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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・61

 尻尾を巻いて逃げたという屈辱と――それは自己生存のためには必要なものだが、悔しいことには変わりない――、沸き上がり続ける疑問とを、心の裡に抱えながら、鍛錬班一同はどうにか私塾に帰り着いた。
 ただならぬ様相を察知してか、何者かが足早に玄関に姿を現す。こんな時にいち早く出てくるのはドゥアトだろうか、と思いきや、正体は戸惑うセンノルレだった。ドゥアトは家事の続きで手が離せないようである。
「ドゥアトさんが、何か様子が変だから見てきてほしい、と仰ったものですから……」
 だが、青ざめたフィプトや、もはや声を上げる余裕もなく泣き続けるルーナを見て、表情を険しくした。いかに錬金術に傾倒した彼女の優秀な頭脳でも、彼らの心を傷つけたものをどう解決するかは、浮かばなかったようだった。その口をついて出たのは次善の策であった。
「とにかく、全員、風呂に入りなさい。暖まれば少しは落ち着くでしょう」
 冒険者達は普段はフロースの宿の風呂を借りるため、私塾備え付けの風呂の出番はあまりない。そして風呂ほどの湯が短時間で沸くはずもない以上、鍛錬班はかなり待たされることを覚悟した。しかし、センノルレの頭がよく回ったおかげで、簡単な湯浴みは早めにできそうだった。水汲み桶二つ分の湯がとりあえず用意されたのである。
「これで身体を拭けば、少しは落ち着くと思うよ」
 タオルで身をくるみつつ待つこと二十分ほど、ティレンと共に湯の入った桶を下げてきたパラスが、心ここにあらずといった様子で俯くルーナを見つつ、心配げに口を開いた。
「お風呂で身体拭こうよ。ルーナちゃんは私がやったげる」
 かつてのギルド『花月フロレアル』の二人が『ウルスラグナ』に加わって以来、パラスはルーナによく構っていた。ヴェネスにも、そして以前同様にティレンにも構っていたところを見ると、自分より年下ということで保護欲をかき立てられていたのかもしれない。つまりは「弟や妹みたい」と思っていたということに尽きる。今回、ルーナの面倒を申し出たのは、そんな心理が働いてのことだろう。
「おれも、ふたりのめんどう、みる?」
 木訥な口調でティレンが男性陣に申し出たが、こちらは自分の面倒を見る程度の精神的余裕が残っていたらしい。フィプトは「大丈夫、大丈夫です」と固辞しつつ、湯の入った桶を受け取った。
 鍛錬班一同に一人を加えた一団が風呂場に消えたのを見送って、ティレンは湯沸かし場に走った。先に行って風呂を沸かす準備をしているエルナクハを手伝う気なのである。
 一方、厨房で翌朝の下ごしらえをしていたドゥアトは、センノルレの「湯を持っていってもらった」という報告を受けて、安堵の溜息を吐きつつ、まだ消していないかまどの火の上に、晩飯のシチューの残りの入った鍋を載せた。
「どうしちゃったのかしらね、みんな。『エスバット』の言っていた『恐ろしいモノ』に出くわしたのかしら」
「……かも、しれません」
 錬金術師と呪術師は、重さを孕んだ言葉を交わし合う。もしそうだとしたら、鍛錬班達はよく生きて戻ってこられたものだ。不用意に敵の至近距離に近づいたとは思えないが、広範囲を移動する(かもしれない)『それ』と偶発的に出会ってしまった可能性もある。帰ってきた鍛錬班の様子は、問題の敵を遠くから確認するだけで戻ってきた、とは考えられなかった。何かがあったのだ。比較的落ち着いて見えたオルセルタ、マルメリ、ヴェネスの様子も、決して平静ではなかったのだ。
「おはようございましたえー」
