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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・17

 最初に目に入ったのは、当然ながら、扉の正面、執務室の奥にある黒檀の机に向かい座る、『頭領』の姿であった。
 後ろの壁面を大きく占める窓から招き入れられた晩春の青空の色を、またたく間に灰色に染めるような、暗く淀む雰囲気を纏っていた。
 壮年の『頭領』の瞳の奥からは、いかなる反駁も許さぬと言わんばかりの重圧が放たれている。執務室以外で目にする時は、寡黙とはいえ、そこまで重い雰囲気ではないのだが、任務を拝領する時はいつも、押しつぶされそうになる。
 とはいえ慣れたものである。ヴェネスは卓の前まで進み寄ると、挙手目視礼を行った。
「来たか、ヴェネス・レイヤー。お前に、任務を命ずる」
 ゆっくりと口を開く『頭領』。どのようなことを命じてくるのか。ヴェネスは顔から表情を消したまま、『頭領』の次の言葉を待った。
 だが、その言葉は、ヴェネスが覚悟していたものとは少々違ったのであった。
「お前はこれよりエトリアへ向かい、現地の執政院付き聖騎士の下で、任務を果たすのだ。任務は、現状では『執政院の警護』……だが、状況次第では『長の守護』になるだろう」
「エトリア……ですか?」
 驚いた。ヴェネス含む『組織』の仕事は、戦の傷の癒えない地域が主だった。エトリアといえば、世界樹の迷宮で富をかき集めたことで有名な、南方の国家ではないか。すでに探索しつくされたという話も届いているが、それでも、まだまだ景気に湧いているという印象がある。
「ボクで、いいのでしょうか?」
「うむ、詳細は後に書面で渡すが、お前が最もふさわしいだろうと判断した」
 判断基準は不明だが、『頭領』の命令に異を唱えられる立場ではないし、そのつもりもない。
 ただひとつだけ、早めに確認しておきたいことがあった。
「今回の任務、『敵』がはっきりしていないみたいですけど、そのあたり、どうなのですか?」
「うむ……『敵』をはっきりさせておくのは、任務成功のためには重要なことなのだが……」
 続く言葉で、『頭領』は、対するべき『敵』がはっきりしていないことを明らかにした。依頼自体、依頼人であるエトリアの騎士の取り越し苦労である可能性もあるのだ。状況次第では、ヴェネスはエトリアで手持ちぶさたのまま契約期限を迎えるかもしれないのである。
 ただ、逆に言えば、今回の仕事、弱い者を犠牲にしたり見捨てたりするようなものではなさそうだ。内心で胸をなで下ろし、安堵の溜息が出かかって、慌てて襟を正した。
「後で庶務の奴らから詳細と装備と旅費を受け取れ。そして、明日にでも発つように」
「了解」
 再び挙手目視礼。それ以上の疑問も質問もなく、ヴェネスは踵を返して執務室を辞する。
 何か不審な点があるのなら、出立する前に改めて聞きに来ればいい。そも、詳細は書面で通達されるのだから、それを手にしていない今、質問できるのは先程の一点程度である。
 とりあえず、庶務の人達が任務に必要な一式を届けに来るまでは、鍛錬の続きをしよう。
 銃士の少年はそう決めて、呼び出される直前にいた、『組織』の施設の裏庭に戻ることにした。
 かすかな足音を立てつつ、廊下を進む。
 この国やその周辺諸国は未だに貧しい。建物も安普請に走るきらいがある。『組織』の建物も例外ではなく、石積みの隙間より入り込んでくる冷気が身を切る。『組織』の収益があれば、建て直しとまでは言わずとも、修復くらいはできそうなものだが、表向きは篤志団体ボランティアである以上、周囲の質に合わせておかないと人々の反感を買う、ということらしい。建物の中にいながら、寒冷地仕様で作られた銃士の制服を手放せない者が多いのは、そのためである。ヴェネスも例外ではなかった。
 数人の同志とすれ違いながら、さらに進む。
 ようやく裏庭に戻ってきたが、師である『バルタンデル』の姿はなかった。弟子が戻るまでの時間で別件を片付けようと、どこかへ行ったのだろうか。師の行動に異を唱える権利も、そのつもりも、ヴェネスにはない。おとなしく銃を取り、鍛錬を続けることにした。
 黙々と、設えられた的に銃弾を撃ち込み続けること、およそ一刻三十分
 庶務を担当している女性が、鞄を持って姿を現した。さしたる会話のないまま、荷物の受け渡しを済ませ、女性は立ち去っていく。
 師はまだ戻らない。鍛錬に飽き疲れたこともあり、ヴェネスは休憩がてら、荷を確認することにした。

