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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・60

「どうしたんですか?」
 ヴェネスが問いかけたときに、マルメリが上げた顔に浮かべていた表情は、どう表現したものか。本人に「手持ちの曲で表現しろ」と要求したら、おそらくは『熊踊り』と題される曲を弾き上げたに違いない。そんな要求は誰もしなかったので、マルメリは、表情を作るに至った原因を仲間達に直接見せることで、己の感情を表した。
 仲間達も等しく、頭の中を熊が踊ってしっちゃかめっちゃかにしていくような気分を味わったのである。
 黒肌の吟遊詩人の手に握られていたのは、いくつもの眠りの鈴だった。『敵対者F.O.E.』を眠らせ、動きを止めるための代物である。もちろん『ウルスラグナ』も何度も世話になっているものだ。
 それはいい。却って助かったくらいだ。冒険者達には手持ちがなかったのである。だが、その存在が明らかになった今、冒険者達の内心には、どうしても口にせざるを得ない思いが湧き出していた。それが、頭の中の熊踊りの理由であった。
「眠りの鈴あるなら使えよ!」
 元の持ち主であるアンジュがそれを適切に使用すれば、魔物に追いつめられるということはなかったのだ。とはいえ、冒険者ならざる者に、ああいった状況で冷静な判断を求めるのも無茶なのかもしれないが。
 ともかく、これで方針は決まった。
 獣避けの鈴で一般の魔物の襲撃を防ぎつつ、『黒影』に対しては随時、眠りの鈴で行動を封殺しながら先を急ぐ。
 前途が開けた冒険者達は、意気揚々と、氷塊が林立する広間に足を踏み入れた。

 結局、『黒影』は広間全体では五体もいて、『ウルスラグナ』の肝を氷点下にまで冷やしてくれた。
 広間の出口を区切る扉を出て、緊張が解けたあまりに大きく息を吐く。
 改めて道を確認すると、三叉に分かれていた。
 一つは北、磁軸計と照らし合わせると、さほど行かずして迷宮の最北端に至る。ただし、そこから先がどうなっているかは謎である。
 二つ目は南。この通路は、どこまで延びているのか、判らない。
 ちなみにこの二つの道は、凍った水路のようで、ソリで滑ることになりそうだ。
 最後は東。現在地から見る限り、狭い通路は長くは続かないようだ。その先がどうなっているかは、今のところは未知数である。
 という見解をオルセルタが述べると、ルーナが呆れたように言葉をこぼした。
「結局、どの道も全部謎なのね」
 初めからすべてが判っているなら冒険者は必要あるまい。
 どの道を先に調べるかは、満場一致で決まった。南である。その理由は、磁軸の柱周辺にある。磁軸の柱の北側には、獣道の気配があった。だが、奥に行けそうで行けず、結局開くには至らなかった。その道の反対側が、南へ至る道の先で発見できるかもしれない。そうすれば探索も楽になるはずだ。
 すっかりと馴染みの氷の床をソリで滑り、冒険者達は南への道を進んだ。
 ――思った通りであった。途中で西に折れた道の突き当たり、その袋小路の南側に、さらに南へ続く獣道が見つかったのである。
 だが、鬱蒼とした枯れ枝や常緑の葉の合間を縫い、道を辿った一同は、驚くべき障害に行き当たった。
 障害自体は、至極単純なものである。ただ、一般的な状況を考えれば、目の前にあるそれは『やりすぎ』と言えた。
 話は少し逸れるが、獣道を利用すれば、次回の探索から、樹海の入り口――つまり樹海磁軸や階段などだ――から再び迷宮の奥へ行くことが容易くなる。しかし、そのような獣道は、先駆者が見つけた痕跡があってもおかしくないのに、簡単には見つからない。何故か。それは、様々な理由が推測される。
 ――同じ階でも迷宮の奥の方が魔物が多く出現するので、未熟な者が不用意に危険地域に足を踏み入れないように、見つけた熟練者が隠した。
 ――魔物の通行、自然現象、その他人間が介在しない理由で、一度開けた獣道が判りづらくなった。
 ――単純に、これまで誰にも見つけられていない道である。
