備なエトリアでは、備えたときより多くの人が死ぬだろう。そこまで行かなくとも、聖騎士一人が免職になるより、ひどいことになるのは間違いない。
 自分より二、三歳程度年上でしかない聖騎士は、最悪を回避するためなら、と、無駄骨と、それによって己に降りかかりうる事態を、とうに受け止めているのだ。
「だから、あまり気乗りしない仕事かもしれませんが、よろしくお願いします」
 敵わない。ぺこりと頭を下げる聖騎士を前に、銃士の少年は素直にそう思った。確かに命は奪われないかもしれない。行く当てはある。それを差し引いても、彼はこんなにも無私になれるのか。
 その思いが、苦笑いとして表情かんばせに結実する。
「気にしていない」の意を込めて首を横に振った。この期に及んで自分側のことばかりで恐縮なのだが、すでに前金をもらっている身、何もなければ残りの報酬が得られないとしても、『組織』は何も失わず、決して損をしない。
「よかった、無駄足踏ませるな、とか言われるかと思いました」
 ファリーツェは破顔した。「この際、何もなかったら、エトリアの予算でエトリア観光もおまけに付けます。本当は、樹海が閉じてなければ、各階層を――特に遺都シンジュクを案内したかったんですが」
「いや、そこまでは」
「まぁ、無理強いはできませんが。でも、樹海の地下一階には後でご同行いただきますよ。あなたが守るものが何なのか、見ていただきたいですから」
 必要ならば赴くことは躊躇わない。ヴェネスはこっくりと頷いた。
「いつですか?」
「あなたが荷物を置いて落ち着いたら、いつでも。……あー、ところで」
 ふと、空気が変わったのをヴェネスは感じた。これまでのファリーツェの態度は、どこまで行っても聖騎士の責務がついて回っていた。それが不意に、年相応の青年の顔を覗かせたように見えたのである。どうしたのかと不思議に思う銃士の少年に、聖騎士の青年は疑問を投げかける。
「ひょっとして、アップルパイお嫌いでしたか?」
「え?」
 反射的に下を見る。独特の網目を持った生地が艶やかに焼き上がった菓子は、ただのひとかけらも損なわれていない。添えられた紅茶も冷めきっていて、赤い水面にヴェネスの顔をきれいに映している。
「もしそうでしたら、頼んでしまった私が、責任を持って片付けますが」
 ファリーツェの視線に、穏やかな口調とは裏腹の、獲物を狙う鷹の意志を見た。隙を見せたら、きっと、フォークという名の爪で、獲物を狩り立てるだろう。無慈悲な聖騎士が敵の銃後を略奪するかの勢いで。
「大好きですっ! ありがたくいただきますっ!」
 慌てたヴェネスは自分用のフォークを掴み、間髪入れずにアップルパイを刺した。
 切り取った欠片を口に入れると、良質なバターと焼けた小麦粉の味が口に広がり、リンゴの甘みと酸味が舌を包む。それは、今回の任務を終え、『組織』を辞し、どこか安心して暮らせる場所に移ったら、母がきっと作ってくれるであろう味。

 今はヴェネスの語りをおとなしく聞いていた巫医ルーナは、それまでの話に、一点だけ、突っ込みたい場所があり、うずうずしていた。
(あの時、ファリーツェが動きを止めたのって……)
 ヴェネスが、「自分がいつかエトリアの敵に回ったらどうするのか」と問うた時の話である。
(本当は、その可能性を失念してて、焦ったからなのよね……)
 元来、嗜虐的な面のある彼女としては、その点を暴露して、聖騎士が困る顔を見たかった。だが、一瞬の後、その聖騎士が死んだから今の自分がこの場にいるのだ、ということを思い出した。悲しくなった彼女は、ひそやかに顔を伏せ、あふれかかった涙を拭うと、再び傲然と面を上げた。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-28

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