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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・35

「じゃ、場所も、『氷王』の遺言の真意も、なーんもわかんねぇってことか」
「ま、そういうこったね」
 ふぁふぁふぁ、と笑うように、老婆は口を歪めた。
「……じゃあ、竜のことも、知らないわけか」
 むしろ真に訊きたいのはそちらのほうだった。
 エトリアの樹海にいた三体の恐ろしい竜。この世に『竜』の名を冠する生き物は数多存在するが、かの三竜に比すれば全てが紛い物であろう。普通の『竜』も、凡百の人間が敵う相手ではないが、三竜は桁が違う。
 伝説やおとぎ話の中では、人口に膾炙し続けた、三界の支配者達。
 その一体が、『氷王』の墓所付近にいるのかもしれないのだ。
 話を聞いた老婆は、腕を組み、むぅ、と唸りながら、言葉を続けた。
「氷竜、とはねぇ。ひょっとしたら『氷王』は、何かとんでもないことに巻き込まれてたのかもしれないね」
「とんでもねぇこと?」
 老婆への恐怖も忘れて、エルナクハは身を乗り出した。
「竜は、人に対する試練、って言い伝えが、ワシらのところにはあるのよ」
「試練?」
「そうさ、試練を越えさせることで何をさせるのか、ということは、さっぱりだがね。まあ、簡単に考えれば、『強くする』かね」
 エルナクハは二の句も継げなかった。あの三竜の強さは『相手を強くする』などというものではない。ただ殺しにかかっているだけだ。少なくとも、人間の側から見たら、理不尽の権化という以外にない。
 もっとも、三竜と戦い、生き抜くことで、自分達がさらに強くなったことも、否定できないが。あれが『試練』というなら、なんという拷問スパルタ教育だろう。
 だが、何のために、人間を強化することを望む?
 迷宮の先へ進むために強さは必要だ。エトリアでは、三竜と対峙した結果として手に入れた力で、樹海の支配者を打ち破ることができた。けれど、それが竜にとって何の意味があるのだろう?
「まあ、何にせよ、気を付けることだね。あんたの言う通り、世界樹様の中に三竜が存在するなら、いつか対峙することになるかもしれないだろうからね」
「……だな」
 エルナクハは礼を言って、踵を返した。そして考える。
 本当なら、あんな恐怖に対峙することがないほうがいい。自分だけなら、戦人として、強い相手に心躍らされるものがあることも、否定できない。仲間達も幾人かは同じかもしれないが、だからといって、対峙することが九割九分の死を意味する相手に、易々と挑むわけにもいかない。
「お待ち」
 背後からの声に振り返ると、老婆は何かを差し出している。先程見せたきりだったアウラツムだ。
「こんなところにあっても、場違いだからね。持っておかえり」
「あ、ああ、悪ぃ」
 エルナクハは頷くと、アウラツムを受け取り、部屋の前で待ち受けていた案内の少年の招きに応じて、帰還の一歩を踏み出そうとした。と。
「……やれやれ、前に来たときの方がいい男だったねぇ。今回が悪いってわけじゃないけど」
 そんな老婆のつぶやきが耳に入った。
 何のことだ、と思わずにはいられなかった。人が他人を評価することを止められるものではないが、よくない評価をあからさまに言われれば少しは腹も立つ。しかし、竜の話を終えた途端に戻ってきた、老婆に対する恐怖心が、軽い腹立ちを遙かに上回った。だからエルナクハは、反駁する気も起きず、黙って少年の後について、さっさと『呪術院』を辞することを選んだのだった。

 七代前の氷王の墓所の探索も無事終わったので、『ウルスラグナ』は、ようやく十五階へと踏み込んだ。
 この頃には、『ウルスラグナ』に比肩する冒険者達は、ほとんど存在しなかった。皆、十五階の最中で果てたのだろう。ただ一組、『ウルスラグナ』の少し前に十五階に踏み込んだギルドが、健闘しているらしい。
 ぼやぼやしていれば、そのギルドに引き離されるだろう。しかし、『ウルスラグナ』は慎重さを捨て去る気はなかった。
 『エスバット』に忠告された恐ろしいモノ――あるいは『エスバット』自身――を警戒し、探索班を組み直し、自分達のペースを崩すことなく、地図を埋めていった。
 かねてより相談していた通りに組み直された、主軸の探索班は、エルナクハ、焔華、ティレン、アベイ――そして、結局はドゥアトではなくパラスであった。得意げな娘に対し、母は少し残念そうな表情を見せたものだが、文句を言うことはなかった。
 十五階の探索を進めながら、酒場の依頼を請け、力試しに『敵対者f.o.e.』と対峙する。そんな毎日。懸念であった『飛来する黒影』を下し、復活の噂があった炎の魔人を再び打倒する。力は、確かに着実に身に付いている。
 そろそろ、先に進むペースを速めてもいいか、と思い始めた頃。
 『ウルスラグナ』と並んで十五階を探索していたギルドが壊滅したのは、王虎ノ月も三分の一を過ぎた、そんな折であった。