 そんなところに、時制の怪しい挨拶と共にやって来たのは、焔華であった。この日の昼頃に、件の麻薬の副作用が発現して、対抗薬を飲んだあとに伏せっていたのである。センノルレから水の入った木のコップを渡され、さもうまそうに飲み干すと、ブシドーの少女は満足げに息を吐いた。
「鍛錬班の皆、戻ってきたんですし?」
「ええ」くつくつと煮えていい匂いを振りまくシチューをかき混ぜ、煮詰まりすぎたのを伸ばすために牛乳を投入しながら、ドゥアトは答えた。
「あんまりいい雰囲気じゃありませんえ」
「あら、焔華ちゃんもそう思う?」
 どうやらブシドーの娘もカースメーカーの女と等しく、鍛錬班が私塾に持ち込んできた雰囲気に気が付いたようだった。
「予想ですが、例の『恐ろしいモノ』に出くわしたのかもしれません。……全員、無事ではありましたが」
「……そりゃ、難儀ですえ」
 眉根をひそめながら、焔華は肩をすくめた。
 現時点で『恐ろしいモノ』を倒せるだけの力量を育んでいるのは、『エスバット』と対峙したメンバーであることは間違いないだろう。他の者には多分、荷が重い。
 早くこの厄介な障碍しょうがいを、せめて戦闘中に発作が出ない程度にまでは抑えないと。改めて焔華はそう思うのだった。思うだけでどうにかなるものではないが。
 気を取り直し、ブシドーの娘は話題を変えた。
「そういやぁ、パラスどのはどうしましたのん? 花札の相手しとってくれてたんですけど、『おかあさん手伝ってくる』って下降りてったはずで……」
「あら、そういえば戻ってこないわね……」
 パラスと、たまたま牛乳を求めて厨房に顔を出していたティレンに、ひとまず湧いた湯を入れた桶を持っていってもらったのだが……。
「ひょっとして……」
 ドゥアトは娘がやりそうな行動を次々に脳裏に浮かべ、あるひとつに至ったその時、顔色を変えた。
「まずいわ……! パラスが『あれ』を見ちゃったら……!」
 まさに、その時。
 風呂場から、カースメーカーの少女の悲鳴が聞こえてきたのだった。

 厨房にいた三人が風呂場の入り口に駆けつけたとき、既にその場には、ゼグタントを含めた男性陣八人全員が、困惑の表情を浮かべた雁首を並べていた。悲鳴の出所が女風呂なので、覗いていいのかどうか躊躇っているようである。明らかに生命の危険に関わることだったら、有無を言わさず押し入るのだろうが、中から聞こえる声はそういうものではなく、どうも女性陣同士の言い争いの体を成している。ドゥアトは軽く溜息を吐くと、男性陣の疑問と懇願のまなざしを浴びながら、女風呂の中に踏み込んだ。後からセンノルレと焔華が続く。
 風呂場――正確に言えば脱衣場にいた者達の、一人を除いて三人が、風呂に踏み込んできた三人に気が付き、顔を向けてきた。
 顔を向けなかったのは、進入者達から見て右手にいるルーナだった。脱衣室の床に座り込み、ぐったりとうなだれている。脱いでいる、否、脱がされている途中だったのか、上半身は肌が露わになっていた。その肌には、よく見なければ見分けられない程度に肌の色に似た、若干明るめの染料で、巫医達には意味があるのであろう、曲線で構成された紋様が描かれている。手の甲や肘には目に似た形が見うけられた。
 一方、顔を向けてきた三人は、まだ服を着ていて、ルーナと向かい合う位置に立っている。中の一人、パラスは、両手をオルセルタに、腰をマルメリに押さえつけられていたが、母に気が付くと、憤懣やるかたなしといった風情で声を張り上げた。
「お母さん! 何なの!? コイツ、何なのよ!?」
 新入りの巫医を妹のようにかわいがっていた娘が、今はその相手を不倶戴天の敵のように糾弾する。その足が一歩、ルーナに近づいたところを、マルメリが引き止め、その片手が振り上げられたところを、抑えを振り切られたオルセルタが再び押さえようと自分の腕を伸ばす。
「落ち着いてよぉ、パラスちゃん」
「一体どうしたのよ!?」
