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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・9

 鈍い音が、食堂内に響き渡った。
 室内にいる誰もが、音の正体を見きわめようとして一点を注視する中、集まる視線の中心部にいるファリーツェは、呆然と足元を見つめていた。
 音の正体は、人間の身体が床の石材と衝突して鳴ったものであった。もちろん、今なお立ちつくしているファリーツェ自身のものではない。
「――オレルス様!」
 何故か、「しまった」という思考が、脳裏を電撃の早さで駆け巡った。刹那の硬直の後、我に返ってしゃがみ込む。周囲の戸惑いの声が潮騒のように広がる中、慌てて食事を傍の床に置くと、オレルスを抱き上げた。
「……あ?」
 オレルス自身は、何があったのか、自分が倒れたことすら理解していないのだろう。だが、その顔は平時にはあり得ないほど赤い。そっと額に手を添えると、もはや微熱とは言えない熱が伝わってきた。ファリーツェは周囲の人混みを振り返り、声の限りに叫ぶ。
「誰か、早くメディックを!」
 この場合のメディックは、ケフト施薬院のキタザキ院長のことではない。執政院に常駐する衛生士のことである。施薬院に詰めるメディック達に比すれば腕はまだまだというところだが、応急手当てには絶大な力を発揮する。ひとまず容態を安定させてから、それでも重篤な症状の場合は、改めて、施薬院に搬送するなり、医師を招聘するなり、適切な処置にかかればいいのである。
 だが、今回はどうだろうか。
 そもそも、オレルスが微熱の件でケフト施薬院に足を運んでいたのは、常駐衛生士が微熱の原因を突き止められなかったからだ。軽い症状ほどその原因が多岐に渡る、というから、突き止められなかったこと自体を非難するつもりはないが、今こうして倒れたオレルスの、応急処置ならともかく本格的な診察は、衛生士達の手には余るだろう。
「それと誰か、施薬院のキタザキ院長を呼んでください! できるだけ早く!」
 続けて叫び、改めてオレルスを床に横たえた。
「私は……どうしたんだ? 食事を取ったら、早く執務に戻らなければ……」
「いいからこのまま寝ててください!」
 むしろ怒鳴っているような声調で叱り飛ばし、さて次は、と頭を巡らせた。気の利く者はいるもので、水を張ったタライを持った誰かが、人混みを割って寄ってくる。水中に没しているタオルに手を伸ばすと、地下水の冷たさが肌を刺した。
 とても助かる。タオルを絞ってオレルスの額に乗せると、ファリーツェは大きく息を吐いた。
 これ以上、自分にできることは何もない、と、担架を携えて食堂に駆け付けたメディック達の姿を捉えつつ、思う。あとはメディック達と、呼ばれて来るであろうキタザキ医師の仕事だ。
 メディック達がオレルスを担架に乗せ、衛生室へ搬送していくのを見送るファリーツェの瞳は、もはや休暇日の予定に胸を躍らせる少年のものではない。
 執政院の、『ウルスラグナ』を招く夜会は、中止になるに違いない。
 そして、自分も休暇どころではないかもしれない。
 そう思ったのは、漠然と、オレルスの微熱の原因に行き当たりつつあったからである。
 ただ、まだもやもやとしている思考を払い、確信に持っていくためには、自室で落ち着いて考えたい。そう思ったファリーツェは、床に置いた食事を拾い上げ、突発的事件の余波で未だに騒がしい食堂を後にした。

 オレルスが倒れた、と知った刹那に脳裏を走った、「しまった」という思考。
 それは、ちょうどその直前に「オレルスはいっそここで一度倒れた方が」と考えたために、現実となってしまったのではないか、と思ったからだ。
 もっとも、すぐに「ありえない」と思い直したのだが。
 人間、非合理的ではない、と判っていながらも、二つのまったく関係ない事象を繋げてしまうことがあるものだ。
 少なくとも、思っただけで他人に影響するような超能力は、知る限り、この世界にはない。
 たとえ、ファリーツェがまだカースメーカーとしての力を強く残していたとしても、思っただけでオレルスを倒すことはできない。
 『狂乱の魔女』と呼ばれる『ナギ・クース』最強の呪術師、現在の里長でさえ、思念だけで呪詛を掛けることはできない。呪詛は、言葉や、補助として鈴の音を使い、それらを聞いた者に錯覚を催させるものだからだ。『邪視』という、相手を睨むだけで呪う手法もあるが、普通は、言葉で呪詛を掛ける時に、補助的に使うくらいだ。『邪視』だけで呪うには、極めて強い集中が必要で、対象の前に立ってずっと睨み付けるという、不自然な行動をとらなくてはならないだろう。執政院内でそんなことを誰にも知られずできるとは思えない。
 一種の例外として、『遠隔呪術』というものがある。その場合、相手に呪詛を聞かせなくてもいい。正確に言うなら、距離が離れているので、相手に声が聞こえない。ただ、この場合、『相手に直に聞こえなくてもいい』であって、『呪詛を口にしなくてもいい』ではないのだ。
 ――ここまでの思考は、単に「俺のせいじゃない」という思いを補強するためのものだった。むやみに責任逃れをするファリーツェではなかったが、無実の罪を突き付けられたら狼狽えもする。
 だが、思考を続けていくうちに、ある可能性に行き当たった。
 そう、ファリーツェが呪いを掛けているわけではない。けれど、別の誰かが、試みているとしたら――。
 オレルスの微熱は全然引かなかった。自然な病として原因が突き止められないとしても、解熱剤くらいはキタザキ医師が処方してくれているのにだ。オレルスが薬嫌いで飲まなかったという可能性も皆無ゼロではないが――それを考えたら思考が暗礁に乗り上げてしまうので、とりあえず『ちゃんと飲んだ』とみなす。
 もしも誰かがオレルスに呪いを掛けているとしたら……呪いを掛けられているという事実そのもの以上に、早急に対処しなくてはならないことがあると予想される。すべてがファリーツェの考え過ぎならそれでもいい。ただ。予想が現実となり、それに対処する力がなかった時の方が何百倍も怖い。
 閣僚達がオレルス昏倒に関して今後の方針を話し合うために会議を持つと聞いた。彼らは、オレルスが倒れたのは単に病状が悪化したためだと思っているだろう。だから、せいぜい、オレルスが行っていた業務を誰がどれだけ代行するか、程度の話し合いに留まっているはずだ。
 行かなくては。閣僚達に、事の重大さを知らしめるために。
 衣装箪笥ワードローブから引き出したのは、叙任式以来袖を通していない、執政院の制服である。一応は武官に分類される自分にとっては、鎧が常の制服のようなものなので、何か式典でもない限りは着る機会はないと思っていた。自分にはあまり似合うとは思えないそれを大急ぎで着用すると、食べ終わっていた朝食の食器の片づけもそこそこに、ファリーツェは自室を飛び出した。

 当たり前といえば当たり前なのだが、会議室の扉の前で見張りと問答することになった。
 ファリーツェの立場は、オレルス直属の正聖騎士とはいえ、階級で言えば下級ヒラ兵士より少し上という程度でしかない。それが閣僚達の会議にいきなり出席させろと言っても、見張りとしては困るところであろう。
 そんな事をしている場合ではないのに、と歯がみするファリーツェに、背後から声を掛ける者がいた。
「おや、君は……久しいね。元気だったかね」
「あ」
 暗夜の灯とはこのことか。やって来たのは、執政院に緊急に呼び出されてきた、ケフト施薬院のキタザキ院長だったのである。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-9

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