 一番考えられるのは、見つけた者が、他の者に使われたくなくて隠した、というところであろう。当然と言える。最も早く最上階に辿り着き、天空の城を見つけた者、その者にこそ名誉と報償が与えられる。他の者を利してどうするのか。
 実のところ、『ウルスラグナ』にしても、多少はそのような感情を持っている。未熟者への配慮が七割、後続者への警戒が三割といったところか。
 だが、どんな理由にしても、道を隠す手段は、周囲の草木を寄せて見づらく通りづらくする、というのがせいぜいだ。あまりきつく隠すと却って不自然になるし、そこからさらに自然に近づけるとなると余計な手間がかかりすぎる。
 まして、寄せた枝葉を退けられないように、目立たないところを縄で結い、さらに自然に見せかけて道を強固に塞ぐ――今目の前にあるような、そんな手の込んだことまではしない。
 結び目も固く、解きづらい。そもそも隠れたところで結んであるため、結び目の存在に気が付かない者がどうすることもできないのだが、逆に自分達が獣道を通りたいときでさえ苦労するだろう。刃物で切るにしてもかなりの労苦だ。この仕掛けをした者は、そこまでして他の者を奥に行かせたくなかったようである。
 正体はおそらく、『エスバット』だろう。
 この獣道さえなければ、『エスバット』が待ちかまえていたという広間を通る以外に、奥へ踏み込むことはできないのだ。しかも、昼には、氷が薄くなって通れない水路が、自然の要害となる。『エスバット』は、日夜樹海に張り付いて、奥へ進む者を見張らなくてもよかったのである――本来ならば。
「それでも無理矢理進むんなら、昼のうちに、何とかして氷が薄い水路を通るしかないわけね」
「自殺行為ですが……それでも、何とかしてしまった方達がいたかもしれませんね」
 全員で手分けして縄を切りながら、オルセルタとフィプトはそんなことを言い合った。
 だからなのかもしれない。『エスバット』――特にアーテリンデが、『ウルスラグナ』と退治したときに、憔悴した顔をしていたというのは。『氷姫』を守りたかった彼らは、誰も奥に行かれないはずだった昼間に難所を突破した者達に出くわして、まともに眠ることもできない樹海生活に突入してしまったのだろう。
 障害を除去して、獣道を抜けると、一同は思わず安堵の吐息を吐き出した。
 目の前に磁軸の柱が見える。ぼうっと光るその様は、夜虫を引きつける誘蛾灯の輝きにも似ていた。もちろん、誘蛾灯とは違って危険ではない。ただ、「一度帰りたい」という思いを皆の心の中に等しく沸き立たせた。
 結局、鍛錬は大してできなかったが、今日はここまでにしてしまおうか。氷樹海の寒さに加え、今日の晩飯当番であるドゥアトが作っていたシチューの想像が、帰宅願望に拍車を掛ける。
 誰ともなく思考を言葉に表そうとした、そんな時だった。
 北東の方から、かすかに悲鳴が聞こえてきたのは。

 その時に真っ先に行動を起こしたのはフィプトだった。あるいは、第一階層三階で遭遇した衛士虐殺の件が、まだ心の奥底で尾を引いていたのかもしれない。そんな彼の後を、仲間達もすぐさま追いかける。例外はルーナで、彼女も後を追うには追ったが、「とっとと帰っていれば面倒ごと背負わなくて済んだのにねぇ」とひそやかにつぶやいた。
 これまで来た道を逆走する。マルメリが気を利かせて獣避けの鈴を鳴らしていたためか、魔物に遭遇することはなかった。
 五体の『黒影』がいた広間を出た地点、三叉路まで差し掛かったところで、冒険者達は足を止めた。
 磁軸の柱付近の北東から、悲鳴は聞こえた。つまり、現在地からは未踏破の東方面ということになる。ただの未踏破領域ならまだいい。問題は、この先に何が待ちかまえているか、だ。
 『エスバット』は第三階層の奥に恐ろしいモノが待ちかまえていると言っていた。その正体云々はさておき、強大な力を持っていることは明らかだ。『ウルスラグナ』を追い越した者達が、数少ない例外を除いて、ことごとく戻らないのだから。そして、その存在とは未だに遭遇していないのだ。
