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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・59

「キャーッ! ちょっとコッチに来ないでよっ! 何なのよもうっ!」
 磁軸の柱を使って十五階に降り立った瞬間、そんな悲鳴が聞こえてきた。
 振り向いた『ウルスラグナ』は、その視界の中に、見慣れた白衣を見た。
 ただの白衣ではない、その上腕には、医神の蛇杖カドゥケウスの意匠が縫い取られている。紛うことなき、公国薬泉院の制服である。
「アンジュさん!」
 フィプトが叫ぶ声は、アンジュ自身の金切り声に敢えなく掻き消されてしまう。
「どうして、どうしてなのっ! ちゃんと獣避けの鈴鳴らしてるじゃないのっ!」
 どうやら、アンジュは手に鈴を持っているようだった。実は獣寄せの鈴だった、ということではない。今まさに、アンジュを取り囲んでいる魔物が、『規格外』なのである。事実、磁軸計には、『敵対者F.O.E.』を示す印が数個、うごめいている。『敵対者』には獣避けの鈴は効かない。
「アンジュさん! こっちに来てください!」
 フィプトは再度叫んだ。しかし、フィプトの指示とは裏腹に、アンジュの声は遠ざかっていく。『ウルスラグナ』には気が付かず、とにかく魔物から逃げようとしているのだろう。だが、彼女の向かう方向は森の奥。さらに悪いことに、『逃げる者は追う』という習性を持つものだったのか、魔物はアンジュに引きずられるように森の奥へと迫り始めた。
「と、とにかく、早く連中を始末しなきゃ」
 ヴェネスが、焦る声ながらも冷静なまなざしで、森の奥の方を注視しながら、声を上げた。「『始末』とは物騒な言い方だなぁ」と先輩達は思うものの、行動自体には同意であった。アンジュを救うには、魔物達が彼女に追いつく前に仕留めるしかないのである。
 冒険者達は猛然と走り始めた。やがて、その視界には、見慣れた姿の魔物が入る。計三体、いずれも、第三階層上層でよく見かけるレッドフィッシュである。紅白まだらの金魚を大きくした上に足を生やして二足歩行させたような姿をしている――通常の魔物のはずだ。しかし、磁軸計の反応は、明らかに奴らを『敵対者』と示している。
 おそらく『突然変異』なのだろう。
 ごくまれなことだが、通常の魔物の中に、他の個体より著しく強力なものが生まれることがある。通常の魔物と比べて『規格外』であることに変わりはない。磁軸計はそれらをも等しく『敵対者』として、その存在を自らの上に刻むのである。大抵は通常の『敵対者』よりは弱く、油断は禁物ながら必要以上におびえる相手ではない。
 『ウルスラグナ』は声を掛け合うこともせず、まずは一体に集中攻撃を仕掛けた。
「聞くがよい! 剣の鳴動、盾の軋み、風切る刃は戦の始まりを告げる!」
 マルメリの掻き鳴らす弦の調べに合わせるかのごとく、冒険者達の凶器が魔物を穿つ。オルセルタの細剣が鱗を抉り、ヴェネスの銃弾がヒレを的のように撃ち抜いた。フィプトは雷の術式を駆使して魔物の身体を内から焦がす。ルーナは仲間達の間を駆け、巫術を掛けて回った。
 難なく最後の一匹を仕留めると、フィプトがもう一度声を張り上げた。
「アンジュさん! 『ウルスラグナ』のフィプトです! もう安全ですから、返事してください!」
 ふと、近くの木の影に動きがあった。ひょっこり顔を覗かせたのは、間違いなく薬泉院の助手アンジュその人である。肩で大きく息をしているものの、目立った怪我はないようだった。
「ふ……フィプト、先生……?」
 たった今『ウルスラグナ』の存在に気が付いたアンジュは、きょとんとした表情で冒険者達を見回した。
「助けに……来てくれたんですか?」
 確認するように、凍えた唇をゆっくり動かすアンジュ。ぐるりと冒険者達を見回した目は、その顔に呆れた表情を見出して、ばつが悪そうに伏せられた。なにしろ、白衣は耐寒仕様ですらない、薬泉院で日常的に着用している、ごく普通のものだったのだ。無我夢中で樹海に突っ込んできたのである。
「あの……ごめんなさい、私……」
「馬鹿じゃないの、あなた!?」
 おずおずと謝罪の言葉を発するアンジュに、強い叱咤の言葉が降りかかる。
 他の誰が何かを言うよりも先に、厳しい口調を発したのは、巫医の娘だった。
「樹海の恐ろしさも知らない娘が一人、のこのことやって来て、五体満足のまま出てこられるほど甘いところじゃないのよ! 聞かせてあげようかしら、あなたと同じように甘いこと考えてて魔物に喰われた者の話を。聞けば、あの歩く金魚どもに追い回されたことさえ幸いに思えるでしょうね!」
 ルーナの矢継ぎ早の叱咤に、治療士の助手はビクッと首をすくめ、固く目を閉じる。
「ごっ……ごめんなさいっ! でも折角、先生が薬作ったのに……」
