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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・40

 アーテリンデの巫剣は、エルナクハの渾身の防御をもってしても、完全には威力を殺しきれないものだった。盾の壁を縫って、とにかく攻撃を当てようとしてくる、巫医の危機迫る表情が、帰宅後の夢に出てきそうなほどに、目に焼き付く。
 ――帰宅後の夢、とは……とりあえず、自分は勝って帰る意志を失っていないらしい。エルナクハはそう考えて内心で苦笑した。
 もちろん、仲間達も同じ意志を共有しているようだった。アーテリンデに切り裂かれる前衛も、ライシュッツに狙い撃たれる後衛も、傷付きながら、屈せぬ意志を失っていない。霊力をまとった剣と、炎をまとったカタナ、斧の石突き、狙いがぶれながらも超速で飛ぶ弾丸、そして呪詛、それらが交差する戦場で、趨勢は、少しずつながら『ウルスラグナ』に傾き始めていた。
「……爺やぁ! どうして、どうして『月神サレナ』を撃たないのっ!?」
 何度かの斬撃の際に、アーテリンデが、血すら吐きかねない大声で、己の味方に叫んだ。
 察するに、ライシュッツが未だ攻撃に使わぬ銃――黒の銃のことを指しているらしい。おそらくは、現在の状況を一気に打破する(とアーテリンデが思っている)力が、その銃には秘められているのだろう。
 しかし、少女の願いに、ライシュッツは応じない。その表情には焦燥の色が濃く現れ、アーテリンデの懇願に全く耳を貸していないわけではないと感じられた。それでも、黒い銃を持つ手は動くことはない。
 その代わりにと言うべきなのか、黄金の銃から放たれる銃撃が激しくなった。これまでのように属性をまとったものではないが、数発が連続して射出される。だが、パラスが封じの呪言の合間に唱える力祓いの呪のおかげで、急所の狙いを外した弾丸は、致命傷にはならない。
 奇妙だ。ライシュッツは、どうして『お嬢』の切なる願いに耳を貸さないのだろう。だが、アーテリンデの様相から察するに、黒の銃、『月神サレナ』と名付けられているらしいその銃身には、決定打となる威力が秘められているのだろう。使えばいいのだ。『ウルスラグナ』としては困りどころだが、『エスバット』の立場からすれば使うのは当然だろう。
 なのに、魔弾の射手はそうしない。黄金の銃だけで充分だ、と言わんばかりに。舐められているのか、とも考えられるが、それも違うようだ。ライシュッツの表情は真剣そのもの、本気でないとは考えられなかった。間違いなく『ウルスラグナ』を殺す気でかかってきてはいる。
 おそらくだが、黒い銃の攻撃には、威力と引き替えの不都合があるのだろう。ライシュッツに、みだりな使用を躊躇わせるだけの何かが。
「どうして、どうして、どうして! 『夢想トロイメライ』ばかり使って……姉さまを守るんじゃなかったの!?」
 狂乱したアーテリンデの感情に呼応するかのように、杖剣がまとう霊力も、禍々しいほどに増大している。物語の一節のような言葉の連なりと共に、激情を叩きつけるかの勢いで、斬撃を浴びせかけてくる。
 十数合の打ち合いが続き、両者共に疲弊の色が見えてきた。『エスバット』は体力的な問題が、『ウルスラグナ』には、主に精神力的な問題が。
 アベイが、とろんとした疲れ切った眼差しで、それでもなお、懸命に薬の調合を続けていたが、苛立たしげに、出来かけの薬を雪上にぶちまけた。精神疲労のせいで調合を間違えたのだ。大きく溜息を吐くと、医療鞄の中からアムリタの瓶を取り出し、一気にあおる。
 他の仲間達にしても、似たようなものだった。これまでに用意できたアムリタは、果たして足りるだろうか。『エスバット』の抵抗は、まだまだ続きそうなのだ。
 しかも、状況が変わりつつあった。アーテリンデが、これまでのものとは様子の違う詠唱を開始したのである。
「おゝこの野の花は――」(*)
 これまでの詠唱がいずれも不気味な情景を思わせるものだったことに反して、今回のものは、麗しき花咲き誇る、風吹く丘陵で、諸手を広げて宣言する様を想起させた。しかし、その一瞬の幻覚が破れたとき、『ウルスラグナ』は、アーテリンデの空いた手に、霊気の輝きを見た。それは言葉の一言一句ごとに脈動し、彼女自身の身体を包み、無数の尾を曳いてライシュッツにも伸びようとしている。
 対象者を包み込み癒すような、ほのかな輝き。巫術を知らずとも、判断できた。これは回復術だ、と。
 術が完成すれば、戦いはさらに長引く。しかし、止める手立てはない!
