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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


外伝――地獄とは彼の不在なり・4

 親族の少女との休息を終え、執政院に戻ったときには、空には星が輝き始めていた。なんとなく星の綴る星座の形を辿りながら、執政院の広間に足を踏み入れたファリーツェは、思いがけない人物と顔を合わせた。ただし、執政院にいるはずがないわけでも、会うのが珍しい人物でもない。最近、『広間で』見かけることが珍しいのである。
 エトリア執政院ラーダの長、オレルスであった。
 樹海探索の際、情報室長だった頃には、オレルスは冒険者との様々な折衝を円滑に行うべく、広間の傍に仮設の情報管理室を設けていた。冒険者がやってくると迅速に応対に出てくるため、常に広間にいる印象があったのである。だが、樹海探索が終了してからは、冒険者の来訪を待ちかまえる必要はなくなった。というより冒険者の来訪自体がほとんどなくなった。長に昇格したこともあり、オレルスは執政院奥の執務室で業務を行うことが多かったのだ。街にはよく顔を出しているから、人と会わなくなったわけではないのだが。
「オレルス様?」
 ファリーツェの呼びかけが疑問を帯びていたのは、若長がどことなくぼうっとしているよにうに見えたからである。
「……ああ、きみか」
 事実、返答は鈍い。眼鏡の奥に生気を失いかけた瞳を見出して、聖騎士の少年は心配げに声を上げた。
「お疲れの様子ですが、僭越ながら、少し休まれた方がいいのでは」
「……うむ。微熱があるようでね、これから施薬院で診察してもらおうと思ったのだが」
「私が参って、キタザキ医師をお連れ致しましょうか?」
「いや……たいしたことじゃない。施薬院も患者を抱えている、歩ける限りは自分で行くさ」
「そうですか……お気を付けて」
 歩き去っていくオレルスを見送りながら、話題に出たキタザキ医師のことを思い出した。
 ケフト施薬院の院長であり、エトリア一の医師……否、周辺国家を含めても、五指には入る腕だろう。その『神の手』は、病人のみならず、樹海探索で傷ついた冒険者をも癒してきた。息がある状態で施薬院に担ぎ込まれながら助からなかった者は、両手の指で数えられるほどしかいなかっただろう。その事実は、冒険者達が探索に挑む際の精神的な後ろ盾として、強固なものだった。
 ファリーツェ自身も、そうだった。冒険者として樹海に挑んでいた時には、何度もお世話になったものだ。だが、最も世話になったのがいつかと思い起こすなら、やはり、第五階層に到達した直後だっただろうか。キタザキ院長自身から聞いた話によれば、ファリーツェの容態が峠を越えるまでは、霊安室モルグの鍵をつかみかけたことも、一度や二度ではなかったという。
 何故、そんな状況に追い込まれたのか――それを思い出すと、全身が震える。ただの恐怖ではない、幾つかの奇妙な感情がい交ぜになり、体内のすべての細胞が振動しているように感じる。二度と『自分』には戻れなかったかもしれない、という怖れが、思考を塗りつぶしていく。
 俺は――。

 アルルーナは、言葉を止めた。
 ふるふると首を振ると、大きく息を吐いて話を続けた。
 けれど、それまで語っていた言葉は宙に浮いたまま、その瞳は潤んだままで。
 果たして何を語ろうとしていたのか、聞き手達は訝しく思うも、聞き返すこともできず、話を聞き続けるしかなかった。

