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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・41

 心身共に痛めつけられ、思い出すら辱められてなお、アーテリンデは立っている。しかし、その全身はがくがくと震え、初めてまみえたときの、公国有数のギルドとしての自信にあふれた姿は、見る影もなかった。仲間を守るという義務感と、救えなかったという罪悪感との、その狭間で、それでもなお立ち塞がるというのは、驚嘆に値するだろう。
「そろそろ、やめましょうえ」
 構えた刃の先を『エスバット』からわずかにそらし、焔華がため息混じりに吐き出した。それは彼女の本心であると同時に、ブシドーとしてこれ以上の無様さを晒させたくないという『慈悲』、そして――挑発の一面も確かに持っていた。
「ぬしさんはよう戦いましたわ。しやけど、これ以上、わちらと渡り合えると思っておりますのん?」
「思ってなくても……!」
 驚くべきことに、アーテリンデはなおも杖剣を構える。
「お嬢!」
 ライシュッツの制止も聞かず、攻撃に転じた巫医だったが、しかし、己自身の罪悪感に封じられた腕は、動きもぎこちなく、まともに斬りつけてこられそうになかった。戦闘の最初に披露した、舞踏のような攻撃なら、足の動きを利用することで、何とか『ウルスラグナ』に一矢報いることができたかもしれない。だが、巫医の少女が選んだのは、たどたどしくも不気味な雰囲気を想起させる詠唱を伴う、巫剣の攻撃だった。震える腕では、まともな攻撃になりはしないというのに。
 焔華は、初陣の子供のような攻撃を易々と回避すると、その名が意味する『炎の花』のような笑みを浮かべた。
「楽しゅうございました。思えばわちは、ぬしさんらと初めて会ったときから、戦ってみたかったんですわ」
 アーテリンデに向けたのは、鋭いカタナの刃――ではなく、その柄。鳩尾みぞおちを狙うその攻撃を、巫医の少女はかわしきれなかった。かすかにうめき、力の抜けた体を雪上に倒しかける。それを焔華が受け止め、手早く後列へ引きずり込んだ。
 エルナクハはその様を見届けると、忌々しげな表情を浮かべたライシュッツに相対峙した。パラスに氷の弾丸を放った後、新たな弾丸の装填をしていたため、アーテリンデの窮状を救うのには間に合わなかったと見える。それが銃の弱点のひとつだ。前時代の同種はその弱点を克服していたのかもしれないが、現代の銃は、弾丸の装填に時間がかかり、挙動が遅れる。
「ジイサン! あんたのお嬢はこのとおり、だ。そろそろ降参しねぇか?」
 だが、その申し出は受け入れられない。そんな気がしていた。
 アーテリンデの狂気にも近い様相に、目を奪われがちではあったが、ライシュッツとて、かつての仲間を害しようとする者に対する敵意は同じはずだ。
 アーテリンデを人質に取る――そんな考えもあるかもしれない。が、それは無駄だろうとエルナクハは思っていた。『ウルスラグナ』がアーテリンデを殺せないことを、ライシュッツは見抜いている。人質は生きていてこそ価値のあるもの、殺したら降伏勧告の意味もなくなる。そして、命を奪うという脅しが無効ならば、ライシュッツが勧告に応じる理由もない。
 『ウルスラグナ』が『エスバット』では止められないことを完全に見せつけなければ、その敵意が折れることはあるまい。結局は、戦闘を続行するしかないのだ。
 やれやれ、とため息を吐きかけたパラディンだったが、ソードマンの少年が、かすかに反応したのに気が付いた。どうした、と問うまでもない。ティレンは戦況の変化に気が付いたのだ。それも、自分達が苦境に立たされるかもしれない変化に。
 ライシュッツが、もう片方の銃を構えていたのである――あれだけアーテリンデが懇願しても使うことのなかった、黒の銃『月神サレナ』を。
 その構えに、力を弱められた影響は見られない。何度目かの力払いの呪術は、時間切れになってしまったようだ。パラスが再び呪鈴を構え、呪言をつぶやき始める中、焔華が何かに気が付いたらしい。鋭いまなざしは敵に向けたまま、味方に注意を喚起する。
「あの構え、金色のを使ってるときに比べると、ちと荒く見えますえ」
 黄金の銃を使っていたときの銃士は、自分達まとが動くことと、力祓いの影響で結果的に狙いを定めきれなかったことがあるといえ、執拗に急所を狙っていた。それが、今回の構えは、「とりあえず当たればいい」とでも解釈するべきか。ただ、その差は微少であり、焔華のブシドーならではの観察眼と直感があったからこそ、判別できたことだろう。しかしどうして、そんな杜撰な構えなのか。殺す気で当たるなら急所狙いをやめてはいけないだろう。それとも――。
 否! 次の推測が思い浮かぶ前に、全身が総毛立った。逆転の理論だ。ライシュッツは急所を狙うのをやめたのではない。黒い銃が、急所など狙わずとも十分に危険な代物なのだ!
