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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・18

 だから、ヴェネスがつい先程命ぜられたばかりの任務のことを『バルタンデル』が知っていても、おかしいことではない。
 師匠である青年は、柔らかな笑みを浮かべた。茶けた瞳が細められ、心の心底から笑っていることが見て取れた。
「おめでとう、ヴェネス。この依頼を遂行すれば、お前は自由になれる」
「ありがとうございます、師匠。今までお世話になりました」
「待て待て、まだ挨拶は早いよ」
 出立前に別れの挨拶というのは、さすがに失礼だったか。ヴェネスは肩をすくめた。まるで、任務が終わったら『組織』に別れの挨拶もしない、と言っているようだった。
 だが、『バルタンデル』からすれば、別の意図から口にした言葉のようだった。
「あのエトリアの迷宮は、方々からのうらやみを買っている。どこがどう思っているかまでは掴めないが……気を付けなさい」
 声音は、愛弟子の最後の仕事を見送るにしては、硬く、冷たすぎた。
 鋭い眼光を纏った視線が、ヴェネスが手にしていた依頼詳細に向けられる。ちょうど、依頼主たるエトリア正聖騎士による懸念が記されていたページである。それを上から下へと一瞥し、溜息と共に言葉を吐き出した。
「暴力をもってエトリアを手に入れようと考える輩もいるだろう。依頼主が懸念しているように、な」
 言葉は鈍い光を纏った蛇となって、するりとヴェネスの心の裡に入り込む。
 ……そうだ、自分は浮かれていた。
 まだ依頼は始まってすらいないのに。先の先ばかり見ていて、依頼で自分が生命を落とす可能性を微塵も考えていなかった。
 『組織』に属するガンナーの戦闘流儀は、主に狙撃である。戦場に潜み、獲物を待ち伏せ、確実に射抜く。その作戦行動の様式上、発見されることは少ないが、皆無ではない。退却に失敗した場合、場合によっては待ち伏せ中にでも捕捉され、殺害されることもある。それも、報復として苛烈な拷問を加えられた上でだ。
 ヴェネスが受けた依頼も、こと、戦闘が絡めば、死の危険は増大する。最後の任務だからと浮かれている場合ではなかったのだ。
 思わず、助けを求めるような眼差しを、師に向けてしまった。『バルタンデル』は視線を跳ね返す鏡のように硬質な立像として、ヴェネスがすがりつくことを拒絶する。
「お前の、仕事だよ」
 それも、少年の師であり、ある意味兄とも言える彼の、慈悲に違いなかった――少なくとも、その時はそう思った。
 傲然と胸を張り、弟子を見下ろす、金髪の銃士。男性にしては若干華奢な首下、ちょうど、わずかに存在が判る喉頭隆起のどぼとけ付近を横断する、幅広の黒絹の首飾りチョーカーが、燦然と輝く黄金の中に、奇妙に目立って見えた。
 その輝度差コントラストが、ヴェネスの目を覚まさせた。
「……ですね」
 甘えた心を振り落とし、どうにか頷く。
 その様を見届けると、『バルタンデル』は再び、柔らかな笑みを見せた。
「まあ、運がよければ、戦いに巻き込まれずに済むかもしれない。今のところ、何かが襲ってくるかもしれないというのは、依頼主の杞憂に過ぎないからね。ただ、そんな幸運にすがりつかないように。常に最悪を見越して行動しなさい」
「心、します」
 ヴェネスは挙手目視礼を師に向けた。これまでの教えと、今の教え。両方への感謝を込めて。挨拶は早いと言われたが、最悪を考えれば、今が師に感謝を捧げる最後の機会かもしれないのだ。
「お前なら、大丈夫。きちんと備えていれば、今回も生き延びるさ」
 『バルタンデル』はヴェネスの鍛錬の跡、的のほぼ中央に集中する弾痕を見やり、その髪同様に鮮やかな笑みを向けてきた。
 その笑みは、どこか子供っぽい無邪気さを孕んでいて、もう二十代半ば近いという師を、ヴェネスの数歳上の兄のように見せていたのである。

