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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・57

「あら、なんでそんなに嬉しそうなのよ?」
 オルセルタがからかうように問いかけた。が、実のところ見当は付いている。ナジクとヴェネスのやりとりに、まだ幼い頃の自分と兄のやりとりを思い出したのだ。物事がうまくいかなかった時でも、「次、またがんばれよ」と励ましてもらえるのが、どれだけ励みになったか。
 しかし、予想とは逆に、ヴェネスの表情は、みるみる暗くなっていく。オルセルタは慌てて取り繕おうとした。
「ごめん、ごめんなさい、余計な詮索だったかしら?」
「あ、いえ、すみません。うまく言えないけど、いろいろなことを思い出しちゃって……」
 弾が当たらなかった理由を指摘された直後に戻ってしまったヴェネス。
 オルセルタはどうしたらいいのか困り果てて、ヴェネスから目を逸らした。左腕、服の袖が裂かれてしまったところ――先程エリマキトカゲから受けた傷に視線を落としたのは、ただ目を逸らすだけでは落ち着かず、視線を余所に移す格好の理由を求めたからかもしれなかった。
 が、次の瞬間、オルセルタは思わず声を上げた。
 何事かと注目する仲間達に、腕をまくり、傷口を見せて興奮する。
「治ってるわ! メディカも塗ってないのに!」
 驚くのも当然だった。確かに、大した傷ではなかっただろう。だが、この短時間なら、生々しい赤色のかさぶたくらいは残っているのが当然だ。それが、ない。周辺の皮膚より薄い色の、楔形の引きつれだけが、傷があった痕跡を示す。生物には自己治癒力があるが、それにしても治りが早すぎである。
 実は、今が初めての現象ではない。エトリアでの冒険の頃、マルメリ達、世界樹を探索するバードの中には、肉体を活賦する『癒しの子守唄』という呪歌を会得したものがいた。それは冒険者達の肉体に何らかの働きかけを行い、自己治癒力を引き上げるものだった。その力を受けたときも、傷の治りが異常に早かった。精神力を活賦する『安らぎの子守唄』と共に、樹海迷宮の中、かつ、戦意が高揚しているときでないと、ただの子守唄でしかないという欠点があったが、その不便さを差し引いても絶大な助けだったことは確かだ。
 とはいえ、今回の治癒は、バードの歌の仕業ではない。マルメリは同行していないし、それ以前の理由があった――エトリアで冒険者の守護を果たした二種類の子守唄は、どういうわけか、ハイ・ラガードの迷宮では、何の効果も発揮しないのだった。
 では、何がオルセルタの治癒力を高めたのか。
「……そうか、私の『声』は届くんだ」
 どこか寂しげに、そうつぶやいたのは、ルーナだった。ということは、この力はドクトルマグスの領域なのだろうか。
 皆の問う表情に気が付いて、巫医の娘は、こくりと頷いた。
「皆には見えないでしょうけど、世界には『精霊』と呼ばれる存在がいるわ。……もっとも、私達がそう呼んでるだけで、実体は『気』の塊が浮遊してるだけだったりするのかもしれないけれど」
「『声』が届く、っていうことは、アナタ、その『精霊』を操れるってこと?」
「多分違うわ、ドゥアト」
 ドゥアトの問いに首を振るルーナ。余談だが、センノルレを除く『ウルスラグナ』の皆が、緑髪の呪術師のことを『母』を意味する名で呼ぶのに、どういうわけか巫医の娘は呼び捨てる。
「『声』って言っても、音声じゃなくて、気持ちね。力を貸して、って思うと、自然に『精霊』は集まってくる。でも、何かをさせようとしても、私にもできないわ。――私の『声』に応じて集まってくる『精霊』は、火にも氷にも雷にもなりきれてない、弱くて中途半端な『気』なの」
「じゃあ、私の傷を治したのは……?」
「弱い『気』は強い『気』に引かれるわ。人間の強い感情、例えば戦いの時の高揚した気分にね。引かれて、人間に群がって、その中に吸収されて、『内なる気オド』の一部となる。そのために自己治癒力が活性化した……理屈としてはそういうことだと思う」
 そんな説明を受けて、オルセルタやドゥアトは、第二階層に踏み込んだときの違和感の正体を見当づけた。それは、ルーナの力に呼応して集まった『精霊』――弱い『気』だったのではないだろうか。
「ボクには、にわかに信じがたい話なんですけど……」
 控えめに、ヴェネスが口を挟んだ。ルーナの話の最中、しきりに視線を彷徨わせていたのは、『精霊』を見ようとしていたのだろう。残念ながら叶わなかったようである。
「どっちにしても、ルーナさんがいれば戦闘中に傷が治りやすくなるってわけですね。鍛錬が楽になりそうで、ありがたい話です」
「それが、そうもいきそうにないわねぇ」
 くすくすくす、とルーナは意地悪く笑う。
「この樹海の『精霊』や『気』は、どうも弱っていってるみたい。今はまだ、あまり意識するほどのものでもないけど、エトリアの樹海に比べると、かなり力が弱いわ。精霊を呼ぶ力をもっと鍛えるとしても、本当に少しずつ傷を治す程度にしかならないかもしれない」
「そうですか……」
 ヴェネスはがっかりしたようだが、ほんの少し落ち込んだ後は、「まあ、仕方ないですね」と明るく微笑んだ。ルーナに、気に病むことはない、と伝える意志もあるのだろうが、基本的に、使えない物をどうこう言っても仕方がないと割り切る性格なのだろう。
 逆に、ドゥアトは未練たらたらのようだった。「しょうがないかもしれないけど、ホント残念ねぇ」と、笑いながらも嘆いている。むろん、過度な期待をルーナに押しつけるつもりはないようだったが。
 一方、オルセルタは、背筋の凍るような思いをしていた。ただし、ルーナの力に関する不満ではなく、別件で。
「……オル」
 自分を短く呼ぶ声に振り向いた。レンジャーの青年が、危機を自覚した鋭い瞳を、ダークハンターの娘に向けてきている。
 ナジクも気が付いているのだ。
 他の三人は、『例の件』をよく知らないから、わかるまい。
 奇妙に立ち枯れた、灰色の木々のことを。
 今のところ、薬泉院の院長からの経過連絡は来ていないから、現状は判らない。ノースアカデメイアにサンプルを送って検証を頼んでいるらしいが、返事はまだのようだ。何を検証しているのか、と、昨日入院していた探索班達が戯れに院長に問うたところ、どうやら、薬剤の完成次第の使用許可を求めているようだ。なんで許可などいるのか、と素人は思うのだが、薬は裏を返せば毒である、環境への影響の恐れがあるため、過度な薬剤使用は禁ずる、というのが、アカデメイアの方針らしい。世界樹の迷宮の生態系はアカデメイアにとっても貴重なデータ、それを崩しかねない決定は極力避けたいと見える。
 人間の都合はさておき、今、迷宮は――迷宮の礎である世界樹は、弱まっているのではないか。
 数千年前から営々と営みを続け、自分の生存だけではなく、大地の汚染の浄化をも引き受けた、世界樹の一柱(と思われるもの)。役目が終わったからなのか、単純に時に耐えられなくなりつつあるのか、その身に数多の虚穴を抱え、枯れゆき始めている。それでも、新たな生命の苗床となりつつある姿は、死ではなく継承を印象づけられるものだった。
 あの灰色の木々は違う。あれらの印象は、滅びと虚無だ。もしも、あの症状が世界樹全体に広がったら、ハイ・ラガードの民に敬意を抱かれるこの巨木は、冷たく脆い廃墟と化すのではなかろうか。そのような病を抱え、自力で治せなくなっているのが、この偉大な木の衰弱を顕著に表しているのではないだろうか。そして、樹海内の『気』の弱まりも、そこに起因するのではないか……。
「あの、どうかしましたか?」
 声を上げたヴェネスを始めとする、心配そうに先輩を見やる新人達に、オルセルタは肩をすくめて返した。
「大したことじゃないわ。でも、世界樹も相当古いから、弱り始めてるのかな、って、そう思っただけ」
 一冒険者たる『ウルスラグナ』に何かができるわけでもない。オルセルタとナジクは、そう考えて、考察を打ち切った。
 しかし、ナジクはともかくとして、オルセルタは、やはり気が気でならなかった。後輩達の手前、不安の素振りを見せないように努力したものの、頭の中は、かの灰色の立ち枯れだらけの森のようだった。とうとう、気丈なふりをした仮面が剥がれ掛けたときに、辛うじてそれを取り落とさずに済む方法を発見した。
 ――鍛錬が一段落付いたら、薬泉院に行って、あの灰色の木のことがどうなってるか、ちゃんと聞いてみよう。
 些細な決心だったが、方針が定まったことで、心に落ち着きが出てきた。思考の中に根を張っていた灰色の木々は、それが嘘だったかのように、次々に新芽を付け、鮮やかな若葉を広げ始めた。ゆえにオルセルタは、その日の鍛錬を破綻なくやり遂げて、仲間と共に街に帰還できたのだった。