 幸い、パラスは相手を叩こうとして手を挙げたわけではないようだった。掌は平手でも拳でもなく、相手を示す形でルーナに突き付けられたのである。
「あり得ないのよ! コイツの左肩……なんでこの刺青が、コイツの肩にあるの!?」
 何を言ってるのか。当事者達以外は、そんな表情をしている。
 だがドゥアトは、やはり、とやり切れない思いに囚われた。彼女は『知っていた』のだ。それも、『花月』を名乗る者達がハイ・ラガードに姿を現す、ずっと前から。ルーナが、ある一人以外が持ち得るはずがない紋様の刺青を、左肩に持っていることを。そして、他の者はまだしも、パラスがそれを見てしまったら、必ずや疑問を抱くであろうことを。どうやら最悪のタイミングで秘密は明らかにされてしまったようだった。
「ねぇお母さん、お母さんなら判るでしょ!? これ、どういうことなのよ! ねえ、答えて!」
 パラスはドゥアトがすべてを知っていると心底思っているわけではないだろうが、やり場のない怒りをぶつける勢いで母に突っかかる。
 ドゥアトは軽く目を閉ざし、かすかに溜息を吐いた。
 一呼吸の間の後、くわっと開かれた眼の奥には、普段は魔を払う南天ナンディーナの輝きを秘めた瞳が、冥府の底に生える柘榴の果肉の鈍い艶を放ち、収まっている。
「黙りなさい、パラス」
 怒鳴ったわけではない、むしろ静かな口調と、冥府の果実の光を前に、パラスは押し黙った。他の三人、ルーナまでもが顔を上げ、吸い込まれたかのように視線をカースメーカーの女に向けてくる。
 ちょっと呪掛けすぎたかしら、と内心で苦笑しつつ、ドゥアトは三人と、自分と共に来た二人を、促した。
「オルタちゃん、マールちゃん、それにパラス、応接室に行ってなさい。ノルちゃん、焔華ちゃん、二階に行く前にお台所の火を消してきてくれないかしら? それと、ねぇ誰か、応接室の暖炉に火を入れてくれない?」
 後半は外で様子を窺っている男性陣に向けたものである。暗に、全員応接室に行っていろ、という意を込めたその言葉を、皆は正確に読み取ってくれたらしい。おとなしく風呂場を出た女性達の分も含め、あっという間に仲間達の気配が遠くなる。
 再び目を閉ざし、一呼吸の後、いつもの自分を取り戻したドゥアトは、うなだれたままのルーナの前に立ち、ゆっくりと腰を落とした。目線を巫医の少女とほぼ同じ高さに保ち、優しく声を出す。
「……バレちゃったのね」
 ルーナはゆっくりと顔を上げた。涙を溜めた空の色の瞳が、ドゥアトの存在を認識する。その金色の髪と相まって、ドゥアトは巫医の娘の顔立ちに、懐かしい者の面影を見た。
「私……私は……」
 『ウルスラグナ』の前で普段見せていた小生意気な態度とは裏腹な涙声で、何があったのかが語られるのを、ドゥアトは黙ったまま頷きつつ最後まで聞いていた。
 結果、現状のような事態に陥った原因が、樹海探索時の出来事にあることを、ようやくドゥアトは知ることができたが、それは解決の糸口にはならず、むしろ、さらに頭を抱えたくなるような出来事を引き起こしていたと知る羽目になったのである。
 パラスは刺青の謎を仲間達に明かし、仲間達は、ルーナのことを疑念の目で見るだろう。そうなったら、探索にも悪しき影響を与えてしまう。
 下手な隠し事はしないに限る――そう判っていながら、問題の件を、ルーナと共に隠し通すと決めたのは、事実があまりにも信じがたいことだったので、明かす方がよくない影響を引き起こすと考えたからだった。しかし、それも潮時だろう。
「話すしか、ないわね」
 ドゥアトは腹をくくった。その言葉を聞いたルーナも、こくりと同調したのであった。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-61

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