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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・24

 毎日の『雑用』の合間、休憩のために金鹿の酒場に立ち寄る。
 手紙を出してからのここ一月、それ以前は数日に一度であった酒場での休憩を、毎日行うようになった。それは、呼び寄せた者達に、エトリアに着いたら金鹿の酒場に来てほしい、と手紙で頼んでいたことに理由がある。
 かつては冒険者で溢れていた店内。樹海探索の疲れを癒す彼らと、彼らの力量を当てにして届く幾多もの依頼。生死の境のさらに狭間に圧縮された熱量は――もう、今の金鹿の酒場にはない。アップルパイ目当ての若い娘から、ちょっとした癒しを求める富豪まで、静かに飲料をたしなみ、間食をむ。そんな今でもなお、酒場が情報交換の場であることは間違いなく、待ち合わせの場として、これほどふさわしい店もない。長旅に疲れた訪問者に、まずは軽食と飲料を供して落ち着いてもらおう、という魂胆もある。
 酒場は女主人のサクヤの手で過ごしやすく整えられているが、残念ながら梅雨の不快を完全に消すことはできていなかった。わずかな隙間から流れ込む湿気が、酒場の中の空気をも、まとわりつくようなものに変えている。とはいえ、外界よりは遙かにまし、食事や酒に心奪われていることもあり、文句を言う客はいない。
 隣のテーブルで食事をする娘の姿を眺めながら、ファリーツェは果汁飲料をたしなんでいた。
 娘が好みなわけではない。不審がられないようにしながらも、常に注視しているのは、彼女が食べているアップルパイである。
 今、酒場にいるのは、待ち人の到来を確認するという仕事の一環だ。アルコールの入っていない飲料で一休みするくらいは大目に見てもらえるだろうが、間食までというのは目こぼしに甘えすぎだろう。目の前で他人が食べているのを見ると、うらやましくてならない。
 無論、食事のために用意される休憩を利用して食べれば、何の問題もない。だが、人間、不条理なもので、許されて自由にできることより、許されないものの方により強い魅力を感じるものなのだった。
 その娘がアップルパイを食べ終えて席を立ったので、未練を断ち切って、自分も仕事に戻ろうと考えた、その時だった。
 外から聞こえていたかすかな雨音に、何かが軋むような異音が混ざった。ベルダの広場に馬車が到着したのだろう。小型の馬車は広場まで乗り付けてくることがよくある。
 今回こそ待ち人だろうか? これまでも期待して、その度に落胆してきた。そろそろ着くのではないかという自分の勝手な目算通りにいくはずがないのは、頭ではわかっているのだが、感情は思うように働いてくれない。
 だが、今回ばかりは期待は裏切られなかった。
「あなたが『組織』からの使いですね。ようこそ、いらっしゃいました」
 正直な話、その者の第一印象は『大丈夫なのか』だった。しかし、見た目で他者を断定するのは愚の骨頂だろう。だからファリーツェは初見の感想をおくびにも出さず、やっと訪れた待ち人を歓迎することに注力することにした。
 ここぞとばかりに、自分の分のアップルパイをちゃっかり頼むことも忘れなかった。

 船旅は期待していたほど高揚しなかった。
 空が晴れ渡り、海が輝いていれば、旅の間くらいは楽しめたかもしれない。しかし、そうであったのは初日だけ、あとは、どんよりした空と鉛色の海面、時折しとしとと降る雨が、溜息を招いた。
 沿岸沿いに航行しているとはいえ、陸からはそれなりに距離があり、陸地の様子を眺めて無聊を慰めるわけにもいかなかった。
 天候がこのような状況になっていたのは、ひとえに『梅雨』の影響であった。そういう意味では折り悪しかったというしかない。幸い、ヴェネスは船酔いする体質ではなく、海も荒れるほどにはならなかったが、もしそうなっていたら、さすがに船旅に関する強烈な悪感情が刻み込まれるか、さもなくば緊急避難先の港で別の新鮮な経験を得ることができたかもしれない。
 どちらも起きなかったので、ヴェネスは淡々と現状を受け入れた。『組織』での生活が、無駄な期待を引きずり続けない性格を育てていたのである。もちろん、残念には思うが、仕方ないではないか。
 しかし、船旅を終えた後は、また違った。
 上陸先の港湾都市・ムツーラは、自治都市群の中で最も栄えている大都市である。大陸東の辺境に位置しているとはいえ、海洋に面しているという長所を生かした海運を産業の柱としており、自治都市群各地の産物を、ハイ・ラガードや『王国』、わずかながら『東方皇国』にも送り出し、それらの都市からの産物を受け入れている。現在の航行技術では、それより遠くへ日常的に往来するのは難しいが、陸路より早くやりとりできるだけに、上げる利益は大きいものであった。
 そんな都市を支える港が、現在の形に改修されて、ちょうど百五十年になるという。そのためか、あちこちに花や祝旗が飾られ、都市は曇天にもかかわらず華やかな雰囲気に彩られていた。
 中でも、大抵の都市が共通して採用している緑色の屋根の建物の中、赤い煉瓦の大倉庫が印象的であった。ムツーラの記録的建造物であり、百年ほど前に港に流れ着いた、古びた小型模型を元にして造られたという。その模型自体がいつ作られたもので、どこから流れてきたのかは、未だに判っていないらしいが……。
 残念ながら任務を抱える身、祭典の浮ついた雰囲気に足を止めるわけにいかない。一晩借りた宿の主人がおすすめ観光ポイントをしきりに勧めるのを、申し訳なく思いつつも固辞し、ヴェネスはエトリアへと足を進めた。
 エトリアまでは、早朝に馬車で出れば、夕刻近くには着く距離である。雨天による馬車の遅れを心配したが、この地域も、自分の生まれ故郷とは違い、街道に石畳を敷いているのである。馬は雨天をいやがるかもしれないが、往来にさしたる遅れは出ないと思われる。
 故に、ヴェネスは計算通り、出立日の夕刻にエトリアに辿り着いたのであった。
 幸い、街門の守衛は、馬車が小型であることを理由に、ベルダの広場までの乗り入れを許可してくれた。雨に濡れざるをえない時間が短縮できるのは、ありがたい。
 故郷やハイ・ラガードより遙か南なのに、太陽の恵みを遮られた街は、寒さを強く感じさせた。一度は荷物にしまった寒冷地仕様の銃士のコートを再び引き出す程度には。羊毛のフエルトで分厚く作られたコートは、馬車を降りてからも、冷たい天水から身を守るくらいの役には立ってくれるだろう。むき出しの顔面はどうしようもないが。
 それにしても、静かな街だった。雨だから人通りが少ないせいだろうが、ヴェネスとしては、樹海探索を目当てとした冒険者で賑わっている想像をしていたのだ。探索はもう終わっているのだ、と、頭では判っていてさえ。
 この時点でのヴェネスの預かり知らぬことだったが、樹海制覇者『ウルスラグナ』が街を去り、ハイ・ラガードに向かったことで、まだわずかに街に残っていた冒険者達も多くが去就を定め、エトリアを後にしたのだった。今残っているのは、元冒険者と言ってよかった――己が運命をこの街と共に歩むことだと悟った者、元からこの街の住人だった者、そして、閉ざされた樹海の残滓おこぼれを期待する者である。
 そのような状況だったから、エトリアが雨によらぬ理由で冷えていたことも無理はなかった。
 待ち合わせ先である金鹿の酒場は、広場に隣接してある。初訪問のヴェネスにも、容易に判る場所である。なるべく近いところに馬車を寄せて止まってくれた御者に礼を述べると、ガンナーの少年は荷物と共に馬車を降りた。長い包み――愛用の狙撃銃が引っかかりかけ、慌てて寝かせ、引っ張り出した。
 大粒の雫が、全身を穿つ。視界にも容赦なく。
 ぼやけかけた金鹿の看板を、目をぬぐうことで改めてはっきりと見据え、ヴェネスは歩を進めた。

