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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・25

 雨滴を一通り吹き終わったタオルが取り払われた後、ヴェネスの目の前には、想像通りの人物がいた。ヴェネスにとっての聖騎士像、かつての遠い日に母から聞かされたとおりの者が。
 聖と名付けられながらも、聖騎士とは、決して清らかな存在ではない。彼らが味方とする勢力以外には、苛烈で無慈悲、残虐な本性を露わにすることも、少なくない。
 荒れた故国では、聖騎士団であるはずの者達が、徒党を組み、民衆から物資を奪い回っていた。そこまでひどくなくても、賄賂や不健全な賭博に手を染めるのは、当たり前だった。
 それでも民衆は、聖騎士に夢を見る。輝く顔と涼やかな瞳の若き騎士が、民衆を苦しめるものを打倒してくれるのだと。それは御伽噺として、親から子へ伝えられゆく、夢物語。自分の国にはいないが、世界のどこかにいるはずの、理想の形。
 それが今、確かに具現している。山吹色に輝く髪と空の色の瞳。もちろん彼の本性をヴェネスは知らないが、たぶん無慈悲はしないでいてくれるだろう、と思わせる、穏やかな表情かんばせ
 それは、似た色の髪と瞳を持つ、敬愛する師をも思わせる。
 依頼書に淡々と記された丁寧な文字と、丁重な文章から、ずっと想像していた、そのとおりの人物。――否、想像より若い。せいぜいヴェネス自身より二、三歳年上だろうという若さに、驚いた。
 その聖騎士は、ヴェネスの前で腰を折る。
「あなたが『組織』からの使いですね。ようこそ、いらっしゃいました」
 銃士の少年が知る聖騎士は常に反り返るばかりだったから、真逆の――そして御伽噺の騎士同様の――態度にまた驚き、好感を持った。それどころか、心が高揚し、緊張したヴェネスは、立ち上がるときに勢いづき、思わず椅子を蹴立ててしまった。意外と派手な音に周囲が振り向き、サクヤが椅子を丁寧に立てるのも、銃士の少年の意識には映らなかった。
 後に、落ち着いてから思う。師に初めて会ったときも、同じような感情を抱いたっけ、と。それは御伽噺の聖騎士の髪と瞳の色に由来するものだったのだろう。大地も枯れ、人もくすんだ地で、内から輝きを放つようなかの人にまみえた日は、昨日のように思い出される。
 エトリアの聖騎士にも、同じような気持ちを抱いたのか。いや、まさに聖騎士であることと、敬愛してやまない師を思わせるという点で、惹かれる点は三重であった。
 ともかくも、ヴェネスは跳ね上がる鼓動をどうにか押さえつけると、ともすれば上ずりかねない声で、己の正体を明らかにした。
「メニーシュ協会から派遣されました、ヴェネス・レイヤーと申しますっ」
 ぺこりと頭を下げる。
 実に子供らしいその仕草は、いつもなら、依頼人相手に本心から行うものではなかった。それは『子供らしく見せて相手の隙を作る』目的の上にある。どのような反応を引き出せるかによって、後の対処も違う。一度依頼を受けたら決して裏切らないという『組織』の掟の例外「そもそも依頼人が『組織』をたばかろうとしていたとき」を早期に察知するためにも、依頼人の本心を探ることは重要だった――もっとも、依頼人の思惑の判定自体を行う役がヴェネスに回ってくることは、なかったが。
 ただ、今回ばかりは違った。今、頭を下げたのは、本心からのものだった。地を見る頭の上から降ってきた、穏やかな声を聞き、銃士の少年は、この人を試すような真似をしなくてよかった、と心底思った。
「頭を上げてください、ヴェネス様。本来、先に名乗って頭を下げるのは、私の方です」
 そう言われてなお叩頭し続けるのは、依頼人の意向を無視した行為になる。
 顔を上げたヴェネスの前で、金色の聖騎士は軽く微笑みながら、名乗りを上げる。
「エトリア執政院付聖騎士、ナギ・クード・ファリーツェと申します。この度は当方の依頼をお受け頂きまして、まことに感謝しております。どうか、しばしの間、よろしくお願いいたします」
「あの、頭を上げてください!」
 相手が本当に深々と頭を下げたので、今度は慌てたヴェネスがそう頼む番だった。
「ボクは単に命じられてやってきただけの若輩です、ファリーツェ卿。頭を下げられる理由も、『様』と呼ばれる謂われもありません! どうか、ヴェネスと! そして――」
 道具として使ってくれ、と続くのが、『組織』の派遣銃士としての常套句であった。しかし今回、ヴェネスはさすがに言葉を濁す。周囲の客は、何事かと言いたげに、若者ふたりを注視している。その中で「自分を道具として使え」というのは、自身はともかく、目の前の聖騎士の立場を微妙なものにしないだろうか?
 自分達が注目の的になっているのを、聖騎士の少年も気付いたようだった。かすかに苦笑いのような表情を浮かべると、酒場の女主人に「打ち合わせ通りに」と告げる。女主人がうなずいて店の奥に消えたのを見送ると、ファリーツェと名乗った青年騎士は、ヴェネスの後背に手を回して口を開いた。
「場所を変えましょう。詳しい話をしたいで――?」
 騎士の訝しげな表情の理由を、ヴェネスは正確に把握していた。自分が、死角に相手の利き手を回された瞬間、身体をこわばらせていたのである。真に戦場にあるときなら、跳びずさった上で銃を構えていたところだ。
「失礼、人様の身体にみだりに触れるべきではなかった」
 聖騎士が手を引っ込め、先導するていで店の奥に向かうのを、ヴェネスは追いかけた。こわばりが解けたことに安堵し、そして――手を引っ込める直前の聖騎士が、一瞬、少し悲しそうな顔をしていたことを思い出し、そんな顔をさせてしまったことを後悔した。