 つまりは、これから向かうところに『それ』がいる可能性は極めて高い。
 まだ樹海探索に慣れたばかりの者もいる現一行では、『それ』と出くわして生きて帰れる可能性は極めて低い。
 今更ながらにそのことを自覚して戸惑う一同の耳に、再び悲鳴が聞こえた。明らかに東から聞こえた、それは女性のものだ。
 そう認識した途端に、『ウルスラグナ』は迷いを振り切った。『それ』と出会って生き延びられる可能性は低い。が、悲鳴の原因が『それ』とは限らない。どちらにしても、悲鳴の主を助けるだけならどうにかなるかもしれないのだ。
「行きましょう!」
 フィプトの言葉に弾かれ、一行は誰ともなく東へ走り出した。さすがにルーナも、今度は何も言わなかった。
 東の道は急激にすぼまり、獣道ほどの狭さではないが隘路となっていた。幸い、その道は抜け出すのに数分とかからない程度に短く、冒険者は視界が急激に広がったのを感じた。
 広大な氷池が広がっていた。
 実際には十二階の凍湖の半分程度しかない。しかも中央あたりが、東西に渡る岸で分断されているので、さらに小さく見える。それでも広いことには違いない。
 湖を分断する岸には氷の塊が乱立しており、距離の関係もあって、他に何があるのかを冒険者達から見ることはできない。
 が、その近辺から強烈な殺気が放たれているのを感じた。
 悲鳴の主はどうしたのだろうか。争いの音らしいものは聞こえない。悲鳴ほど通る音ではないから聞こえづらいだけなのか、あるいは、すべてが終わってしまったのか。池を分断する岸の北側にソリが停まっていることからすれば、誰かがいる、あるいは『いた』のは確かだろう。
 湖畔を走り、湖の北端の岸に回り込む。とにかく、現場であるだろう、氷の塊に囲まれた場所が、どういう状況か確認しなければと思ったのだ。
 だが、問題の場所の真正面に回り込んだ時点で、どうにもならない、と、一同は確信した。
 現在地に至るまでは心の中に確固としてあった、『生きている者がいたら助ける』という決意の芽は、強烈な殺気に中てられて枯れ果てた。皮肉にもそれは、『ウルスラグナ』が生き延びるために必要なことだった。救助隊を気取って踏み込めば、誰かを助ける前に自分達が果てるだろうから。
 それほどまでに、殺気は強かったのだ。現在形だろうが過去形だろうが、殺気の源の近くにいる者は、生きて戻れないだろう。
 犠牲者に心の中で何度も詫びながら、一同は背を向けた。今救助すれば助かるだろう者をも、自分達は見捨てるのだ。特にフィプトは、かつての死んだ衛士達の惨状が脳裏にちらつくのか、何度も殺気の源を振り返ろうとしては、意志の力で押しとどめていた。
 だが、唯一、背を向けなかった者がいた。
「どうしたん……ですか?」
 訝しく思いながら、ヴェネスがその者に声を掛けた。
 心ここにあらず、といった様相で佇むその者――巫医ルーナは、ヴェネスにその手を差し出した。掌を上に向けて、何かを要求する動きを見せる。
「単眼鏡……持ってたでしょ」
「え? ……ええ」
 一体何をしたいのかと疑問を抱きつつも、ヴェネスは、催眠にでも掛けられたかのように、ゆっくりと単眼鏡を取り出して、ルーナの掌に載せた。
 金の髪の少女は、銃士の少年から借りた単眼鏡を右目に当て、南を――氷の塊の間、殺気の源があるはずの方向へ向けた。
 立ち去るつもりで殺気に背を向けたはずの仲間達も、巫医の少女の真意を測りかね、戸惑いながらも同じ方向に目を向ける。
 視力を倍加させる術を持たぬ者達には、問題の地点の状況を見ることはできない。そのはずだが、ルーナの顔がだんだんと青ざめていく様を目の当たりにして、思った通り、否、それ以上の恐怖が在ることを悟らざるを得なかった。
 しかし、それだけではなかった。思いも寄らない謎が、その時、ルーナの言葉を借りて、衣を脱いだのである。
 後に考えれば、その謎は、現時点から始まっていたわけではなかった。その出発点は、『ウルスラグナ』の誰も知らないところで、エトリア樹海探索の頃から発生していたのだ。だが現時点では、『ウルスラグナ』達はルーナの言葉の意味することがわからず、困惑した表情を互いに向け合うだけであった。
