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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・42

 アベイの目の前の雪上が赤く染まっている。彼は麻薬の毒性そのものに耐えられなかったらしい。断続的な咳と共に、新たな血を吐き出し続けるメディックの青年。だが彼は、それでも、向けられたまなざしに笑んで応えたのだ。
「すぐ、治療するから、待ってろ……!」
「てめぇを優先しやがれ!」
 アベイは仲間達を見回し、自分以外に危急の者がいないと見て取ると、忠告を無視し、味方の体力を一度に回復する薬の調合を始めたのである。毒に冒された自分の治療は後回しでいい、と言わんばかりに。
 感情を極力廃して考えるなら、アベイの行動は決して間違いではない。麻薬の効果ばかりに目が向きがちだが、それが撃ち込まれた際に負った銃創も、軽視できないほどに冒険者達の体力を削り取っていた。この傷を癒しきる前に、また冒険者全員を一度に狙う銃撃を放たれたら、その瞬間が五人全員の命日になりかねないのだから。
 とはいえ、アベイが受けた毒を放ってはおけない。もちろん、他の者達が受けた状態異常もだ。問題は、アベイ自身の治癒能力も、ハイ・ラガードで出回っている薬も、味方全員の状態異常を一気に回復させるほどの力を、まだ持たない、ということ。結局は、一人分の状態異常を回復する薬を、それぞれが服用するしかないのだが――アベイは治癒専念のため、エルナクハは防御優先のため、眠っているパラスを除いた二人に駆け回ってもらうしかない。
「……ティレン、ユースケに、薬、飲ませてやってくれ」
「ん」
 エルナクハは手持ちの状態異常回復薬テリアカβをティレンに持たせた。ソードマンの少年の手にしかと持たせるまでには、震える手が邪魔して、いささか苦労したが。薬は皆が一本ずつ持っていたが、ティレンの持ち分は後でティレン自身に使わせる必要がある。
 ところで、視力を失っているティレンではあったが、先にも記したとおり、彼を含めた大抵の冒険者は気配を読む術を心得ている。同等以上の相手とやり合うには心許ないが、移動しない味方の下に到達する程度なら、動転パニックを収めたティレンには、さほど難しい話ではないだろう。テリアカβを受け取ったティレンは、麻薬の影響下であるためだろう、つたない足取りで、それでも間違いなくアベイの下に向かった。
 それを見送り、正面に視線を向け直す。耳にはライシュッツが弾込めをする音が届き、神経に障る。
「……ほのか」
 呼びかけた先には、身の裡の衝動を抑えるように身体を縮めながら、自分の持ち分のテリアカβを飲もうとしている、ブシドーの娘がいる。
「一発分、来たら耐えてくれ」
「……わかりましたえ」
 通じたはずだ。パラディンは、これまで守っていた前衛をではなく、後衛を守ることにしたのだ。今、回復の要であるアベイを狙われたら厳しい。もしも次弾が単体攻撃で、前衛を狙ったものだったら、無為な行動になってしまうが、仕方がない。
 エルナクハは敵陣に視線を向けたまま、じりじりと下がり始めた。身の裡から己を叩く感覚と、静かな戦いを繰り広げながら。
 途中、霧となった薬剤を浴び、先ほど受けた銃撃の傷が癒されるのを感じた。だが、完全ではない。先程受けた銃弾、それがまとっていた雷で受けたダメージが消えていない。さらに、麻薬による感覚が軽減されることは、残念ながら、やはり望めなかった。
 それと同時に、次弾充填を終えたライシュッツが、黄金の銃を冒険者たちに向ける。
 悪ぃ、頼むぜ――前衛に向けて、内心で祈りめいた謝罪を繰り返していたエルナクハは、しかし、次の瞬間、己の推測が大いに外れたことを悟った。
 銃声は五連――全員を狙ったものだったのだ。
 後衛の方に飛来する弾は、どうにか盾で遮れた。弾道を反らされた弾は、それでもアベイやパラスをかすっていくが、まともに食らうよりは遙かにましなのである、許容してもらうしかない。
 しかし、なんとかアベイにテリアカβを飲ませ、前線に戻ってくる途中のティレンと、飲もうとした薬を取り落として愕然としていた焔華、その二人を守ることはできなかった。彼らは彼らでどうにか身をひねり、急所への直撃を避けたことだけが、救いであった。
 何よりも、最大の問題は、自分自身を守れなかったことだった。
 エルナクハは右腿に灼熱の感覚を得た。それは一瞬、麻薬による『快感』すら忘れさせる程の激痛を身に奔らせると、鼓動のような疼きを残す。腿には太い血管がある。おそらく、それを貫かれたのだろう。
 行動の激しい場所ゆえに鎧は薄いが、普段通りなら、むざむざ狙わせる場所ではない。癒えきらなかったダメージと麻薬の効果で、身体がうまく動かず、逸らしきれなかったのだ。
「ナック!!」
 背後にメディックの叫び声を聞きながら、パラディンは雪上に崩れ落ちた。
 腿の銃創から、形も残らぬ程に混ぜ合わされた内臓までが血と共に流れ出していくような感覚がした。視界がすうっと暗くなり、身体が冷えて、雪と同化していくような気がした。
 以前にも何度か経験がある。死にゆく感覚だ。
 自分はここでたおれるのか。
 期待はしている。仲間の誰かが適切な治療をして、流れゆく血を止め、自分を絶命の淵から引き上げてくれることを。事実、これまでにも幾度も目前に開いた死の運命の虚穴にはまりこんできたが、仲間によって助けられてきた。だから今まで、しかと立ってこられたのだ。とはいえ、今回も仲間の助けが間に合うかどうか、それは神のみぞ知ることである。
我が、神々よオン テムリ アデム……」
 自分にすら聞こえないほどにかすれた声で、黒肌のパラディンは己の神々に祈る。自分が今回も、生死の狭間を隔つ薄膜を掴み、生者の側に這い上がれることを。だがそれ以上に、自分という守りをなくした仲間たちが、自分の生命を踏み台にしてでもいいから、この危地を切り抜けられることを。
 赤く濡れた雪を握りしめようとした指は、もはや動かなかった。