「……油断していたわ、どんなを使ったの!」
 『エスバット』のドクトルマグス・アーテリンデは、今までにない焦燥を顕わにしながら、膨らみかけた月の光が差し込む迷宮を急ぐ。その後方を護衛するかのように、ガンナー・ライシュッツが無言で続いた。
 十五階ともなると、世界樹を蝕む虚穴も大きく、多くなってきており、陽光や月光の差し込む度合いも、下階に比べれば遙かに強くなっている。
 それが、『エスバット』にとっては好都合だった。
 第三階層の各所にある、凍った水路が、十五階にも存在する。ほとんどの場所は昼夜問わず厚い氷に覆われているが、一部、差し込む日光のために他の場所より気温が高くなり、昼には張った氷が薄くなる場所があった。人が通れば割れ、水面下に放り込まれた者は二度と街に戻ることはできないだろう。そんな天然の罠が、奥への道を阻んでいるのである。
 だから、『エスバット』は、大事なものを守るために、夜だけ注意していればよかった。昼には樹海を脱出し、身体を休めることができた。ギルド長が自分達に不審を持っているのを感じていたから、事情を聞くという名目で拘束されることを警戒し、表の街に寄ることはなかったが、『黄昏の街』で、所属している巫医扶助会コヴェンを頼ることができたのである。
 言い換えれば、昼は油断していた。誰も先に進めない、と、高をくくっていた。
 休息から戻ってきた時、渡れなかったはずの水路の両岸に足跡を見つけてしまった時の絶望感は、どれほど言葉を費やしても表せない。
 足跡の残り具合からすれば、彼らが水路を渡ってから、数時間が経っている。『エスバット』は慌てて足跡の主を追った。
 追う、といっても、後を追ったのでは追いつけそうにない。だから、現時点では自分達がだけが知っているはずの隠し通路を使った。十四階からの上り階段の傍にある獣道から、長い凍結水路を辿ったのである。
 十五階の最奥は、大きな凍結湖である。十二階にあった湖からすれば半分ほどだが、大きいことには違いない。ただ、中央付近で東西に広がる陸地が、湖を分断しているため、さらに小さく見えることは否めなかった。
 『エスバット』は、湖の西側に回り込み、湖を分断する陸地を注視した。
 陸地の上にいくつも転がる、大きな氷塊に取り囲まれるように、『それ』はいた。
 否、『それ』を取り囲むのは、氷塊だけではなかった。冒険者が五人、雪に埋もれて倒れている。
 冒険者達の身体は、各所の関節を無視して折れ曲がっているようだった。――ただ一人だけ、片腕以外は無事な者がいたが、それ以外の四人は、確実に事切れているだろう。
 冒険者達には悪いが、『エスバット』、特にアーテリンデは、安堵の息を吐いた。だが同時に、言葉では上手く言い表せない、やるせない思いが心に満ちていく。
 我に返ったのは、新たな動きがあったからだった。
 片腕以外が無事だった者が、辛うじて立ち上がったのだ。しかし、それもやっとのこと、息は乱れ、足取りはおぼつかず、もはや戦意はなきに等しいだろう。再び倒れ伏しながらも、無事な方の腕で雪原を掻き、戦線を離脱しようとしている。その動きが、妙にぎこちない。いくら片腕以外が無事だといっても、戦による疲労もあるだろうし、見えないところに負傷しているかもしれないだろうが、どうもそれだけでは説明できない。
「どうやら、麻痺しておるようですな」
 ライシュッツが単眼鏡で現場の様子を観察し、判断を下す。「……助けますか、お嬢様?」
 とはいうものの、今から助けに行くのは無理だろう。現場に到着した頃には、終わっている。冒険者達を殺戮した『それ』は、今は、足掻く冒険者を感情の見えない瞳で眺めているだけだが、いつ攻撃を再開するか、わからない。冒険者が氷湖のほとりに転がるソリに辿り着くまで、『それ』は黙って見送るだろうか?
 案の定、『それ』が動きを見せた。強大な殺意が増大する。あまりにも強すぎて、常人では殺気が放たれていることすら気が付けないだろう。歴戦の冒険者だからこそ判るもの。
 このままでは冒険者は殺される。仲間達同様、全身を砕かれた苦悶の中で死んでいくのだ。
「爺や、楽にしてあげて!」
 反射的に叫んだアーテリンデの命に、ライシュッツは返事をしなかった。そんな必要はないのだ。ただ無言のままで、銃を構え、雪原でもがく冒険者の背に狙いを付ける。
 高らかに響いた銃の音を聞きつけた者は、人間と定義できる者の中では、『エスバット』と狙われた冒険者以外にはいなかった。十五階を探索できる者は、氷湖で壊滅したギルド以外には『ウルスラグナ』だけであったし、その『ウルスラグナ』も、この時間帯では、階を区切る厚い『地面』のその下で鍛錬を積んでいたのだから。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-35
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