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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・29

 話はそれより若干の時間を遡る。
 犬小屋でまどろんでいたハディードは、気配を感じて目を覚ましたが、その正体を知ると再び夢の淵へ向かおうとした。気配を発していたのは、夜の樹海に向かった『ウルスラグナ』の冒険者達、すなわち、よく見知っている者達だったからだ。彼らが足早に建物の中に入る足音を子守唄代わりに、獣の子は、再度の眠りに落ちるまでの、ふわふわとした、不安定でいて、しかし心地よい感覚に身を委ねていた。
 しかし、その耳が、別の何かを捉えた。
 見知らぬ侵入者か、と思ったのだが、何かが違う。その『何か』は、確かにハディードの知らぬ何かだったが、敵対するべき者とは思えなかった。
 気を取り直して気配を探ると、何故か、それが自分を呼んでいるように感じた。
 その正体を確かめたく思い、ハディードは小屋を抜け出した。昔は、自分の相手に手慣れた人間がいないと、杭に繋がれていたものだが、最近は、そういった制約も取り払われていた(さすがに『首輪』とやらは付けられているが)。何に遮られることもなく、私塾の建物の入り口に辿り着き、そこで足が止まる。人間と暮らすようになってからの躾が、ハディードを呪縛した。建物に入るのが許されるのは、天候が荒れたときくらいだったからだ。
 けれど、呼び声はさらに強く、ハディードを誘う。
 意を決し、獣の子は、両前足を持ち上げた。人間達が建物の中に入るとき、突起を持ってひねっているのを、ハディードは知っていた。自分もその通りにすれば、扉を開けられるはずだ。
 もちろん、人間達が鍵を掛けていれば、開けられなかった。建物内に誰もいなくなるか、全員が帰ってきて当分出掛ける予定がなければ、鍵を掛けられているものだから。だが今回はうっかり閉め忘れていたのか、多少の困難の末に、突起――ドアノブはひねられる。ノブをひねったまま、後足でよたよたと数歩下がると、扉は静かに開かれた。
 隙間から、身体を滑り込ませる。
 建物の中は、しんと静まり返っているように思えた。緊迫した空気がそこはかとなく漂い、大気を重くしている。いつもの人間達の様子とは違う。そういえば、さっき戻ってきた者達も、普段とは随分と様子が違っていなかったか。否、それは、彼らが探索に出掛けるときからだった気がする。
 何があったのだろう。まさか――ハディードは鼻を上げて、漂う匂いを嗅いだ。全部で十二種、誰かが欠けたというわけではないらしい。とすれば、自分にはよく判らない何かがあったのだろう。少なくとも、危険に直結しているわけではなさそうだった。
 だったら、自分が注意するのは、もう一つの懸念に対してだ。
 声なき呼び声は、階段の上方から流れ降りてくる。
 ハディードにとって、階段の上は、別世界というに等しい。それでも獣の子は、呼び声に答えて足を踏み出した。
 ひたひたと、かすかな足音を立て、石の階段を上っていく。
 未知なる意志に導かれ、辿り着いたのは、ある一室だった。ハディードには判るはずもなかったが、人間達が『応接室』と呼んでいる部屋である。一度誰かが入り、立ち去ったときに、きちんと閉め忘れたのか、わずかに隙間が空いている。ハディードは隙間に鼻面を突っ込み、室内に潜り込んだ。
 室内は暗く、がらんとしていたが、灯に使ったのであろう蜜蝋の匂いと、少し前まで誰かがいたような気配がする。誰だったのかを割り出すのは容易かったが、そんなことをしても意味はないだろう。ハディードは人間の気配は無視し、今まで追ってきた方の気配を探る。この部屋のどこかから感じるのは間違いないのだが、少なくとも見て判る場所にはないようだ。
 ふんふんと鼻を鳴らし、獣の子は室内を探った。
 やがて、追っている気配が濃くわだかまっている場所を見つけた。壁沿いに並んでいる棚のひとつで、天板には、小さな金色の彫像が飾られている。だが、彫像が気配の大元ではない。もう少し下――一番上の棚の奥から、気配を強く感じる。
 一体なんだろう? ハディードは棚に両前足をかける。本来なら触れるべきものではない、と、人間と暮らす上で植え付けられた知識が叫ぶが、とにかく、例の気配の正体を掴まなくてはならない、という思いが上回ったのだった。
 前足の片方を伸ばし、棚の奥に差し込む。懸命に掻く蹠球(にくきゅう)は虚空を捉えるばかりだったが、やがて、硬い感触を探り当てた。本能的に、これが例の気配の正体だ、と悟る。
 掻き出した『それ』は、細長い革と金属の角張った輪でできた、古ぼけたものだった。自分の首に巻き付いているものと、細部は違うが、構造自体は同じである。つまりは『首輪』なのだが、どうもおかしい。『それ』からは、大分薄れてはいたが、確かに血の臭いがしたのだ。
 さて、自分を呼んでいたらしい気配の正体は知れた。だが、何故自分が呼ばれたのかは、さっぱりわからない。気配は『首輪』にまとわりついたまま、一向に、ハディードにその真意を知らしめようとはしなかったからだ。
 ――いや、自分の方に真意を感知できないだけかもしれない。
 ハディードはそう考えた。今いる場所は自分にとって『異界』である。馴染んだ人間の気配がするからまだいいのだが、それでも、全身の神経が、不慮の事態に備えて緊張している。この状態で、『首輪』の発する微弱な意志を感じ取ろうとしても、無理だろう。だから、ハディードは、自分の一番安心できる場所――犬小屋へ、その『首輪』をこっそり持ち去ることにしたのだった。