 パラスが目を覚ましたのは、焼け付くような衝撃を身体のどこかに感じたからだった。
 自分は眠っていたようだ。戦闘中に何をしてるのか、と自身を叱咤するが、おそらく、意識を失う直前に受けた弾丸、それに催眠剤か何かが含まれていたらしい、と結論した。
 ……のだが、その結論は早々に覆された。
 全身が疼き始めた。傷の痛みにではなく、正体不明の快感で。それは、気を抜けば、戦闘中にもかかわらず、すべてを放棄して、身を委ねたくなるような感覚。逆らうには、強大な圧力を感じる。
 どうやら、弾丸は催眠剤ではなく、催淫剤か麻薬の類だったようだ。
 ともかく、このままでいるわけにはいかない。巫医は倒したが、銃士は健在なはずだ。力を殺ぎ、腕を封じなければ、仲間に大きな被害が出る。
 だが、快楽に喘ぎながらも、それに逆らって身を起こしたとき、パラスは、自分の覚醒がすでに遅かったことを知ったのである。
 エルナクハが力なく倒れている。アベイが懸命に手当をしているが、雪上に広がった、目の覚めるように赤い色を見るに、その努力が報われるのかどうか、わからない。そもそも、アベイ自身の白衣も、自分が血を吐いたかのように染まっているのだ。何があったのだろう。
 他の二人は無事なよう……に見えて、何か不都合があるようだ。テリアカβの瓶をくわえ、中身を飲み干している。
 不都合――考えるまでもなかった。催淫剤か麻薬、その弾丸を受けたのは、自分だけではなかったのだ。
 無意識に銃創をなぞる。たった今受けた傷。意識を失う前に受けて、アベイの薬のおかげで塞がりつつある傷。すべて、まともに受けていたら、パラスの生命の一つや二つは簡単に吹き飛ばすものだった。そうならなかったのは、もちろんメディックの治療のおかげでもあるが、何よりも、パラディンが盾をもって守ってくれていたからこそだ。
 そのエルナクハが、倒れている。アベイが力を尽くしているのだから、まだ生命の火は尽きていないのだろうが。それでも、パーティの支柱として常にどっしりと構えていた聖騎士の、変わり果てた姿は、パラスに衝撃を与えてあまりある光景だった。
 口から叫びが飛び出しかかる。――否、、そんな醜態をさらす前に、なすべきことがある。
 私はカースメーカー、怨と闇をまとい、恐怖と死をもたらす者。それが、仲間を襲う死の前に屈して、どうするのか!
 呪をまとう少女は、身体を貫く震えに耐えながらも、ゆっくり立ち上がった。脳の頂点から足先までを犯す、電流のような快楽は、パラスを容赦なく引き倒し、雪上で打ち震えるだけの肉人形にしようとする。が、カースメーカーの精神はその誘惑にも似た衝動に屈しようとはしなかった。
 どうにかテリアカβを服用し、視力や体の自由を取り戻した前衛の二人が、何をしているのか、と言いたげに視線を向ける。後衛のパラスが前列に出てくるなど、自殺行為以外の何物でもない。しかし、声と挙動で歩みを阻止しようとする仲間達に、かすかな笑みを向けると、パラスはさらに前へと進み出た。広げた両腕の動きに呼応して、右手に握られた鐘鈴が、ちりん、と音を立てた。口からこぼれた言葉は、呪詛ですらない。
「逃げて、逃げるのよ。ここは、私が食い止めるから」
 馬鹿な。声なき叫びが焔華とティレンから発せられる。本来ならそこにアベイが加わるはずなのだが、メディックはエルナクハの生命をつなぎ止めることに全力を傾けていて、それどころではなかった。だが、たとえ百人の友人から愚行をとがめられても――ただ一人の愛しい死した又従兄弟にとがめられたとしても、パラスはこの行為をやめようとはしなかっただろう。その意図を説明する言葉はなく、ただ、その身体が内なる衝動に耐えて震えるのに合わせ、呪鈴がちりちりと震鳴するだけ。
 いつしかパラスの心は過去に飛び、その中では、ライシュッツも、仲間も、本来の形を失った。ただ、前に敵を、後に守るべきものを認識し、カースメーカーの少女は、もう一度静かにつぶやいた。
「ここは、おねぇちゃんが守るから」

High Lagaard "Verethraghna" 3a-42
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