 偶然とは皮肉なものである。
 オルセルタの決心は、彼女自身が出向く前に、先方からやってきたのだ。
 ただ、その日は別件で重大事が起きてしまい、立ち枯れの森どころではなくなってしまったのだが。

 王虎ノ月二十二日――新人達の鍛錬に付き合い始めてから六日目。
 数値で見ると決して長期間ではないが、冒険者が力を付けるには十分な時間だった。
 先輩達に守られてとはいえ、生死の境という細い足場キャットウォークを、足を踏み外さないように駆ける、そのような毎日である。新人達は自らの役目を悟り、あるいは自ら決定づけ、新たな技能を覚えたり、既知の技能を樹海探索用に改良したりして、環境に対応した。
 ルーナは前衛に立つようになった。パラディンやソードマンに匹敵するとまではいかないが、それに次ぐ程の戦闘技術の向上を見せている。とはいえ、その戦法は守りを志しているようで、技を見ると、巫医達の戦闘技術である巫剣は最低限しか訓練せず、ヒーリングを初めとした巫術への偏重が明らかであった。実際、『ウルスラグナ』がルーナに望んだ主な役目は、アベイに代わる回復役だったから、この傾向は間違っていない。
 ヴェネスは攻撃一辺倒で技を磨いていた。最初の鍛錬時に仲間達を悩ませた、命中率の低さは、精密射撃に重きを置くことで解決した。精神力の消耗は激しいが、絶対命中の技能を手に入れることで、一端の攻撃主としての立場を盤石としたのである。他の技を使う時や通常攻撃時の命中率については、相変わらずだったが、それも成長に付随して改善の兆しを見せ始めていた。
 先輩達にしても、成長の早さとしては、新人達には遠く及ばないが、付き合ったなりの経験を積んでいる。
 三日目からは第三階層低層を舞台として鍛錬を続け、満足する成果を得ていた。そろそろ、第三階層高層に踏み込んでも、普通の魔物相手ならば後れを取ることもないだろう。
 一方、かつて『エスバット』と相対峙した者達も、回復の予兆を感じていた。身体の痛みも柔らぎ、発作の間隔も長くなりつつある。該当の五人全員で探索の最先端に戻るには、まだ不安も否めないが、復帰の日も遠くはあるまい。
 そんな状況の中、『ウルスラグナ』は、この日を迎えたのであった。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-57

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