「――絵の花の如く美し――きゃあ!」(*)
 詠唱完成直前のアーテリンデが唐突に悲鳴を上げたのは、ティレンの攻撃ゆえだった。突き出された斧の石突きが、彼女の側頭部を捉えたのだ。
 骨も折れてしまったのかと思えるような鈍い音と共に、アーテリンデは操り人をなくした人形のように、言葉と動きを止め、雪上に倒れ込む。かに思えたが、それも束の間、雪煙と共に立ち上がった。しかし、頭部を強打された影響で、視線はおぼつかず、詠唱を紡ぐにも思考が追いついてこないのだろう、口からは荒い息が漏れるだけだった。
 反撃を警戒して離脱してきたティレンは、一息吐くと、懐からアムリタの瓶を取り出して、中身を一息に飲み下した。彼も精神力の限界だったようだ。人心地付いたティレンを、エルナクハは早口で賞賛した。
「よくやったティレン、あれ使われたらヤベぇとこだった」
「ん」
 だが、まだ問題は残っている。話をアーテリンデに絞るとしても、彼女にはまだ巫剣があるのだ。詠唱を伴うとはいえ、巫剣は、頭を封じられても使えなくなることはないらしい。
 ――巫剣の詠唱は、まあ、『気合』のようなものだから。なくても何とかなる。逆に言えば、巫剣を封じたいなら、頭ではなく腕を封じることだ。
「……任せて、今ならあの女の腕を縛れそうだから」
 つい、とパラスが進み出て、アーテリンデに歩み寄る。すかさず、ライシュッツが狙いを付けるが、彼女を狙った氷の弾丸は、力祓いによる筋力低下のせいで狙いを外し、パラスの頬をかすめていくに留まった。その痛みを感じていないのか、カースメーカーの少女は歩みを止めない。爛々と輝く瞳は、相手の弱みを見つけて舌なめずりする悪鬼のよう。パラスは今、忌まわしき呪術師としての本性を顕わにしているのだ。
 ぼやける思考で、敵の接近を辛うじて察し、杖剣を構えるアーテリンデ。
 その前で、パラスは鐘鈴を静かに鳴らす。
 可視化されたなら同心円を描いて広がっていくのであろう、澄んだ音の余韻の中で、パラスは、アーテリンデの耳に口を近づけ、そっと囁いた。
「その腕、『姉さま』に伸ばしたのよね。でも、届かなかったんでしょ。ほら、もっと遠くまで伸ばさなきゃ、『姉さま』には届かないよ」
「え……あ」
 巫医の少女は、呪詛に魅入られたかのように惚け、前に手を伸ばす。おそらく、今の彼女の前には、『姉さま』がいるのだ。その生命を失う寸前、『エスバット』の仲間達を、妹弟子を守るために、我が身を投げ出した、アーテリンデにとってはかけがえのない人が。その時、アーテリンデが手を伸ばしていたら――それは実際に動作することを必ずしも意味しないが――かの巫医の運命は別の方向に変わった可能性もあったかもしれない。
 が、パラスは、嘲笑の笑みを浮かべ、ありえたかもしれない運命の枝葉を伐り捨てたのだ。これまでとは正反対に、他の者にすら聞こえる、張り上げた言葉の刃をもって。
「でも残念、無理よ。あなたの手は動かないの。あの時も、今も。だから、あなたは『姉さま』を失ってしまったの!」
 同時に、鐘鈴が強い音を発した。
 アーテリンデの両手の甲から血が流れ始める。そこにある目の文様が血涙を流しているかのように。同時に、赤い色をした袖も、水を含んだように重くなり、赤い滴りを落とし始めた。
 それは、『あの時』、倒れた姉弟子を抱き起こしたときに付着した血に似ていた。
