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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・14

 心が焦ると、肉体にも影響が出る。廊下を踏む小気味よい音は、その拍速テンポを次第に速めていく。自室に辿り着き、入室した時には、勢いよく飛び込むかのようであった。
 だが、扉の正面にある窓が目に入った時、ファリーツェはぎょっとして足を止める。慣性の残った上半身が傾いで、あやうく倒れかけた。
 すっかり日の暮れた窓の外、月のおかげでほのかに明るいそこに、ぼうっと赤いものが映りこんでいたからである。
「ああっ!」
 すっかり忘れていた。モリビトの巫女から遣わされた赤い鳥。夕方までに返事を書くから、と一旦解き放っていたのだった。それが約束の時間に戻ってきて、律儀に今まで待っていたらしい。ファリーツェは転がる勢いで窓に取り付き、慌てて窓を開けた。飛び込んできたカーマインビークが、ぎゃあぎゃあとわめきながら頭髪を足で掻き回すのは、甘受するしかない。
 頭上にカーマインビークを乗せたまま、這々の体で机に身体を運ぶ。着席し、引き出しから紙を引き出そうとする時には、気が済んだのか、手紙をしたためる邪魔になると思ったのか、鳥は常の定位置である椅子の背もたれに飛び移っていた。
 モリビトを軽んじていたのか、と問いつめられても返す言葉もない。昼間に会う約束をしていた『ウルスラグナ』には、夜会の中止を告げに行く使者に頼んで、約束を反故にする詫びを託したのだが、こちらの方は頭の中からすっかり抜けていた。
 抜けていただけあって、どう返事を書いたものか、まるっきり浮かばなかった。これ以上待たせたら悪い、という罪悪感と焦りが、掌に汗となって浮かび上がってくる。
 結局、ファリーツェは諦めた。
 長が熱を出して倒れ、執政院が混乱していたことと、そのために手紙をゆっくり読んでいる余裕がなかったこと(これは嘘なので心苦しいのだが)、これからも手紙の返事をしたためるのは遅くなるかもしれないこと。それらを充分な謝罪の言葉と共に文字に表して、余分なインクを吸取器ブロッターで吸わせると、畳んでカーマインビークの足に括り付けた。
 そうしながら、ふと思う。そういえばモリビト達の筆記具はどんなものなのか。紙は羊皮紙だと思うのだが、枯レ森に羊がいるのかは定かでないから、ひょっとしたら鹿革で作ってあるのかもしれない。インクは何で作られているのだろう。地上のものなら、没食子を加工して煤で黒くしたものが主なのだが、果たして。
 取り留めなく考えているうち、それとは全く関係ない件なのだが、あることを思いついた。
「ケミ、これは持って飛べるかな?」
 紙とは別の引き出しから取り出したのは、銀の上に金メッキを施した、親指と人差し指で作った輪ほどの大きさのメダルだった。
 それは『ウルスラグナ』からの土産。『自治都市群代表者会議』に出席して樹海探索の顛末を報告するために、近隣の都市国家ムツーラに赴いた彼らが、執政院からの使者を通して贈ってくれたものだ。
 ムツーラを近隣一の大都市と成さしめている港湾地区は、現在の形に改修されてから百五十年になる。かの街ではそれを祝っているそうで、その記念として発行されたものらしい。記念千エン大金貨とかいう景気のいいものも発行されるそうだが、庶民がおいそれと買えるものでもないので、同じデザインの小型のメダルが発行される運びになった次第だそうだ。
 余談だが、エトリアでも、樹海踏破記念として百エン銀貨の発行が検討されている。材質は金より銀の方がいいだろうという結論までには至っているのだが、後は財務室の面々が日々額を寄せ合って意見を出し合っている最中である。
 『ウルスラグナ』が土産を二つ買ってきてくれたのは、ギルドマスター・エルナクハの、妙な心遣いの結果かもしれない。
 エルナクハは、ここ最近、同じギルドのアルケミストと結ばれた。結婚式といえる規模の祝典は執り行わなかったものの、第五階層踏破直後、樹海踏破祝いを兼ね(結果的に探索はさらに続いたのだが)、ごく内輪でパーティめいたものを決行した。ファリーツェ含めたギルド『エリクシール』も、招致の栄誉に浴したのであった。
 そんなことがあったためか、きっとエルナクハが気を回したのだろう。「オレがこんなになったんだ、オマエにもこんなになる予定のカノジョくらいいるんだろ」と。要は、片方はその『カノジョ』にくれてやれ、というわけだ。
 いないんだけどな、とファリーツェは思った。
(余談だが、この下りを語るルーナの表情は、心なしか不機嫌そうであった)
 しかし、ここにいい使い道ができた。
 メダルの図案は海と灯台だ。モリビト達が、概念は知っているかもしれないが、おそらく目にしたことがないもの。
 モリビト達は、地底でひっそりと暮らしていたとは思えないほど、地上についていろいろなことを知っている。世界樹伝てに情報が入ってくるのだ、と言っていた。だが、それと、実際に見聞きするのは、雲泥の差があるだろう。
 彼らは世界樹の中で暮らすことだけで満足しているのかもしれない。けれど、気が向くのなら、一度は地上を見て欲しい。このメダルに表された光景が、何かのきっかけになればいいのに、と願う。人間の冒険者達が世界樹の迷宮を見出し、その先で苦難だけを味わったわけではないように、地上での旅は、モリビト達を失望だけに追い込むことはないはずだから。
 メダルは重いものではないから、カーマインビークに運べないことはないだろうが、その形状は、途中で落とすかもしれないという予想を当然に想起させた。ファリーツェは机の引き出しをあさって、もはやいつどこで手に入れたか覚えていない、小さな巾着袋を見つけた。口紐をカーマインビークの足に軽く結びつけておけば、そう簡単に落ちることはないはずだ。
 メダルがどのようなものか、簡単に漉紙に書き付けて、メダルと一緒に巾着に収めると、椅子の背もたれに佇む赤い鳥に託して、ファリーツェは窓を再び開け放った。
「頼んだよ、ケミヒテクプ。それを、巫女殿のところへ」
 ――しかし。
 カーマインビークは飛び立たなかった。
 何のつもりだ、と焦れていると、やがて鳥の方も、ファリーツェを睨み付けるような様相で、ぎゃあぎゃあと喚き始める。
「こら、静かにしろったら!」
 先程はすっかり失念していたが、こんな時間に鳥の鳴き声を聞きつけられたら、執政院の人々の不審を招く。執政院奥部には人の出入りは少ないが、巡回の兵士だって回ってくるし、オレルスの部屋にはメディックも詰めているのだ。
 そんな懸念が通じたのか、カーマインビークは大声で鳴くのをやめた。かわりに、けっけっけっけっ、と小さく鳴きながら、足を交互に持ち上げ、翼を膨らませ、滑稽な踊りのような動作をする。
 それは、いつも手紙を持ち込んできた時に、ご褒美をねだる動作と同じではないか。
「……お前、まさか、干し肉よこせ、ってか……?」
 夕方に来いというのをまじめに聞いてやったのに、それを言いつけた本人が待たせたのだから、その分の詫びくらいよこせ、ということらしい。
 望みを果たしたカーマインビークは、今度こそ大きな猛禽の翼を広げ、月明かりに茫洋と照らされた空へと消えていったのである。

