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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・32

 それは、階段のある小部屋の東にある小径に踏み込み、木々の壁をしらみつぶしに調べていた時のことであった。
 手分けして通れそうな場所を探すも、普段は黙々と作業を続けるナジクでさえも眉根を寄せて首を振る程に、徒労の作業。それでも調べ続けながら、道を南下し、やがて西へと曲がる。
 このような作業をいつまで行えばいいのだろう、と思いつつも、少し拓けた場所に差し掛かる。この場所には今来た方にしか道がない。調べ尽くして何もなかったら、引き返さなくてはならない。やれやれ、と溜息が出かけた、その時だった。
「……あれ、誰だ?」
 不意にアベイが声を上げた。
 誰だ、だと? 他一同は、ぎょっとして身構えた。
 『誰か』などという代名詞で示されるような存在の気配は、全く感じなかった。ついでに言うなら『何か』さえもだが、アベイの言葉は、相手が少なくとも見た目は人間型であることを示している。
 メディックの青年が視線を向けている方に、他の者達も目を向け、そして息を呑んだ。
 それは白い人影だ。少なくとも魔物ではないのは確かだった。いささか遠いところにいるため、目鼻立ちどころか、髪型さえも判らない、茫洋としたものだった。が、人影の視線が自分達に向いていることは、どういうわけか、はっきりと判った。
 人影は、辺りの景色に溶け込むように、気配もなく冒険者達を見つめている。
 そこで、一同は背筋にそぞろ寒いものを感じた。
 どのように感覚を研ぎ澄ましても、人影からは気配を感じないのだ。
 気配が微弱なだけならわかる。たとえば第二階層に巣くっていた、カボチャの形をした魔物。あの魔物も、気配をほとんど感じさせず、磁軸計での捕捉ができない。しかし、それでも、訓練すれば、人間の感覚でその気配を捉えることは可能だった。
 だというのに、目の前の人影は何も感じさせない。文字通りの『無』だ。
 幽霊のように――とは言えない。幽霊も気配を持つ。だからこそ人間は、その気配を感じて怯えるのだから(実在の真偽はここでは置いておく)。
 敢えて何かに例えるなら、幻灯機で投影した映像のよう。されど、人影は、投影のような扁平なものとは違う気がする。
 用心しながらも、正体を確認しようと、一歩踏み出した、その時である。
 ひょう、と一陣の風が吹いた。人間や魔物に踏み固められていなかったとおぼしき雪が巻き上げられて、視界を真白に染める。冒険者達は己の方向を見失ったが、それも、視界が晴れるまでの一瞬だけのことだった。
 しかし、その一瞬で、人影は幻のように姿を消している。我が目を疑うも、もうそこには何もない。
 一体あれは何者だったのだろうか。
 やはり人間とは思えなかった。そんな思いは、人影がいたであろう場所に歩を進めた時に、確信と化した。
 足跡が、わずかな痕も存在しなかったのである。
 第三階層は、常に小雪がちらつく環境だが、かといって、冒険者達が今いる場所に来るまでに足跡が完全に埋もれる程には降っていない。先程吹いた風に巻き上げられた雪で埋もれた可能性もなくはないが、周囲に、自分達が人影を見る少し前にいたらしい、魔物の足跡が、多少なりとも残っていることを考えれば、人間の足跡が完全に埋もれたとは考えにくい。
 つまり、人影は、浮いていたわけでもないならば、体重がないとしか考えられない。そして、体重のない生物など存在しないのである。
「実は、例の『翼持つもの』だったりしてな」
 というのはアベイの推論である。確かに、地に足を付けずにいられる、という点では、条件に合っている。しかし、彼らは生き物なのだ、そうであれば気配くらいは感じ取れるだろう。そもそも、人影に翼らしきものはなかった。
「一番簡単な結論は、『化かされた』ってところでしょうかいな」
 曰く、焔華。東方には、狐狸の類が人間に幻を見せるという言い伝えがあるという。狐狸やら妖精やらの仕業かどうかはともかく、自分達が化かされた――幻を見た、と考えるのが、心情的には納得しやすい。
「光の屈折の関係で、別のところにいる誰かの姿を見たのかもしれないですね」