 鞄の中には、申し渡されていたとおりの物が収まっている。
 まずは装備。といっても、銃は各自の手慣れたものがあるため、対応した弾丸と火薬になる。いつもより量が多いのは、エトリアという地にあって、もしもの時にそれらの補充ができないことを前提においてのことだろう。治癒弾丸ドラッグバレッドを扱える者にはそれも支給されるのだが、ヴェネスは扱えないため、今回の荷には入っていない。
 次に資金だ。確認して瞠目した。エトリアへの遠出の割に荷が軽いから、変だとは思っていたのだが。
 いつもの資金は、銀貨がほとんどだった――金貨や宝石などで支給されても使えないことも多いゆえに。それでも、赴任地に最も近い『メニーシュ協会』で援助を受けることもできるから、荷が重くならない程度で事足りるのである。しかし今回は、エトリアという完全な異境。硬貨で旅費を揃えるなら、かなり重くなることを覚悟していたのだ。
 それが、入っていたのは、『証券』が数枚である。額面は全て、千エンのものだ。エトリアに赴く際に寄ることになるハイ・ラガードで、一部を硬貨に換えることになるだろう。残りは帰投時にエトリアで換金することとなる。
 『組織』に入隊する前のヴェネスだったら、ただの紙切れと思って捨ててしまうか、さもなくば、見た目の豪奢さに取って置きはするものの、結局、真の価値を計りかねたままであっただろう。
「めずらしいな……」
 入隊後の学習の際に数度触ったきりの、価値ある紙片を、ヴェネスは楽しそうに撫で回した。さらさらしている。近隣の者達が使っている不純物だらけの藁紙とは段違い、『組織』で主に使われている漉紙とも違う。金銀の箔押しや、細い羽根を漉き混んだような不思議な模様に、光を当て、くるくる回しながらしばらく眺めていた。
 それだけで一刻ほどは時間を潰せたかもしれないが、そんな場合ではない、と思い返す。
 漉紙数枚からなる、命令の詳細を記した文書が、鞄の中に最後に残っていたものであった。
 目を通し、ようやく、ヴェネスは、この度の依頼の全容を知ったのである。
 背後からの物音に振り返ると、師が裏庭に戻ってきたところであった。
 銃士『バルタンデル』。
 太陽の支配域から零れ落ちた天河のような長い金髪の青年は、『変装の名手』として知られ、依頼遂行の際は全く違った姿となって現地に潜り込む。そも、いつもの姿が本当かどうかも、定かではない。
 彼がどのようにして『組織』の一員となったのかも、判らない。『組織』の同志は互いの過去を明かすことがほとんどないからだ。ヴェネス自身の過去も、彼を見出し、『組織』に誘った『頭領』くらいしか、知る者はいないだろう。
 本名を知る者も誰もいない。構成員の名が本名か偽名か程度を気にする者もまた、『組織』の中にはいないのだ。
 謎だらけの銃士――それでもヴェネスにとっては、入隊した自分を教育し、一人前の銃士に育ててくれた、大恩ある師であった。
「師匠」
「すまない、モイヴァンに呼ばれててな」
 モイヴァンというのは、数年前に『組織』の一員となった男の名である。『バルタンデル』は彼と親しいらしく、よく呼ばれては何か頼み事を聞いているらしい。反面、ほとんど接点がないヴェネスにとっては、ぱっと顔を思い出せない相手であった。
 ヤツは人使いが荒くてな、と、男としては若干音域の高い、凛とした中性的な声で、独りごちるように呟きつつ、『バルタンデル』は裏庭に踏み込んでくる。ヴェネスに近づき、その手元にある書類に、ふと目を留めた。
「……そうか、エトリアからの依頼は、お前が命じられたのか」
「は、はい」
 どんな依頼が『組織』に寄せられているか、その全てを、『頭領』やそれに近い者達ならぬ構成員が知ることはまずないはずだが、しばしば噂が立つ。今回、エトリアという街から寄せられたということが珍しく、早くも噂が立ち始めているのだろう。このあたりどうかと思わなくもないが、人の噂に戸口は立てられぬ、『頭領』も、機密に触れない程度なら、と黙認している傾向があった。むしろ、庶務の者達が積極的に浅い情報レベルの噂を流し、致命的な情報から皆の意識を逸らしているのかもしれない。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-17

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