「薬……灰紋羽病の?」
「は、はい。せっかく作った薬なのに、学会の先生達は試させてもくれなくて……」
「木を治す、ただそれだけのために、生命張ったわけ?」
「だって、人も森も、どっちも生きてるはずなのに、治そうともしないなんて、私、許せなくて……!」
 固唾を呑む仲間達の前での数度のやりとりの後、ルーナは心底呆れて溜息を吐いた。
「人も森も生きてる……ねぇ。はぁ、メディックの頑固さには頭が下がるわ」
 ふるふると首を振ると、馬鹿に付ける薬を先に開発しろ、と言いたげに、ルーナは続けた。
「で? そんな命懸けで樹海に突っ込んできてまで試した薬は、どうだったの?」
 一瞬後、ルーナは、しまった、と言うような表情を浮かべた。
 アンジュの顔が、みるみるうちに輝き始めたのだ。ルーナの質問が何らかの起動装置、否、起爆装置として機能したようだった。先程体験した怖い思いは、どこへ消えたのだろうか、そんなものは初めからなかった、としか思えないほどの明るさで、アンジュは怒濤の言葉を吐き出したのである。
「そうなんです! 先生のお薬はよく効きました! 全部を治すってわけにはいかなかったんですが、ほら、特徴的な傷があったじゃないですか、あれと同じ傷の箇所に、すごくいい反応があったんです! ちゃんと開発をすれば、朽木も全部治せちゃいますよ、きっと! やっぱり、××××××(注:小難しい名前の薬剤)と△△△△△△△△△△△△(注:もっと小難しい名前の薬剤)を○○○○○○○○○○○○反応(注:常人にはさっぱり理解できない化学反応名)で合成させたのか効いたのかもしれませんね!」
 冒険者達はもはや呆れるばかりであった。フィプトだけは例外で、アンジュの言葉に含まれた専門用語をすべて理解できるのか、「なるほど、そういう方法で開発したんですか」と感心することしきりだったが。
 ひとしきり説明を終えると、実証実験の完了も含めて満足したのか、薬泉院の助手は、大きく息を吐いて、ぺこりと身体を折り曲げた。
「今日はご迷惑をおかけしました! 私はこれで帰ります。本当にありがとうございました!」
 今回は、磁軸計とアリアドネの糸を忘れなかったようだった。余談だが、磁軸計は薬泉院所属のメディックが共同で利用しているもので、衛士に付いて樹海に入る者達もいるため、今回、アンジュが十五階の磁軸の柱から進入できるよすがとして機能したらしい。そこから検証地点までは、獣避けの鈴を鳴らしながら自力で踏破したようだった。本来なら、鈴を使うといっても、魔物との遭遇確率は絶無にはならない。アンジュは強運にも守られたようである。
 糸を起動させたとき、薬泉院の助手は、ふと思い出したように、腰のポーチを外した。
「そうだ、これ、私にはもう必要ないものですから、お礼代わりに差し上げます。有効に使ってください!」
 差し出されたものを受け取り、アンジュがアリアドネの糸の力場内に踏み込んで消えるのを見届けた『ウルスラグナ』は、果たしてポーチの中身は何なのか、と思い、開けてみた。
 ――獣避けの鈴がたくさん、詰まっていた。
 一同は顔を見合わせた。もらって嬉しくないものではない。しかし、今回は鍛錬のために来ていて、傷ついたらアリアドネの糸で帰還することもできるのである。量も相まって、大変に微妙なお礼であった。

 アンジュの帰還を見届けたあと、『ウルスラグナ』一同は、本来の目的である自分達の鍛錬を始めた。
 狭い区間をうろついて、魔物の襲撃を待つ方法もあったが、一行は樹海の先に進むことにした。深い意味はなく、単に好奇心に導かれてのことだ。もちろん、少しでも危険があれば即時退却の構えである。
 幸いにも、大きな危険に直面することはなく、一同は、とある地点に差し掛かった。
 雪に覆われた大自然の大広間、その前を塞ぐ水路。
 ただし、夜を迎えて既に凍り付いているため、ソリで渡るのは容易だった。
 冒険者達は大広間に踏み込んだ。そこは、数日前に『ウルスラグナ』探索班が『エスバット』と激闘を繰り広げた場所である。しかし、その痕跡はもはや見つけられず、十五階を歩き回れるようになった後続の冒険者や、斃れた冒険者達を捜索する衛士のものなのだろうか、いくつもの足跡が、北の扉へと向かっているだけだった。
 アンジュを救助したときにはまだ夕焼けの朱の色を広げていた空は、すでにとっぷりと暗くなっていたが、二十夜ふけまちづきとなった宵の月は、まだ地平線の下にあり、姿を現す気配はない。この時間は手持ちの明かりだけが頼りだ。余談だが、アルケミストの技術による灯火は、持続時間も長くなり、アルケミストではない者でも再点火できるような改良がなされていた。
 冒険者達は、十字路を南から北へ向かって歩く。遠目に見える扉を目指して。建造物を回り込むように進む道もあるのだが、その道は取らなかった。さながら、堂々と凱旋する王者のように、赤い絨毯ならぬ白い道をまっすぐに踏む。