 とは、フィプトの推論だが、見渡す限りでは、人がいるなら樹木の壁の向こう側だ。推論を採用するには、少なくとも『ウルスラグナ』一同が人影を見ていたときに、樹木に遮られないところに誰かがいる必要がある。『ウルスラグナ』が目眩ましを受けた時にどこかに隠れたにしても、その痕跡が残っていなくてはおかしい。
 一番腑に落ちた推論は、
「そこら辺の木が、光の屈折で蜃気楼に映ったのを、見間違えでもしたのだろう」
というナジクのものである。つまらない結論だが、説明は付く。
「なんだよ、『氷王』サマの霊が墓への道を教えに出てきてくれたと思ったのによ」
 エルナクハの悪態は、もちろん冗談であった。しかし、ふとナジクが眉根を寄せて、近場にあった樹木の壁を調べ始めた。やがて、枝を寄せて壁の中に入り込んだレンジャーの青年は、再び現れたときには呆然としていた。
「……道がある。ひょっとしたら、これが『氷王』の墓に続く道かもしれない」
 ――おそらくただの偶然ではあるが、『嘘から出た真』とは、このことを言うのだろうか。
 若干通り抜けにくい木々の間を抜けた先には、細いながら、はっきりとした道がある。いささか曲がりくねっているその道は、少なくとも数十年は誰も踏み込んだことがないように見えた。
 まったく足跡の残っていない雪を踏みしめ、道なりに南西方面へ進むこと一時間弱。
 行き当たった扉は、第三階層のあちこちにあるものと変わりないものだったが、一同は漠然とながら悟っていた。
 この扉の向こうに、『氷王』の墓所へと続く道が確かにあるのだと。

 夜の樹海の恐怖など、これまでに自分達が感じてきた恐怖に比べれば、どうということはない。
 あまり怖がらなくて済むのは、猛者達が護衛として付いてきてくれているためでもあるが、仮に自分一人だったとしても、ドゥアトは樹海を怖れることはなかっただろう。もちろん、恐怖を感じないのと、樹海に対抗できるのとは、別の話だ。本当に一人だったら、今のドゥアトはあっという間に魔物に食い殺されるに違いない。
 それでも、怖いものは樹海などではない。
 彼女達にとって、一番怖いものは、人間だ。
 少し前までは仲間達と談笑しつつ鍛錬を行ってきた彼女だったが、その思い出に意識が至ったとき、目を細めて押し黙った。
「……休憩したいんだけど、いいかしら?」
 共にいた仲間達――アベイ、マルメリ、ティレン、ハディードは、申し出を快く受け入れてくれた。
 適当な場所に敷物ラグを敷き、簡易的な獣避けを連ねた縄を張って、野営地が作られる。ついでだからと携帯食を取り出す仲間達だったが、しかしドゥアトはそうしなかった。
「……ちょっと怖がらせちゃうかもしれないけど、ごめんね」
 そう言い置いて、思考の沼へと沈み込む。南天ナンディーナの瞳は冥府の底に生える柘榴の果肉となり、まとう母性は鬼子母ハーリティーの悲憤と化す。仲間達がその豹変を怖れ、そっと距離を置くことさえ、目に入らず、古い古い神話の冥界の名を持つカースメーカーは、意識を過去に向けていた。

 幼い頃は戦場にいた記憶がある。
 従姉妹達とともに駆り出され、鋼に身を包んだ敵を相手に呪詛を手向けていた。
 彼女達は幼くして絶大な負の力を得た呪術師。しかし、彼女達の一族はその信条により、感情を大事にする。だから戦場を離れたところでは、まだ二桁に遠く満たない歳の少女らしい愛らしさを見せ、味方を和ませ、元気づけた。
 だが、一族の信条は、少女達を傷つけもする。凍らぬように暖め続ける感情に、無慈悲に刃を立てるのは、自分達の呪詛で死んでいく敵の殺意と、それを目の当たりにした味方達の抱く恐怖。それらを甘受してさえ戦場に立つのは、敵を殺さなくては自分達が滅びるからだ。
 事実、里はもうない。敵の刺客の手によって炎の中に消えた。生き残りは、少なくとも自分達が把握している限りでは、自分達三人だけ。
 が、それは過去の話だ。果てが見えなかった戦は、既に終わった。自分達は失った故郷を再建し、同士を再び集め、跡継ぎを得た。だから、かつての悲しみは、「昔はそんなこともあったわねぇ」と振り返れる程度には、自分達の中では昇華されている。
 では、『昇華されている』と言い放ちながら、自分が今まとっている、この負の感情は何だ?