 ――胸元に右手をやり、何かを握る形に掌を丸めた。
 ――それは、今は『ここ』にある。もう二度と、自分も、他の誰かも、あんな思いはしない。
 誰も知るまい、ファリーツェが護符のように身につけているもののことは。
 それは、天鵞絨ビロードのようになめらかな不織布の小袋であった。観察力のある者なら、布というより厚手の花弁を加工したようだ、と看破したかもしれない。
 事実、その通りだった。かつて『エリクシール』がアルルーナという魔物を打倒したときに手に入れた、魔物の身を飾る花の花弁。その端切れで、小袋は作られたのである。だが、重要なのは、袋そのものより、その中身だ。
 小袋に入れてから、一度も出したことはないが、中に入っているのは、スモモ程度の大きさの種のようなものだった。それは、アルルーナの種だという。本来属する種族を遙かに超えた力と、倒されても復活する身体、それらを『世界樹の芽』と呼ばれる存在から与えられた『敵対者F.O.E.』は、次に復活する力を蓄えきるまで、その姿でいるのだろう。

 ――『私』を守って。二度と樹海の大地に触れないように、二度と根を張って蘇らないように。あなたが、今の私と、今度の私に害されるかもしれない人間を、守るのよ。

 アルルーナの残したその言葉。それが嘘偽りではないと思ったから、ファリーツェはすべての負の感情を飲み込んだ。誰かがまかり間違って『種』を見つけ、うっかりどこかに植えたりしないように、常に持ち歩くことを決めた。
 『種』を手に入れてから長く経つが、復活の気配はない。樹海の大地、あるいはそれに類するものに触れていなければ、復活することはできないのだと思われる。少なくともファリーツェが健在でいる限りは、妖華の娘と交わした約束は守られ続けるだろう。
 だけど、いずれ遺書には事情を書かなといけないかな、と考える。そして面倒だな、と思ってしまう。樹海探索の頃と比べて死の危険は減った。それでも人間、何の拍子で死を迎えるか判らないのだ、遺書を残しておくことは決して無益ではないのだが、だからといって本腰入れて書く気にはなれなかった。要は、彼も、日常に近い生活で自分に死が降りかかってくることなどそうそうないと考える、普通の若者に過ぎなかったわけである。樹海探索という強烈な死地を潜り抜けた後なら尚更だろう。後に思えば――否、彼自身は思うことすらできないわけだが――油断との誹りを受けてもやむないことだが、仕方がないことかもしれない。
 大きく息を吐くと、執政院付の少年騎士は、執政院の奥に歩を進めた。
 当然のことながら、ファリーツェにはエトリアでの生活基盤がない。冒険者時代には長鳴鶏の宿内にギルドで借りていた部屋がそれだったわけだが、ギルドが解散した今、まさか借り続けるわけにもいかない。ついでに言うと、長鳴鶏の宿は少し高い。そこでオレルスが、執政院の一室を提供してくれることになった。いわば執政院内に泊まり込みで働いていると言い換えることもできる。なお、同じく執政院で働く騎士や兵士が泊まり込む寮を提供されなかったのは、単に空いていなかったからである。
 提供された部屋と長の執務室、その近辺は、どうやらエトリアが迷宮を得て膨れあがる前からあった場所のようで、迷宮発見の後に増築された、高価な化粧石や金属の装飾で飾られた場所とは、明らかに違う。素朴な石や煉瓦の上から泥を塗られ、魔除けの装飾を施された、辺境の建物に似た素朴な部屋だった――そもそも、迷宮発見前のエトリアはまさに辺境だったのだ。どうしてこのようなものが残されているのか不思議に思い、オレルスに聞いたのだが、どうやら前長ヴィズルが改築を許さなかったらしい。樹海発見前からエトリアの長だったヴィズルにとって、潰すには忍びない場所だったのかもしれない。
「まあ、潰すのも改築するのも金がかかる、使えるうちはこのまま使えばいいのだよ」
と、オレルスは笑いながら結論付けたものだった。