 扉の向こうは、ヴェネスが予想していたものとは違う世界だった。
 貧しい国に生まれたガンナーの少年にとって、酒場とは、襤褸ぼろ同然の服をまとった大人達が、せめてもの慰めとして酒をあおる、そんな場所だった。だというのに、この金鹿の酒場は何なのだろう。整然と並べられた卓に集う人々は、惨めな自らを忘れるためではなく、飲むことが人生の楽しみの一環であるかのように、そうしている。
 余談だが、ヴェネスが属する『組織』にある酒場も、彼の知る惨めな酒場とは違い、金鹿の酒場並に整えられた場所ではあった。しかし、酒を飲む習慣のない彼はその場所に近づいたことはない。自然、彼は『酒場』なるものに関するイメージとして、任務の途中で見かけた、貧しい国の貧しい酒場のものしか持ち得なかったのである。さらに述べるなら、彼が金鹿の酒場を見て抱いた感慨とは違い、この地にも、酒で惨めさを紛らわせている者も、いるにはいる。が、それは、ヴェネスとは関わらない話である。
 しばらく惚けていたガンナーの少年は、自分に向けられた視線を感じ、はたと我に返った。
 ――しまった!
 反射的に思う。彼にとって、見知らぬ視線を向けられるということは、死に直結する。明らかに一般人のものなら見過ごせるのだが、今感じているそれは、自分を値踏みする敵銃士のものと同じ感覚を、ヴェネスに感じさせた。
 対処行動が遅れたのは、酒場に見とれていたからだ。油断していた。もはやヴェネスに、生き延びる術はない。
 ――とはいえ、それは、この地が戦場だったらの話だ。
 抗戦を決意したその瞬間、ヴェネスは、ここがエトリアであり、自分が敵に囲まれていたわけではないことを、辛うじて思い出した。歯止めが利かずに銃を引き出していたら、無用な混乱を引き起こすところだった。
 己を止めることができた理由には、問題の視線が、不意に和らいだから、ということもある。さらに、
「いらっしゃい、ずいぶんびしょ濡れね」
 その視線と自分とを隔てるように、妙齢の女性が近付いてきたからでもある。
「いえ、これでも、御者の方が近くに付けてくれましたから」
「あら。それはよかったわね」
 女性はタオルを持っていた。濡れそぼったヴェネスを丁重に拭く手つきは柔らかく暖かい。タオル自体はすでにほかの客に使ったものなのだろう、ほのかに湿っていたが、そんな些細なことは気にもならなかった。
 ――母の手を思い出す。もう離れて久しい、苦労と病で荒れてはいたが、温かい手。
 思い出に引きずり込まれかけていたガンナーの少年は、慌てて自らの意識を立て直した。近付いてくる別の足音に意識が向いたからである。
 タオルに阻まれ、姿は見えない。故に、ヴェネスの脳は、視覚以外から事態を推測する。
 足音を隠す意図――言い換えれば、忍び寄る意図は感じられない。規則正しい音は、何らかの軍事訓練を受けた者特有のものだ。足音の重さと、付随する金属音を加味すれば、おそらく、城塞騎士フォートレス重騎士ファランクス聖騎士パラディンなどの騎士系列クラスだろう。かすかに、汗と桃の香が混ざった匂いがする。なにかしらの肉体労働の後に休憩していたというところか。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-24

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