 自問自答が真実を掴み出す。幼い頃の思い出は、あくまでも、負の感情をまとう原因となった記憶によって引きだされたものに過ぎない。
 その記憶。エトリアで出会った一人のガンナーの少年のこと。彼のことを思い出すときに、怒りの雷挺を孕んだ暗雲が心を侵すのを感じる。決して彼自身に向けた怒りではないのだが――。
 ガンナーの少年は、ドゥアトが仇敵として追っている銃士『バルタンデル』の弟子だ。
 少年自身は師の企みを知らなかったらしい。だからドゥアトは少年自身に敵意を向けるつもりはない。ただ、思うのだ。
「あの子は、今頃元気でやっているかしら……」
 少年は憤っていた。師の行動を、自分と自分達が属する組織に対する造反だと。組織に帰還後、背信の報いを受けさせるつもりだ、と語り、エトリアを去った。少年が今なお帰路の途中なのか、すでに師を追って旅立っているのかは、判らない。
 ハイ・ラガードで再会することがあるだろうか。だが、『バルタンデル』が裏切った組織は、ラガードに比較的近い場所にあるという。それを考えれば、好きこのんで近付くとは思えない。ドゥアトにしても、ハイ・ラガードで仇敵を探すのは、あくまでも、『もう一人』を捜すついで。ここでは情報が掴めれば御の字で、本人を見つけられるとは思っていない。
 そこでドゥアトの思考は跳躍する――そういえば、『あの子』はどこにいるのかしらねぇ。
 探している『もう一人』。ハイ・ラガード近辺にいることまでは、はっきりしている。だが、以前『ウルスラグナ』一同に語ったように、見つけてどうするのだろうという気持ちもある。無理に探さず、『彼女』の好きなようにさせてやっておけばいいのではないか、と。とはいえ、遠目に見かける程度でいいから、無事は確認しておきたいと思うのだ。
 そして思考は元の位置に跳躍する。
 思えば、ガンナーの少年は、年齢的に自分の子供のようなものだった。エトリアに少年が来ていた時には、本当の息子のように構ったものだ。そんな子供が、まだ幼い頃から、事情があって、銃を手にして組織に身を投じていたというのだ。その様が昔の自分達と重なったから、自分は過去を想起した。
 自分達の件は過去のことだが、ガンナーの少年のことは現在のことだ。
 ――今回の任務を成功させたら、組織を脱退して自由になれるんです。
 少年は、そう語っていた。それが、今回の件で、ご破算になってしまった。
 正確に言うなら、任務は失敗ではない。少年の役目は『エトリアの長を守る』であって、『エトリアの聖騎士を守る』ではないのだから。だというのに、少年は、新たな戦いに身を投じてしまった。背信への報復なら、少年がしなくてもよさそうなものなのに。
 ようやく手にするはずだった平穏を捨て、少年の戦いは続く。
「……馬鹿よねぇ、望んで縛られるなんて」
 自分達は、可愛がっていた血縁を殺されたのだ。慟哭し、憤怒し、復讐を誓うのも当然だ。望みではある。が、それと同等に、流れる血が、『一族の未来を狩った者を狩り返せ』と叫ぶ。
 が、少年が、『任務』を大義名分とし、憎悪と悲嘆の泥沼に自ら踏み込むことを望んでいるのだとしたら、そんなことはやめろ、と言いたい。けれど、少年は既にドゥアトの声の届かないところにいる。何を告げることもできない。
 せめて、『任務』に徹してくれるなら、まだ救いがあるのだろうけれど……。

「……かあちゃん?」
 囁くような、しかし、はっきりとした、少年の声が、ドゥアトを現在に振り戻す。
 我に返って、声のした方を見ると、そこには、一人の少年の姿がある。
 ガンナーの少年と同じくらいの年頃の――だが、明らかに別人の容貌だ。その顔を見て、ドゥアトは、自分が今どういう状況にあるか、はっきりと思い出した。
「だいじょうぶ? ぐあい悪い?」
 赤い髪の少年――ティレンは、ドゥアトの足下に四肢をついた体勢から、心配げに見上げてきていた。その隣では、ドゥアトの『姉弟弟子』でもあるハディードが、やや尻尾を巻いた様相ながら、少年と同じようにカースメーカーの女を見つめている。
 離れているところに視線を移すと、他の二人も、若干の怯えの色を見せながらも、やはり心配そうにドゥアトを注視していた。
「……あー……ホント、ごめんなさいね」
 ドゥアトは目を閉ざし、ふう、と一息ついた。目が再び開かれると、現れた瞳は魔を払う南天ナンディーナの輝きを取り戻し、恐ろしき鬼子母ハーリティーの悲憤は鳴りをひそめる。
「ちょっと、迷宮を歩いてるうちに、変なこと思い出しちゃってねー」
 苦笑気味に微笑むと、仲間達も、ほっとした様子を見せた。
 まったくなってない、とドゥアトは自身を制する。仮にもいい年の子を育てる程にまでなった身だというのに、感情の抑制くらいできないとは何事だ。これではパラスに顔向けできようもない。一族の信条は『感情を大事にする』だが、それは無造作に感情を発散してよいという意味ではないのである。
 とにかく、『バルタンデル』のことはしばらく心の湖の底に沈めておこう、と彼女は決めたのであった。どうせ『エスバット』のガンナーに会うまでは、有用な情報はないのだ。苛立ったところで、何の益もない。だったら、それまでは一族の信条のよい部分を生かそうと――つまりは、期せずして行うことになった樹海探索を楽しむことにしよう、と思ったのだ。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-32
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