 ヴェネスは後で知ったことだが、金鹿の酒場の奥の個室は、開店当初から密談に使われていた場所である。とはいえ、街に混乱を及ぼすような物騒な密談をされても困るから、個室を利用できる者は、街の有力者の紹介があるか、有力者当人であるかに限られる。その有力者がエトリア転覆を企んでいたりしたらお手上げなのだが、幸い、今のところはそういう事態はない。
 大抵は、商人の取引や、秘密というほどではないがあまり公にできない相談事に使われる程度である。少し前までは、小金を稼いだ冒険者が、よそのギルドに悟られないよう、探索計画を練る時にも使われたことがある。
 自分の経験上、『現地』での作戦説明をするからには、薄暗くてよどんだ場所であろうかと想像していたが、そんなことはなかった。薄暗いのは確かだが、それは酒場の店内同様、緊張と不安ではなく落ち着きを感じさせるものである。きちんと整頓された、適度な広さの部屋であった。
 室内には生成の落ち着いたクロスがかかった一台の円卓。椅子が二脚。円卓の上には銀の呼び鈴がある。どうやら、部屋自体に防音処置がされているわけではなく(多少は壁が厚かったりするのだろうが)、個室内部の秘密は、ただ他者から隔離されることによってのみ、保たれているようだ。ただ、部屋に辿り着くには、サクヤや給仕の目を盗む必要がある。盗聴はなかなかに難しそうであった。
「どうぞ、奥に座ってください」
 促され、上座を占めるのには躊躇いもあったが、言われたとおりに席に着く。聖騎士の青年も入口に近い席に、ヴェネスと向かい合う形で落ち着いたところで、ノックの音があった。聖騎士の返事を受けて入室してきた女主人は、暖かい紅茶とアップルパイを部屋の使用者それぞれの前に供すると、すぐに退室していった。
 アップルパイ。
 また、母のことを思い出してしまった。乏しい食料の中から、質の悪い小麦粉と腐りかけたバター、しなびたリンゴで作られた、ささやかな菓子おやつ。『組織』の食堂には、それよりは上等マシなアップルパイもあったが、それを食べることは母に甘える自分に返ることを意味する気がして、結局口にしたことはなかった。
 結果として供されたものを凝視するだけとなったヴェネスには気付かなかったのか、ファリーツェはそそくさとアップルパイにフォークを突き刺した。さっくりという小気味よい音を立てて剥ぎ取られた黄金色の欠片が、口の中に吸い込まれる。
「……やっぱり、姫リンゴじゃなくても美味いよなぁ」
 紅茶の一口と共に呟かれたその言葉の真意は、ヴェネスには判らない。
 ヴェネスが何も反応しないのを、任務の詳細を聞きたくて呆れていると感じたのか、はたと我に返った体のファリーツェは、慌ててカップとフォークを置いた。受け皿に当たったカップが意外と大きな音を立てたのに、さらに慌てたと見える。若年とはいえ成人した男性とは思えない風体で、あわあわと両手をしばらく虚空に踊らせていたものの、やがて、ちらりとヴェネスの様子を伺いながら数度咳払い。ようやく、初対面時の落ち着きを取り戻したようである。
「……失礼しました。問題についての話を始めましょう」
 ……取り繕ってももう遅い。不快ではないが。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-25

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