 ファリーツェはそれをしばらく見送っていたが、不意に、自分の失策に思い当たって臍を噛んだ。
 単に思い浮かんだのが今だっただけであって、カーマインビークの件とは関係ない。
 オレルスの病状が呪詛ではなく、今後半年の間に何の危機も起こらなかったら、自分に責を負わせて罷免でも何でもするがいい――会議の席上で、自分はそう言い切った。言い切ってしまったのだ。しかし、冷静に考えれば、自分が執政院を辞することになったら、自分に信を置いてくれたモリビトの巫女との交渉は、誰がすればいいのだろう。迂闊だった。
 仮に自分が執政院を去ることになったとして、正式にオレルスに託すにせよ、他の誰かに内密に頼むにせよ、引き継ぐには基本的な情報が必要だろう。翻って、自分はろくな記録も残していない。もらった手紙は取ってあるし、返事の草稿みたいなものも残っているが、これは他人に引き継ぐには不適切な、情報の掃きだめである。
 一月ほど前に考えたことを思い出す。人間、何の拍子で死を迎えるか判らないのだから、遺書を残しておくことは決して無益ではない、ということだ。その考えを抱いた直接的な原因――華王アルルーナのことについては、まだ、遺書として記す気にはなれなかったが、モリビトの件については、遺書ならずとも備忘録としてまとめる必要があるだろう。
 だが、今は、それより先にやらなくてはならないことがあった。
 またも机の中を探って、漉紙を引き出す。
 成すべきことは、別の手紙を二通したためることだった。『王国』領内にある故郷への一通と、伯母の一人がコネを持つガンナーギルドへの一通。どちらも、モリビトの巫女への手紙に比べれば、何を書こうか悩む時間は短く済んだ。そもそも、長々とした余談を記す余裕もない。
 今の時間であれば、まだ冒険者ギルドが開いているはずだ。
 世界樹探索が盛んだった頃には終日閉まることのなかった冒険者ギルド統轄本部も、迷宮探索の終焉に従って職務を縮小し、夜遅くには閉まるようになっていた。閉鎖という事態にまではならなかったのは、この世界には世界樹以外にも様々な遺跡があり、そういった場所を探索する者には必要な施設だからである――今後、エトリア近郊でそういった遺跡が発見されるかどうかは不明だが。
 そんな冒険者ギルドの一つが、在住の冒険者の下に送られてきた郵便物の統括業務であった。ファリーツェはこの機能を当てにしているのである。受取人は冒険者ではない、定住している相手だから、一般の郵便を使ってもよかったのだが、そちらは今の時間にはもう閉まっているのだった。冒険者ギルドは朝早くから夜遅くまで開いている。
 手紙を持ち込んで、緊急用の代金を支払えば、明日の朝早くには、郵送担当者がムツーラに持っていってくれるだろう。運がよければ今日のうちに出立してくれるかもしれない。どちらにしても、そこから手紙はムツーラの配送に乗り、『王国』と北方へ早馬で運ばれる。余裕込みの概算で、それぞれ十四日と六日というところだ。北方宛が速いのは、もともと『王国』よりは近いことと、この季節では海流に乗れる船便を併用できるからである。。
 だが、もうひとつ、重要なものを用意しなくては、手紙を出しに行けない。
 引き出しから出したのは、今度は四枚の羊皮紙であった。無地ではない。金箔で、活字や蔦模様などの華美な模様を箔押しされた、上質のものである。模様はいずれの羊皮紙も同一であった。
 オレルスの対呪詛措置に使ったものと似たような大きさのそれこそが、『証券』だった。
 証券にも様々な種類があるが、手元にあるのは、最寄りの金融機関に持ち込めば、額面通りの金額エンを受け取れるものである。もちろん、いくら華美な羊皮紙とて、ただの紙に金額を記したところで、そんな効能はない。ただの紙に『信用』という見えざる価値を乗せる者がいなければ、火を付けて明かりにする程度の役にしか立たない。
 ところが、この為替手形には、すでに差出人――この証券に価値を乗せたものがいる。
 バールギー・ソンドール・メルダイス。
 ファリーツェの実父であり、『王国』有数の大商人の名であった。
 縁を切られたのではなかったのか? オレルスが見たら、そう問うていたところだろう。
 実際、縁は切られたのだ――公的には。先の手紙に、『王国騎士になる気がないなら、もはやメルダイス家が後ろ盾になる必要もなかろう』と記されたことは、事実だった。だが、それは実父が、思い通りの道から逸れてしまった息子に見切りを付けた言葉ではなく――。