「逃げ――!」
 それが到底無理とわかっていても、叫ぶしかなかった。
 弾丸はまっすぐにしか飛ばない。だからこそ、これまでは銃口の向きを見て、弾が急所から外れるように動き、被害を少なくすることができたのである。しかし、急所でなくても危険すぎるなら、敢えて受けるのは愚の骨頂だ。かといって完全に避けるのは、弾丸の早さを考えると不可能に近い。自分達の回避行動と、銃の構造上の問題による『外しやすさ』が、運良くかみ合えば、それも望めるだろうが――ライシュッツほどの手練れが、後者の問題を己の腕で補えないはずはない。
 結果として、『ウルスラグナ』は誰一人として、ライシュッツの弾丸を躱すことはできなかった。黒き銃が破裂音を五度打ち鳴らし、備える三つの銃口から薄い煙をたなびかせたとき、冒険者達は、急所への命中こそ免れたものの、弾丸を飲み込んだ身体から細い血の流れを落とす。
 そう、身体は弾丸を飲み込んだのだ。これまでのように貫通はしなかった。思えば、今回の弾丸は速度が遅かった気がする。『その瞬間』は対策することで頭がいっぱいだったから気にとめられなかったが、黄金の銃から放たれた弾丸とは違い、軌跡が見えていた気がする。もちろん、避けられるほど遅いものではなかったのだが。
 速度の違いの理由はわからない。はっきりしているのは、遅さのために弾は貫通せず、体内に残っていることだった。異物感が『ウルスラグナ』達を苛み、口からうめき声をこぼさせた。
 だが、それだけで済みはしなかったのである。
「……およ……?」
 エルナクハは奇妙な感覚に気が付いた。
 それは体内に飲み込まれた弾丸から染み出し、全身に広がり、あっという間に、身体の隅々を包み込む。
 ……これは、何だ!?
 言葉にするのは難しい。だが、最も近く、最も簡単な単語で表すなら、これは『快楽』に属するものだ。それも、全身を緩やかに撫で回し、心身を天上に誘うものではない。もっと恐ろしいもの――暴力的な多幸感で身体を縛り、意識を飛ばし、よもすれば、その快楽だけを求める廃人にすらしかねないもの。
 受けた弾丸には、一種の麻薬が仕込んであったのだ!
 ライシュッツがためらうわけだ。殺すつもりでかかってきている以上、気を回す必要はないのだろうが、銃士はそれでも、死ぬ前に死より辛い目に遭わせることをためらっていたのだろう。仮に『ウルスラグナ』側が生き延びられたとしても、これだけ強い麻薬に冒された肉体は重篤な後遺症を負う恐れがある。
 だが、アーテリンデが倒され、状況が切羽詰まったことで、ライシュッツは手控えを放棄したのだ。
 という細かい推測ができたのは、後のこと。今はただ、身を襲う感覚によって我を失わないよう、理性の崖に爪を立てるしかなかった。
 麻薬といわしむものをたしなんだことぐらいはある。ただ、それは厳格な世界宗教が『麻薬』呼ばわりして禁止しているものだっただけだ。一族の宗教儀式に挑むにあたっては、人とは隔たった世界にあるという神々との交信のために、必須の薬品だったのである。それは穏やかな恍惚と浮き立つような幸福感をもたらす、悪影響を後に引くようなものではなく――今感じているような、強姦めいた感覚をもたらすものでは、決してなかった!