 結局、それ以降、ヴェネスが翌々日に任務のために『組織』を離れる時も、『バルタンデル』の姿を見ることはなかった。

 払暁と共に、『組織』が手配した馬車が、ヴェネスを迎えにやってきた。
 一頭立ての、雑な修復跡が目立つ貧相な馬車だが、ヴェネスにとってはめったに乗る機会のないものだった。大概の『任務』の際には、徒歩で現地に向かうことが多かったのである。
 まずはこの馬車で三日程、中継地点のハイ・ラガード公都へ向かう。そこでこの馬車とはお別れ。公都で『証券』の一部を資金エンに換えて、少し離れたところにある港から、船でムツーラという南方の港町に向かうことになる。船旅は――天候や波の具合に大きく左右されるが――おおよそ十日になる見込みらしい。そこからはエトリアはほぼ目と鼻の先だそうだ。
 余談だが、ハイ・ラガードまでの馬車の乗車賃や、その間に世話になることになる宿代などは、『組織』が御者に全て預けているので、ヴェネスが気を揉む必要はない。
 馬車の旅は特に気を惹かれるものはなかった。いつ越えたか判らない自国の国境線を越え、所属の曖昧な荒野を越え、そして三日目。ハイ・ラガード領の入口となる砦で、簡単な手続きを行うと共に検査を受け、若干時間は掛かったものの、問題なく通行許可を受けて通り抜ける。と――。
「……うわっ……!」
 思わず声を上げた。
 砦なるものが、小規模とはいえそれなりに立派なのは、貧しいヴェネスの故国でも当然だった。他国への見栄と、そもそもが外的に備えるという現実的な理由。しかし、砦から続く道の続きさえも、それまでのものとは格段に違っていた。しっかりと石畳で舗装され、ところどころが青緑色の飾り石で装飾されている。若干摩耗や破損が見当たるが、それでもたいしたものだった。ヴェネスには全てが宝石で作られて輝く道に見えた。
 御者台に顔を出して景色を眺めていると、破損箇所に引っかかったか、かたん、と馬車が小さく揺れた。御者が笑う。
「わしらから見りゃたいしたものだけど、それでも、補修が追いついてないのは確かだね」
「補修が追いついてない?」
 逆に言えば、この程度の補修でも極力直そうとしているということだ。自分が今までいた世界と比べて、なんという差なのか。
「うむ、ハイ・ラガード公国の象徴でもある世界樹の内部に迷宮が見つかったとかで、噂を聞きつけた冒険者やら何やらが道を通るようになって、道の消耗が格段に激しくなってるんだろうさ。……坊主はハイ・ラガードの話を聞いたことないのかね?」
 ハイ・ラガード公都が巨木の周囲を取り囲むようにできており、特に古くからの住人がその樹を『世界樹様』と呼んでいることは、周辺諸国でも有名な話だった。だが、ヴェネスにとってはただ巨大なだけの樹、別に見に行くような理由もなかった。
 しかし、ごく最近、その巨木の中に迷宮が発見されたという。迷宮の謎を解き、世界樹の上にあるという伝説の空飛ぶ城を見つければ、報償は莫大なものになるという。
 エトリアの話は、迷宮が実際にあったのは地下だったというから、そんなこともあるのだろう、と思えた。しかし、ハイ・ラガードの話は夢物語にしか感じられなかった。心惹かれなくもなかったが、やはり、ヴェネスにとっては、現実味のない御伽話にしか思えない。
 ――そう、思っていたのだが。
 再び馬車が道の破損に車輪を取られ、がたんと揺れたので、ヴェネスは体を丸め、衝撃に耐えた。やがて馬車の揺れが元通りに小さくなったので、安堵しながら顔を上げると――。
 向かう道の向こう、さらに遙か彼方、薄曇りにけぶる春の空、そこに、薄ぼんやりと、わずかに濃い青い影が立ちはだかる。
 どこかの御伽話と聞いた、大地を作った巨人の話が本当だとしたら、あれくらいに見えるのではないか――という大きさのそれは、どっしりと屹立する柱と、その上に放射状に広がり揺れる影。
 縮尺こそ違えど、それは確かに、樹の影に見えた。
 どれだけの高さがあるのだろう。それに、その上には本当に城があるのだろうか。
 残念ながら、巨大樹の上は、堆積する雲に阻まれて見えない。
 それでも、ヴェネスは自分の拙い現実主義がひび割れる音を感じた。そして、悔しく思った――もっと早いうちに、適当な理由を付けて、ハイ・ラガードの世界樹を見に来ればよかった。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-18

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