 ファリーツェ本人はといえば、小さいが居心地がいいこの部屋が気に入っていた。特に気に入ったのはベッドなのだが、これは家具として存在するのではなく、壁の一部が刳り抜いてあり、そこに敷物マットレスを敷いて使うのだ。
 素朴な机に向かい、本日の報告を記す。急を要する事柄がない限りは翌朝に提出することになっている。幸い本日も緊急事項はなく、つつがなく書き終えたところで、睡魔に襲われかけ、ファリーツェは寝ることにした。
 休息時間でも大抵は鎧を身につけているが、まさか寝るときまでそういうわけにはいかない。茫洋としたランプの灯りの中、寝間着に着替えようと、鎧の取り外しに悪戦苦闘を始めた。一人でもなんとか着脱できるような仕組みにはなっているとはいえ、それでも困難を要する。やっぱり手伝ってくれる人がほしいなぁ、と、眠気に支配されかけた頭でぼんやりと考えていた。
 鎧をどうにか脱ぎ去り、下に着ていた服の上半分を脱いだ時だった。
「すいません、ファリーツェさんっ!」
 唐突に、部屋の扉が勢いよく開かれた。
 ランプの灯火をも吹き消さん勢いで声をあげた闖入者は、しかし急に短い悲鳴を上げる。その視線が自分の左肩に向いているのを悟って、ファリーツェは苦笑した。そこには、聖騎士の名には不釣り合いな(と皆は見るのであろう)、禍々しい入れ墨があるのだから。説明すれば納得されるだろうが、闖入者の様子を考えればその猶予はあるまい。
「何かあったの、シャイラン?」
 彼女の名を聖騎士は呼ぶ。それで、相手は我に返ったようだった。もっとも、落ち着いたわけではなく、本来の懸念事を思い出したという方が正しい。
 シャイラン・フォウ。それが、闖入者である赤毛の女性――というにはまだ年若く、少女と呼ぶべきかもしれない――の名である。
 樹海探索が最高潮だった頃には、彼女も冒険者だった。本来は、四人の幼なじみと共に執政院の兵士になるはずだったのだが、訓練後の、樹海地下一階の地図を書いて戻ってくるという最終試験が、彼女達の転機になったのである。
 当時、ファリーツェが属していたギルド『エリクシール』は、彼らに致命的な危険がないように見張る役を依頼され、結局起きたトラブルに対応したものだった。その様に、若き兵士候補達は将来設計を転換するほどの衝撃を受けたらしい。執政院を辞して、『おさわがせトラブラス』という名のギルドを立ち上げ、樹海の深みにまでは到達できなかったものの、中堅の冒険者としてエトリアの民に愛された。
 そして、樹海が閉ざされた今は、人手はいくらでも欲しい執政院に請われ、本来辿るつもりでいた道に戻ったというわけである。
 シャイランはソードマンであった。今でも執政院付の兵士のほとんどを負かすほどの剣の腕を誇っている。そんな彼女が、樹海で『敵対者F.O.E.』に出会ったような焦りを見せ、口早に叫んでいる。
「あの、あのっ! 魔物がっ! 樹海の魔物がっ……!」
「樹海の魔物?」
 ファリーツェは眉根をひそめる。樹海の魔物が街に入り込んでくるなどとは、まずなかったことだ。
 ごくわずかな例外がなくもなかったが、基本的に樹海の魔物は、入り込んできたものしか攻撃しない。まして今は、樹海は閉ざされている。聞いた話でしかないが、樹海の最奥部に到達したギルド『ウルスラグナ』が語った、その状況に至るまでの経緯を考えれば、魔物が人間の街を攻撃する理由はない、はずだ。
 何であれ、街の人間に危害が加えられるというなら、執政院の騎士として対応しなくてはならない。
 樹海の深みに潜らなくなって久しい身、シャイランも慌てる相手に自分の力がまだ通用するかどうか、怪しいところだが。
「わかった、どこにいる?」
 ファリーツェは服を着直し、とりあえず剣と盾だけを携えて部屋を出る。
「こっちです!」
 シャイランが軽快な足音を立てながら走るのを、聖騎士は追いかけた。

High Lagaard "Verethraghna" Side Story-4

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