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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・45

 ……死んだはずの聖騎士の姿を見た気がする。
 黄金の花の色をした髪と、深い空の色をした瞳の。
 迎えなのか、と思ったことは否めない。だが、それは変だ。かの者が神を信じているとは聞いたことがなかったが、仮に信じていたとしても、その神は大地母神バルテムの一族ではないはずだ。ならば、大地母神の信徒である自分の迎えとして現れるはずがない。
 ということは、死に際に見るただの幻覚か。
 なんでだよ、と苦笑気味に思う。オレはその気はないんだぞ。自分は妻持ち、だったらこういう場合は妻の面影を見るのが定番じゃないのか。戦闘中に倒れたときは、仲間の無事を願うことで頭がいっぱいだったから、仕方がないにしても。
 いずれにしても、意味のある思考を巡らせられたのは、客観的な時間としては、ほんの一瞬だった。肉体を寸分と残さず刻みつくすがごとき痛みは、精神すらその凶刃の下に切り刻み、思考を細かく寸断する。結合力を失った諸事は、暗黒の中に沈められ。
 後に残るのは、ただ、無のみ。

 己の裡にて轟く異音だけを聞いていた耳が、その雑音の中に、意味のありそうな言葉を見つけ出す。
 そういえば、この轟きからして、自分はいつから聞いていたのか。それを突き止めるのは、朝の覚醒がいつから始まったのかを知るに似た徒労だろう。だからその件について考えることは早々に諦めた。
 だるい。もっと寝かせろ。いっそ永遠にでもいい。本当は声に応えたくなどないのだ。だというのに、心の奥底にある理性が、起きろ、とざわめく。
 わかったよ。少しだけ付き合ってやる。
 そう思って、薄目を開けた。本来なら、えいや、と、思い切って目を開けるところだったが、外から入ってきた光が、思いの外に目を刺したのだ。
 狭まった視界の中に、人影が見える。
 自分をのぞき込んでいるようだが、逆光になっていて、目鼻の造作はよくわからない。だが、そんなあやふやな光景の中にも、はっきりとわかる特徴がある。
 色をなくした世界の中の、ただひとつの、輝ける色。
 黄金の花の色をした髪が、光を照り返して輝く様。
 まさか。ほんの数分前に見たような気がする知人の姿を、思い出す。
 あいつは死んだはずだ。エトリアの執政院からもそう連絡が来た。死の瞬間を直に見たわけではないにしろ、証人もいる。だから、生きているということはあり得ないはずだ。
 そうわかっていながらも、もしかして、という思いを抱かずにはいられなかった。
 目を刺す光を我慢して、一気にまぶたを開く。色の奔流が網膜に飛び込んできて、脳を混乱させる。そんな中で、確かに見た。色彩の嵐に邪魔され、細かい造作はまだよくわからない、人影。それは、金色の髪だけではなく、深い空の色をした瞳をも持っていたのだ。
 冷静に考えれば、金髪碧眼の人物など、ごまんといる。
 けれど、その時は心が高揚して、彼を二度と死の世界に落とすまい、と、手を伸ばした。
 そこで、意識がはっきりと覚醒した。

