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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・30

 ハディードは、文字通り夢から覚めた様相で、呆然と首輪を見つめていた。
 彼はあくまでもただの獣だから、『残留思念』だとかいうあたりの、人間が不可思議な事象を説明する概念は知らない。彼にできたのは、自分の知らない記憶が頭に流れ込んできたという事実の理解と、それがどうやら首輪の主のものらしいという推測だけであった。首輪には、素材の革の匂いと、染みついた血の臭いの他に、記憶を追う中で嗅いだ気がした、『自分』の匂いが混ざっていたのだ。それらの匂いの中に、ハディードは、記憶の中で見た無念と、記憶の中では知ることができなかった願いを嗅ぎ取った。

 ――友を護れなかった私の代わりに、お前の友を護れ。
 ――樹海の先を見られなかった私達の代わりに、天を目指せ。

 樹海はあらゆる生命を育み、しかし、あらゆる生命を飲み込んでいく。自らを強靱だと信じていた、いや、信じたがった、樹海に挑む全ての者を。
 どれだけ鍛錬を重ね、最善を期したとしても、それ以上の災厄が容易に現れる。否、期したつもりの最善が最善でなかっただけかもしれない。単純に運が悪かっただけかもしれない。理由は様々に考えられるだろうが、ともかくも、樹海から生還できる者でさえ、運と実力が織りなす細く脆い『橋』を渡っている。その『橋』は、いつ崩壊しても不思議ではない。そして――首輪の元の持ち主と、その相棒は、己の運と実力で編み上げた『橋』の崩壊に巻き込まれたのだ。
 ハディードを養ってくれた『ウルスラグナ』も、いつか『橋』の崩壊に為す術なく巻き込まれる日が来るかもしれない。
 それは、少なくとも今までのハディードには、関わりのないことだった。
 けれど、今のハディードは、その事実に焦燥を感じていた。
 ハディードにとって『ウルスラグナ』は、今や家族であった。実の父母を殺し、自分をも殺そうとした相手ではあったが、それが不幸な行き違いだったことは理解していたし、赤子だった自分をここまで育ててくれたのは、この『群』なのだ。成長した自分が為すべきことは、自分が属する『群』の崩壊を防ぐことだ。そのために自分ができることがあるなら、するべきだろう。そして、『ウルスラグナ』が崩壊しなければ、彼らと共にある自分は、首輪の主の代わりに、天に達することができるかもしれない。
 そんなことを考えていると、建物に灯っていた明かりのほとんどが消え、やがて、ひとつだけ、建物の上方に、ぽっと灯った。かすかに流れてくる匂いから判断するに、『ウルスラグナ』の全員が集まっているらしい。
 何の話をしているのかは、仮に声がはっきり聞こえたとしても、ハディードには判断できなかっただろう。
 だが、獣の子は、今が自分の思いを主張する時だと感じた。
 首輪をくわえて犬小屋を出る。明かりを目指して進み、その下に座り込んだ。一度、首輪を口から離し、わん、と吠えた。自分がここにいる、自分も『ウルスラグナ』の一員なのだ、と主張するために。

 もっとも、そんな彼の思いは、
「ハディード、おまえはねる」
「遊びたきゃ明日の朝だ。メシ食う前にひと運動すっか?」
という言葉で、その夜には一蹴されてしまったわけだが。
 こればかりは、互いに言葉が通じない異種だから仕方がない。心で通じ合え、といっても限度があるだろう。