 ためらいなく北の扉を開け、大広間を後にした。
 小さな広間があり、その西から狭い道が北へ続く。探索班ですらまだ足を踏み入れていない場所である。冒険者達はソリを引きつつ、注意を払いながら雪を踏んで歩を進めた。
「ルーナちゃん、なんか嬉しそうねぇ? どうしたのぉ?」
 ふと、後列のマルメリが、前列のルーナに声を掛けた。のんびりした声はマルメリの特徴だが、今のところ魔物の気配が感じられないので安心しているのも事実だ。もちろん、精神の芯まで油断しきることはあり得ないが。
 ルーナの隣を歩いていたオルセルタも、その指摘に興味を動かされ、ドクトルマグスの顔を覗き込む。
「そう?」
 問われた方は、自分のことを言われたと気が付かない様相で、きょとんと目をまたたかせた。んー、と考え込む仕草を見せ、ようやく何かに思い当たったのか、軽く手を叩く。
「……あの娘のこと、かしらね」
「アンジュさん?」
「まあね、人間のくせに、木の一本や二本のためにあそこまで身体を張れるとはね」
「それが、嬉しいのぉ?」
「嬉しいっていうか、変な人間もいたものだ、って感じかしら」
 正直なところ、ルーナがアンジュの行動のどこに嬉しさを感じているのか、彼女ならぬ者には判らない。マルメリとオルセルタは、自然の諸々を借りてその術とするドクトルマグスならではか、とアタリを付けた。
 そして、そもそもルーナが嬉しそうだったということ自体に気が付かなかった者もいる。後列の男どもである。
「……嬉しそう、だったんですかね?」
「……さあ?」
 フィプトとヴェネスは、さっぱり判らない、という様相で、互いの顔を見合わせたのであった。
 そのような雑談を交わしつつ、狭い道は三十分程度で抜けた。出口直前で魔物と鉢合わせたが、切り抜けることに危なげはない。
 問題は、その後である。
 道の出口から扉を介して続くのは、巨大な広間だった。ただ、広さ自体はあるのだが、所々に氷の小山が屹立していて、人間が通り抜けるには、曲がりくねった通路でしかない。そこまでならまだいいのだが、しばらく進んだところで、一同は、うげ、と、カエルが潰れたような声を漏らした。
 やや遠くに『敵対者F.O.E.』の姿が見える。
 比較的低空を、悠々と、悠々と飛んで来るそれは、『飛来する黒影』だ。狭い一定範囲を、円を描いて飛び、おそらくは縄張りを見張っている。
 第三階層高層の『敵対者』を、探索班達は倒すことができるようになっていた。が、現在の鍛錬班ではとても無理だ。しかも、改めて周囲を見回すと、見える範囲に限っても三体いる。
「あれは、ちょっと……まずいわね」
 オルセルタの顔にも焦燥が浮かんでいた。ダークハンターの隣では、巫医の娘が、同じように『黒影』を眺め、はぁ、と口惜しそうに息を吐いた。
 無策で進めば、追われて殺されるだけだ。一行は速やかに道を戻ると、扉から脱出し、狭い道に戻る。
 簡単な野営の支度の後、作戦会議が始まった。
「奴らがこっち向いてないときに、こっそり抜けますか?」
 というヴェネスの提案は、悪くはない。だが、うまくいくのだろうか。しばらく磁軸計とにらみ合いながら、機を計ってみたが、どうも成功図が描けない。『黒影』達は、一度敵を発見すると、可能な限りどこまでも追ってくる。それが複数である。危険度は極めて大きい。
 そんな危険を冒して先に進む必要はないのだ。目的は鍛錬であるがゆえに。
 しかし、理性を、好奇心と情熱が覆した。起爆剤となったのは、フィプトの言葉だった。
「できれば、先に進みたいです。ある程度でも先の地図ができていれば、探索班も復帰しやすいでしょうし――何より、小生自身が先を見てみたい」
 できれば、という冠言葉が付随するとおり、無理をする気はなかった。それでも、触発された一同は、どうにかして先に進む手段はないかと考え始めた。フィプトの言葉は全員の内心でもあったのだ。探索班の復帰が容易いように、先を確認したい、という思いは真実であり――だが、それ以上に、自分達が探索班とならなければ踏むことのできない、『ウルスラグナ』の未知たる地への第一歩を、自らの足で刻印したい、という強い思いも、事実に違いなかった。
「まあ、この広場での鍛錬は、諦めるしかないわねぇ」
 マルメリが、アンジュからもらったポーチの中身を吟味しつつ、溜息を吐いた。普通の魔物と戦っているところに、『黒影』の猛威に晒されては、生命がいくつあっても足りない。獣避けの鈴を大量にもらえたのは、最初こそ微妙に思ったが、結果として助かったところだ。
 ふと、吟遊詩人の、ポーチをまさぐる手が止まった。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-59

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