 それは細い腕だった。もう少し力を込めれば、ぽきりと折れてしまいそうだった。その細さと、象牙の色に似た肌が、妻を思い起こさせる。
 ひょっとしたら、金髪碧眼なのはただの見間違いで、人影はセンノルレだったのだろうか。
 そう思ったエルナクハは、しかし、時を置かずして、誤りに気が付いた。
 目を刺すほどにまぶしく感じられた光は、窓もないその室内をかすかに照らすカンテラのそれ。そんな光の中でも、その人物が確かに金髪碧眼で、どう見てもセンノルレではないとわかる。かといって、もう一人の錬金術師でもなかった。
緩やかに波打つ髪は長く、側頭部の髪は、いわゆる『縦ロール』と言わしむ、縦巻きにされた髪型となり、肩口から身体の前方に下げられているようだった。『ようだった』というのは、その人物がケープを着用していて、縦巻きの髪はその陰に見え隠れしていたからだ。濃赤色のケープと、同じ色のカートルワンピースは、ついさっき(とエルナクハには思える程度の過去に)見た者を思わせた――アーテリンデの被服によく似ている。さらに言うなれば、以前出会った、ウェストリという名の女巫医にも似ている。彼女達のように三角帽子はかぶっていないが、おそらく脱いでいるだけだろう。
 彼女は紛うことなきドクトルマグスだ。見知らぬ彼女が何故、エルナクハの傍にいるのかは、わからないが。
「……そろそろ、離してくれる?」
 その少女――と言える年齢に見えた――が、ぼそりとつぶやいたので、エルナクハは慌てて手を離した。そんな簡易な動作を行っただけだというのに、身体の内側が、ひびが入ったかのように、ぴしぴしと痛んだ。
 耐えられないほどではないが、不快感にエルナクハが眉根をしかめると、少女は心配そうにまたたいた。その様に、何故か、金髪碧眼の聖騎士の姿を重ねてしまい、今度は胸のどこかが痛んだ。よく似ている。ひょっとしたら姉や妹だったりするのだろうか。パラス以外に年の近い女性の親族がいるとは聞いたことがないのだが。
「オマエ、誰だ?」
 不躾を承知で問いかける。巫医の少女は返答を拒否しなかった。
「ルーナ。そう呼んで、『ウルスラグナ』のエルナクハ」
「オレを知ってんのか?」
 その問いは愚かだったかもしれない。今や樹海探索の最先を往くギルドのひとつとして、『ウルスラグナ』の名は『エスバット』と並び称されるほどになっている。そのギルドマスターであり、黒い肌の聖騎士として目立つ、エルナクハのことを、知っている者がいても不思議ではない。
 少女は少し寂しげな表情を浮かべると、続けてつぶやいた。
「ええ、『ウルスラグナ』のことは、よく知ってるわ。エトリアの頃からね」
 それでエルナクハは合点がいった。彼女は以前エトリアにいたのだ。住人としてか、冒険者としてか、はたまた観光客としてかは、知り得るところではないが。ともかくも納得してしまったために、それ以上の言及を必要としなかった。――後になって考えれば、このときにさらに問いつめれば、いろいろなことがわかったはずなのだが、それはまた別の話である。
「そか。……で、その姿は、ドクトルマグスだろ。冒険者なのか? それがどうして――」
 こんなところにいるのか、と続けようとしたのだが、それは叶わなかった。
 こつこつ、と扉を叩く音が耳に届いたからである。
 返答をする前に扉が開いた。入室してきたのは、ツキモリ医師と、もう一人、見知らぬ少年であった。
 思わず少年の方に目が向く。どこかの制服のように見える、折り目正しい深緑の服を着用した彼は、ちょうど、子供から大人の男へと変貌する過渡期のような、無邪気さと決意が同居した顔立ちをしていた。まだ若干子供の方に傾いて見えるのは、大人の男にしては低いと言える背丈ゆえか。ルーナと名乗った少女とほぼ同じだけの高さしかない。『ウルスラグナ』の女性陣と比較しても、パラス以外の皆とほぼ同じではなかろうか。ましてエルナクハと比すれば、少年の頭は聖騎士の胸元あたりにしか届かないだろう。
 それ以上に思考を巡らせようとしたところで、ツキモリ医師の言葉が耳に届いた。
「……よかった、気が付いたようですね」
「ああ。……世話掛けたな、ツキモリセンセイ」
「いえ、冒険者の皆様の治療を行うのは、僕たちの仕事であり、理念ですから」
 穏やかな笑みを浮かべたツキモリ医師は、エルナクハが一番問いたいことを敏感に察したか、その答えを口にする。
「他の皆さんも無事ですよ。ただ、いろいろと治療が必要でしたので、皆さん、別々の病室にいていただいていますけど」
 言われて気が付いた。自分が収容されているこの部屋は、いつもの病室ではない。ギルドの数人が怪我を負ったときに放り込まれる団体部屋でもなく、キマイラと戦った後のフィプトや海難事故にあったドゥアトが収容されたような個室でもなく――薬泉院の奥にあるという、集中治療室、その一室。地下の霊安室モルグを除けば、最も死神のかいなに近い部屋。
「そんなにも――」
 自分達は、深く傷ついていたのか。
 ふと、気が付いた。ツキモリの左頬が、皮膚の色ではあり得ない紫色に染まっていることに。治安の悪い区域に迷い込み、柄のよくない輩に殴られでもしたような。否、殴ったのは……。
「迷惑、ずいぶんかけちまったようだな」
 深々と頭を下げる。目覚める前の、記憶が断絶した時間の中、何かと戦っていた気がする。全身を襲う激痛から逃れるために。
「いや、なかなか効きましたよ、エルナクハさんのパンチは」
 はは、と笑いながらツキモリは応じた。何もなかった、と答えたところで納得されるはずがなく、しかし医師である彼としては『恐縮されることなどないこと』ゆえに、そのような冗談めいた物言いをしたのだろう。
 とはいえ『ウルスラグナ』は冒険者で、戦闘能力の低いメディック達に押さえ込める相手ではない、本来は。弱っていなければ、青痣では済まなかったはずだ。そう気が付いたエルナクハとしては、ただただ感謝の一言以外に浮かぶ言葉がなかった。
 彼ら薬泉院のメディック達のおかげで、この世に留まれた。
 仲間を生かせるなら、自分の命を踏み台にされることも厭わなかった。とはいっても、生きて戻れたのは純粋にうれしい。妻や、まだ見ぬ子を、この世界に置き去りにせずに済んでよかった。
 ……だが、ライシュッツによってこの身に撃ち込まれた麻薬が、この程度で暴虐を潜めるだろうか。いや、正確に言うなら、薬ではなく、もたらされた快楽に味を占めた自身の肉体そのものが暴れるわけだが。
 先のことを考えて暗鬱たる思いに苛まされるエルナクハに、ツキモリが声を掛けた。
 隣にたたずむ少年を、少しだけ聖騎士の方に押し出して。
「紹介します、エルナクハさん。この少年と、そちらの少女が、あなた方の生命の恩人になります」

High Lagaard "Verethraghna" 3a-45

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