「あ、ああっ……あ……! 姉さま、姉さま……!!」
 腕が震える。がくがくと。その血は、姉弟子を救うことはおろか、まともな力添えすらできなかった、無力の罪そのものだ。呪詛によって引き出された罪の重さに縛られた腕は、麻痺し、随意には動かせなくなっていた。杖剣を握るのがやっと、その他はただ、重さに耐えて震えるだけ。
「お嬢様!?」
 異変に気が付いたライシュッツが呼びかけるも、アーテリンデは答えない。
 彼含めた、アーテリンデ当人以外の者には、血は見えていなかった。アーテリンデの記憶に焼き付いた血が、彼女自身に見えているだけなのだから、それも当然である。
 少なくとも、『ウルスラグナ』に理解できたのは、パラスが先の宣言通りにアーテリンデの腕を封じた、という結果であった。
 別の意志を持つように震える腕では、まともな巫剣は振るえまい。
 とはいえ、単調に杖剣を振り回す攻撃なら、できなくもなかろう。それを避ける為に巫医の攻撃圏内から離脱してきたパラスに、エルナクハは労いの言葉を掛けた。
「……よくやった、パラス。助かった」
 だが、その言葉には生彩がない。助かったのは確かだが、同時に底知れぬ恐ろしさを感じていたのだ。それは、パラスが再従兄弟の死を知り荒れたとき、彼女から感じたものに、酷似していた。他の仲間達も同じく感じたようで、浮かべた表情が曖昧だった。
 その様を見抜いたのだろう、パラスは力なく笑い、つぶやいた。
「――私たち『ナギの一族ナギ・クース』って、よく、らしくないって言われるけどね。これが本当の私たち。普通の人のように振る舞うから、人の心を効率よく弄べるの」
 泣き出しそうなのを堪えるようなその表情に、エルナクハは思い出したことがあった。最近、オルセルタが言っていたことだ。パラスの母であるドゥアトの洗濯を手伝った折に、彼女達の一族のことを聞いた、と。
 ――感情を忘れたカースメーカーが、どうやったら人の最大の搦め手――人の心を弄べるかしら? 自分が傷ついてどれだけ痛いかがわからなければ、相手に痛みを返すことも、効率よくはできない。
 ――私たちはね、感情を普通の人以上に持とうとするあまり、別の方向に弱くなってしまったの。自分の『力』が引き起こした結果を心に降り積もらせていって、そのままだと、結局は他の一族よりもはるかに早く、潰れてしまう。
 そうなのだ、アーテリンデと同じくらいに、彼女も辛いのだ。それを受け止めてやれず、何が仲間だ。
 とはいえ戦闘中だから、大したことはできない。エルナクハは、パラスの頭に手を乗せ、ほんの短い間だけ、くしゃくしゃと撫で回した。
「早く戻れよ。危ねぇぞ」
 同じことを考えたのか、焔華とティレンが、励ますかのように、パラスの背をぽんと叩く。
「……うん」
 呪術師の少女は、まだ浮かない顔をしていたが、それでも少しだけ晴れた表情で、後衛に戻っていく。迎えたアベイが彼女の額を軽く叩きながら、銃弾にかすられた傷に薬を塗るのを見た後、前衛の冒険者達は改めて敵に目を向けた。

*……有島武郎 ・『描かれた花』(青空文庫)より一部抜粋

High Lagaard "Verethraghna" 3a-40
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