 そのような事情から、『ウルスラグナ』一同がハディードの思いを把握したのは、翌朝のことであった。
 昨晩の約束を果たすべく、鍛錬を兼ねた遊びにハディードを誘ったエルナクハは、獣の子が喜び勇んで駆け寄ってきたときにくわえてきたものを目の当たりにして、驚くより他になかった。
「……おいおい、オマエそれどこから持ってきたよ」
 なにしろ、それ――『ベオウルフ』のクロガネの首輪は、応接室の棚の奥に大事にしまってあったものなのだ。それが今ハディードの手元(口元か)にあるということは、誰かが持ち出して獣の子に与えたか、ハディード自身が私塾に入り込んで勝手に持ち出したということだ。前者の行為に及ぶ者には思い当たらない。とすれば後者の目算が高い。いつ入り込んだのか。
 勝手に私塾内に入り込まないように躾たのを無視したのだから、叱るべきなのだろうが、エルナクハはそうする気にはなれなかった。
 獣の躾は『現行犯』で叱らないと効果がない、というのも、もちろんある。
 だが、それ以上の理由がある。
 これまでのハディードは、いくら賢いといっても、ただの獣の一線を越えることはなかった。それが今、冒険者達を見据える黄金の瞳の中にには、ただの獣とは一線を画した、智慧の光が見て取れた。人間程に、とはいかずとも、理知的な判断を下し得る存在である、と確信できるような。
 その瞳の輝きを持つ獣を、エルナクハは知っていた――首輪の元の主、クロガネだ。
 黒肌の聖騎士は、呆然と立ちすくんだ。大地の女神が見えざる手で身体を引くのに抗わず、膝を付いて、ハディードと同じ目線を確保する。伸ばした両掌は獣の頬を包み、緑の瞳が黄金の深淵を覗き込んだ。傲慢不羈たる普段の態度が嘘であるかのような、か細くかすれた声が発せられた。
「……オマエは、還ってきたのか。クロガネ」
 もちろん、言葉とは裏腹に、そんなことはありえないと判っている。大地母神の神官(代理)として輪廻転生を否定しないとしても、ハディードはクロガネが死ぬより前に生まれているのだ。憑依? 少なくとも『ありえない』とは証明『されていない』。が、己の信仰によって判断するなら、本来、生者の魂は死者の魂より遙かに強く、簡単に身体を明け渡すようなものではない。
 ハディードはクロガネの死霊たましいに乗っ取られたのではない。クロガネの意志たましいを引き継いだのだ。
 クロガネを知るはずがないハディードが、どうやって意志を継いだのかは、判らない。人間なら、例えば残留思念――いわゆる『幽霊』から意志を引き継いだとか、そういう例も考えられるだろう。エルナクハ自身はそんなものに出会ったことはないが、憑依同様に『ありえない』という証明は為されていないのだ。
 しかし、獣にそういう概念が存在するのだろうか。こればかりは、永遠に理解できないことだろう。
 だから、エルナクハは目の前の事実だけを事実として受け取ることにした。
 獣の子は――否、もう『子』とは呼べない、立派に成長した青灰色の獣は、『ベオウルフ』のクロガネがそうであったように、探索者の意志を持ったのだ、と。
 この目を持った者を中途で止められるものは、死神の手のみだろう。
「だがなぁ……」
 そこで現実に立ち返り、エルナクハは後頭部を掻きむしった。
 世界樹の迷宮を故郷とするハディードだが、まだ自分で身を守れないうちから森を出てしまった彼が、迷宮の脅威に立ち向かうのは、すぐには無理な話だろう。獣の本能がある程度の強さを保証するにしても、それを過信するわけにもいかない。生命はひとつなのだ。強敵との戦いを経験すれば、脅威に慣れるのも早いだろうが、たとえば探索の最先を行く昼組に組み込んだとしても、現状では面子がハディードを守るので手一杯になってしまう。
 どうしたものか、と考える時間は、ごく短かった。
 『ウルスラグナ』には、冒険者としてはハディードとほぼ同じ条件下にある者がいるのだ。
 その者、熟れた南天ナンディーナの実を映し出したような色の瞳を持つ呪術師、ナギ・クード・ドゥアトは、食事当番が朝食を完成させる間に洗濯物を片付けようとしたのか、布物を大量に積み上げたタライを抱えて中庭に出てきたところであった。
「そろそろ、朝早くから洗濯するのは辛くなるわねぇ」
 と、ぼやきながら天を仰ぐ視線の先には、朝焼けの残滓が広がっている。
 思えば日の出が遅くなった。今年の秋分の日は天牛ノ月二十五日に訪れ、その日を境に、昼の時間は夜の時間に侵食されていた。つまりは、日の出が遅くなり、日の入りが早まっているのだ。
 ただでさえ冬に向けて寒くなっていく昨今、太陽の恵みの届かぬ早朝に水仕事をするのは辛いことだろう。
「中の水場でやりゃいいじゃんか。さもなきゃ昼に、とか」
 エルナクハはあっけらかんと応じた。家事は女(に限らないが)を苦行に縛り付ける手段ではないのだ。少しでも楽ができるなら、質が疎かにならない範囲で楽をすればよかろう。
「まぁ、そうなんだけどね」
 そう答えながら肩を竦めたところで、ドゥアトはハディードの様子に気が付いたようだった。すたすたと近寄ってきて、しゃがみ込み、黄金の瞳を覗き込んで言うには、
「あらあらあらぁ、ハディードちゃん、なんか違うわねぇ。なんて言うのかしら……んーと、人間に例えるなら、『男前』になったって言うのかしら?」
 そこで言葉を切って、頭ごと目線を下げ、獣の腹部を覗き込む。雄だっただろうか、と心配したらしい。幸いにも立派な雄の印が存在するのに安堵した様子の彼女に、エルナクハは話を持ちかけた。
「コイツも樹海探索に入れてぇと思うんだがよ、いくら樹海生まれでも、いきなり連れて行くのはよくねぇ。アンタもこれから探索者の道を踏み込むんだ、どうせなら、しばらく一緒に行ってやってくれねぇか?」
 五人まで限定の探索班を、素人が二人占めることになるが、第一階層なら、前衛二人と治療役アベイを信じて任せても問題ないだろう。
 ドゥアトはエルナクハには明確な返事をしなかったが、その態度は明らかに『諾』の意を示している。
「姉弟弟子ってことになるのねー。頑張りましょうね、ハディードちゃん」
 と語りかけつつ青灰色の毛皮を撫でるドゥアトに返すように、ハディードも、おん、と吠え返したのであった。

 『ウルスラグナ』は再び鍛錬の時を繰り返す。
 その様は、周囲からすれば、まるで先に進むことを諦めたようにも見えるようだった。今すぐ十五階まで上っても問題ない実力を蓄えていながら、何故十四階で停滞しているのか、と思われているのだろう。「臆病者チキン達みたいに『エスバット』の言い分を信じて縮こまっているのか」と、あからさまに口を開く者達もいた。
 しかし、『ウルスラグナ』を追い越した冒険者達は、次々とハイ・ラガードから姿を消していた。それを知るたびに、『ウルスラグナ』は、迂闊に十五階には上がれない、と肝に銘じたものだった。いなくなった者達は、『エスバット』の言っていた恐ろしいモノに破れたのか。あるいは、『エスバット』自身の手によって――?
 否、今は変な思いこみに気を取られているわけにはいくまい。
 自分達はまだ、第三階層の空を悠然と舞う敵対者F.O.E.『飛来する黒影』すら倒せていないのだ。邪竜はまだ無理としても、黒影くらいは倒す自信を持てなければ、先の脅威に抗うことはできないだろう。
 ところで『ウルスラグナ』が十五階に赴かないことには、納得いく力量を積んでいる他に、もう一つ、迂闊には外部に洩らせない理由があった。
 ハイ・ラガードの七代前の公王の墓所を捜索せよ、という依頼を、大公宮から引き受けたのだ。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-30
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