「みんな……大丈……夫、か……!?」
 ただそれだけの言葉を発するのも、精神世界の奈落から手招くものとの戦いに挑んでいる最中の身では、重労働に等しかった。
「エル兄……、ホノカ……姉、どこ……」
 最初に聞こえたいらえは、ティレンのものだった。
「たすけて、おれ、おかしくなりそうだ。……なにかに、のみこまれそうだ」
 おそらく『快楽』を知ったことのないだろう彼は、己の裡を荒れ狂う感覚が何か、理解できていないのだろう。ただ、気を抜けば『それ』に飲み込まれ、理性を飛ばされてしまうのは、本能的にわかっているようだった。
「落ち着け、オレは……ここだ、掴まれ」
 身を犯す疼きに耐えながら、パラディンはソードマンに右手を伸ばす。身体は思うように動かず、伸ばした腕は、時折、痙攣して伸長を止めるが、どうにかティレンの手と触れ合えるほどには伸びきった。ところが、同じように伸ばしたティレンの手は、エルナクハの手の周囲を所在なげに彷徨うだけだった。
「見えないよ、どこ? まぶしくて、なにも見えない」
「……おい……?」
 奇妙な状況の原因を、エルナクハは知った。ティレンの目――正確には瞳孔は、異常に拡大していたのだ。ベラドンナという毒草を摂取してしまったときと同じ症状、『散瞳』。それが急激に引き起こされたために、月明かりと雪明かりと照明とで確保された薄暗がりに慣れていた彼の視覚は、余計に飛び込んできた光を処理しきれなかったのである。おそらく同じような症状はエルナクハ自身にも起きているのだろうが、見えないというほどではない。症状の出方に個人差があるのだろうか。
 目が見えなくても気配くらいは読めるはずだが、動転しているのだろう。ティレンの手がいつまでも戸惑っているので、エルナクハはさらに自分の腕を伸ばして掴んだ。もっとも、自分の方は自分の方で、震えが止まらず、なかなか掴むことができなかった。
「……よかった」
 仲間がちゃんといるのを知って安堵したのだろう、ティレンの表情が緩んだ。
 だが、それが急激に固まり、見えないはずの目が動く。
 エルナクハもティレンの目線と同じ方を向いたのだが、同時に、同じ方向に盾をかざした。
 薬の効果の一側面なのだろうか、拡大された聴覚。そこに、異質な音が届いたのである。
 それは金属が触れ合う音であり、鍔鳴りの音を連続して発生させたものに似ていなくもなかった。だが、武器を納められるような状況ではなく、エルナクハ以外に鍔鳴りが発生するような武器の持ち主は焔華だけである。そして、その焔華の持つカタナは、構造上、自然に鍔鳴りが発生するような時は、整備不良を意味する。わざと鳴らすことは、その分武器の痛みを早めるため、少なくとも実戦用のカタナでは、ありえない。
 エルナクハのとっさの予測通りだった。その音は、ライシュッツが黄金の銃に弾込めをする音だったのだ。雷をまとい飛来した弾丸は盾に当たって方向をずらされ、エルナクハの肩口をかすめていく。全身を電撃が走り、麻薬によって狂わされた感覚がその痛みを増幅した。
「大丈夫、ですかえ!?」
 エルナクハの悲鳴を聞きつけたのだろう、焔華の鋭い叫びが耳に届いた。彼女自身はどのような症状に苦しんでいるのか、見ただけではわからない。散瞳の症状は現れているものの、エルナクハの方をしっかりと見据えているところを見ると、視力を失ってはいないようだった。
「ユースケ……!」
 激痛にあえぎながらも、この状況をどうにか収めてくれるはずのメディックの名を呼ばわる。食らった麻薬に彼の治療が及ぶか、心許ないところではあるが、それでも頼れるのは彼だけだ。
 後方に視線を向けたとき、まず視界に飛び込んできたのは、雪上にぐったりと倒れるパラスだった。肝が冷えたが、寝息は妙に穏やかだった。彼女の肉体は、異物からもたらされる悪影響を遮断するために、眠りに落ちることを選んだのだろう。自分が受けた影響を鑑みれば、よく眠れるものだ、と思うのだが、何かの要因で麻薬の効果の出方が緩やかなのかもしれない。
 ひとまず安心したが、戦闘中に眠られるのは困る。何とかしないとと思い、メディックに目を向けたが――状況が思ったより悪いことをエルナクハは知った。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-41
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