「……昔の私が、いるわ」
 かたかたかた、と、単眼鏡の部品を己の戦慄おののきで打ち鳴らし、巫医の娘は茫洋とつぶやいた。
「あそこには、昔の私がいる。私の昔の罪を、過ちを、私に見せつけてる」
「どういうことなの!?」
 ただならぬ様相に、とにかく落ち着かせなくてはならないと判断したオルセルタが、ルーナの正面に回り込んで、単眼鏡を取り上げた。
 しかし、ルーナの視線は、オルセルタの向こうにあるものを凝視したままだった。
「笑いながら人間を殺してきた私の罪を、樹海が突き付けてきた……助けて、お願い助けてファリーツェ! いえ、助けてくれるわけないわよね……でもお願い、助けて、ファリーツェ!」
 巫医の少女は、直視を拒むように己の手で顔を覆い、その場にへたり込む。
 慌てて支えようとするオルセルタも、どうしたらいいのか判らずに棒立ちになる他の者達も、突然耳にしたひとつの名に、意識の半分を攫われた。
 それは、エトリアでのライバルギルドの聖騎士の、パラスのはとこの、ドゥアトの親族の、ひとりの少年騎士の名前。
 なぜその名がここで出るのか、理由は分からないが、少なくともルーナにとって縋るに値する者であるのは確かだった。
 が、今はその名にこだわっている場合ではない。ルーナ除く『ウルスラグナ』は、意識のすべてを現実に引き戻して、今後の対策を即座に立てた。
 簡単なことだ。今すぐ帰還する。
 充満する殺意の中心に突撃するわけにもいかないのは当然だし、今の状態では軽い鍛錬すらも死出の旅路になりかねない。知人の名を呼びながら泣き叫び助けを乞うルーナを、不意の危機から守るように囲みながら、冒険者達は帰還の準備を始めた。といっても、準備自体は一人でできる。アリアドネの糸の起動を担当したのはマルメリである。
 フィプトはオルセルタから単眼鏡を受け取って、殺気の源を見ている。少なくともどういう姿の者なのか把握した方が、多少は戦略も立てやすいだろう、との判断からである。先のルーナのように、顔は青ざめ、震えで単眼鏡や錬金小手をかたかたと鳴らしていたが、膝が折れることはなかった。
 オルセルタは、ルーナをなだめながら、ヴェネスに声を掛ける。
「えーと、状況、把握できないわよね。まあ、私も上手く説明できないんだけど。ファリーツェっていうのはね」
「知ってます」硬い表情で、ヴェネスは応じた。
「え? 知ってる……って?」
 オルセルタはさらに戸惑うしかなかった。そんな彼女に言い含めるように、ヴェネスは硬い声で続ける。
「ボクのかつての雇い主で……よくしてくれた人です。……ボクが死なせてしまった人です」
「って、ちょっと、どういうことなのよう?」
 糸の起動を終えたマルメリが割り込んだ。ヴェネスは悲しげな笑みを浮かべると、静かに制した。
「今は話してる場合じゃない。帰ったら、お話しします」
「やめて」即座にオルセルタは答えた。
「話してほしいけど、不用意には話さないで。聞きたいときには、そう言うから」
 ヴェネスとて状況を選ばずに話すような少年ではないだろう。頭ではそう理解していても、オルセルタは敢えて釘を刺さずにはいられなかった。もしも今の話をパラスが聞いたら、どうなる? ひょっとしたら、ドゥアトもどうにかなってしまうかもしれない。そう考えると、カースメーカー達のいる場所で不用意に話をさせるわけにはいかなかった。少なくとも、兄の判断を仰がないと――!
 単眼鏡での観察を切り上げ、青い顔をそのままにフィプトが戻ってきたところで、足下すらおぼつかなくなったルーナを支えつつ、一同は糸が生んだ磁軸の歪みに踏み込んだ。
 フィプトが見たものについても早く聞きたいところだったが、それも、落ち着かない場所でできる話ではないだろう。安心できる場所――つまりは私塾に戻らなければ、何も進まないのだ。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-60

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