 ――むしろ、現状では、我々の後ろ盾は邪魔になるかもしれない。これからのエトリアは、富の残滓をかき集めようとする輩の戦場になるだろう。そのような中で、『王国』有数の商家の血筋に連なる君は、エトリアからは『間諜』扱いされるかもしれない。ならば、君がメルダイスの力を背負うということは、逆効果になる。

 実際、オレルスがファリーツェの立場をどう思っていたのかは、判らない。ただ、エトリアの中枢にそこそこ近いところに置いてくれているのは、今はエトリアに害を為すとは思われていないからだろう。父の読みは正しかった。ひょっとしたら、オレルスはファリーツェが『ナギ・メルダイス』のままでも迎え入れてくれたかもしれないが、それは今だから思えることだ。
 ファリーツェが手にしている『小切手』は、その手紙に同封されて手元に届いたものだった。親子の縁が皆に見える形で繋がっているうちの、最後のはなむけとして。

 ――金で買えないものがある、とは言うけれど、買えないものを手に入れようとする途中、どこかで金は必ず必要になる。餞としては一番役に立つものだろう。有意義に使いなさい。

 額面は一枚一万エン。ファリーツェ自身はそれを五枚受け取っていた。
 大金だが、樹海の奥底まで探索できるギルドの一員としては、手にするにはさほどの時間がかからなかった金額(もちろん、強力な魔物の領域を闊歩する苦労はあったが)。ギルドの皆が別れた時に、不要なものを売り払った分も含めて山分けした金は万単位となり、ファリーツェも銀行に自分名義の口座を作って一部を預けている。
 ゆえに、父の餞はありがたいながらも、今まで使う当てはなかったが……羊皮紙だけに、遠方に支払いをするためにはうってつけだ。配達人に余計な重量負担を強いる必要もなく、宝石に換えても防ぎきれない盗難の心配もない。振出期限にも充分な余裕がある。
 四枚を送るとなると、前金分には多すぎるが、一万エン分は、派遣された者がエトリアまで来る旅費などを含めた必要経費である。
「えーと、確か……」
 ガンナーギルドの件は、故国の従騎士だったころに、時々手紙をよこしてくれた伯母――どちらの伯母も手紙をくれたが、この件に関してはパラスの母の方――が記してよこしてくれたものだった。いくらコネといっても、たかが従騎士の持つそれが、騎士団で役に立つとも思えず、知らせた方としては、『そういえば』程度のものでしかなかっただろうが。ともかくも知らさせたところによれば、そのガンナーギルドには明確な名がなく、単に『組織』と呼ばれているらしい。ただ、依頼や報酬を受け付けるために、それでは不都合なため、『メニーシュ協会』という外部組織が交渉を担当していると聞く。
 証券の受取人欄は、今はすべて空白のままだ。現状では、この証券を持っている者が誰であろうと支払いが成される。この欄に『メニーシュ協会』と書き込んでおけば、『組織』以外の者が証券を強奪しても、現金化できなくなるわけである。
 父は息子の名前を受取人欄にあらかじめ書いておいてもよかったはずだ。それが空欄なのは、今のような使い方をするかもしれない、と見越してのことだったのだろうか。
「ありがとう、父さん」
 遠く『王国』の地で今日も商売に励んでいるはずの父の姿を脳裏に浮かべながら、ペンを取って、署名を始めた。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-14

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