 ようやく自らの寝室に戻ると、伏せたハディードは、持ってきたものを目の前に置いて見つめた。自らの領域に戻ってきて、落ち着いてみると、首輪について、いまひとつ気が付いたことがある。他にもまとっている匂いがあったのだ。
 全く知らない獣の匂いだ。
 人間ならば、首輪について様々な類推を行えるはずだったが、あいにく、獣であるハディードにはそんな真似は思いもつかない。辛うじて出せた結論は、『自分以外の獣が使っていた』というあたりであった。
 首輪の持ち主がどうして今はいないのか、そこまではわかるはずもない。ただ、ハディードを呼んでいた気配は、未だにはっきりと残っている。
 おまえは何を言いたいんだ?
 人間の言葉にするならそのような意志を込めて、ハディードは首輪に向かって鼻を鳴らす。
 次の瞬間に起きたことは、たとえハディードが人間だったとしても、現実との区別を付けかねただろう。

 いつの間にか、森の中にいた。幼い頃に去って以来、これまで足を再び踏み入れることのなかった、故郷の森だ。感じる緑の匂いも、耳にする獣の声も、当時感じていたものと寸分変わらないものだった。
 そして、自分は一人ではなかった。赤毛の聖騎士と共に歩んでいた。とはいっても、黒い肌を持つ聖騎士ではない、白い肌で、その赤毛も癖を持つものではなく、肩を越えて真っ直ぐに伸びている。ハディードの知る者の中には、彼の姿はない。だというのに、なぜか、とても懐かしい気がした。
 やがて、自分達は、大きな扉を前にした。緊張している。心臓が普段の倍に近い速さで脈打っている。隣の聖騎士が背に手を当ててくれたので、少しは落ち着いたのだが、同時に、聖騎士の心臓もあり得ない速さで脈動しているのを感じた。
 聖騎士が扉に手を当て、静かに押し開けた。
 その瞬間、自分達を死の予感が包み込む。見えざる鉤爪が肉体を掴み、ようやく落ち着いてきた心臓をも握りつぶしにかかってきたような、おぞましい気配。しかし、自分達にとっては、初めての経験ではない。自分達は、ここで、三人の仲間を失ったのだから。
 『ハディード』にとっても、そのおぞましい気配を感じるのは、全く初めてではなかった。自分が森を去ることとなった日から少し遡った頃から、森の気配はおかしかった。吹き抜ける風の中に、今感じている死の予感をごく薄くした気配を嗅ぎ取った覚えがある。その程度の認識で済んだのは、当時のハディードがまだ赤子だったのと、傍にいてくれた両親が守ってくれると信頼していたからだった。
 その気配が、今は自分達の目前にある。獅子の頭、山羊の二つの頭、蛇頭の尾を持つ、有翼の怪物の姿をとって。
 『ハディード』には、敵わないとは言わずとも、あまりに不利と見えた。だが、獣と騎士は、決意と共に怪物の魔宮に踏み込む。以前の戦いでも障害となった、周囲を取り囲む獣王のシモベを認識し、『引き寄せの鈴』で各個撃破を計る。後に『ウルスラグナ』が採ったものと同じ戦略であった。
 しかし、前回より力を付けたとはいえ、二人だけでの緒戦は、彼らの肉体にも大きな負担を掛ける。そして、精神的な高揚は、愚かにも、その重大さから彼らの目を背けさせた。そうと気が付いたときは遅きに失した。疲弊した心身で仇討ちを完遂できる程、キマイラは甘い相手ではなかったのだ!
 友であり主人である聖騎士が倒れ、その血を全身に浴びたとき、獣は、彼の生命が間もなく掻き消えると悟った。傷口を舐め取って癒そうとしても、もはや避けられない運命。遺された獣一人、それも重傷を負った身では、勝利は絶望的だった。それでも、自分は死せる友に殉じ、己の生命が尽きるまで共に戦うつもりでいた――この瞬間に至るまでは。
 死にゆく主人と目が合ったとき、無性に口惜しさがこみ上げてきたのだ。本当は自分達だけでの復讐を望んでいた。他の誰もキマイラの生命に触れさせるつもりはなかった。どちらかが倒れても、残った方は最後まで抗うつもりだった。だというのに、今は、復讐が果たせぬまま潰え、自分達が樹海の土に還ってしまうことが、悔しくなった。たとえ誰かの手を借りてでも、以前失った三人の友と、今失った相棒の、忌まわしき仇を討ち果たしたかった。
 これは、自分だけの考えではない。主人も、同じ思いを抱いている。
 だから獣は、踵を返して跳ねた。戦闘の直前に主人が下ろした荷に鼻を突っ込み、丸めた羊皮紙を引き出した。魔宮までの道程を記した地図――これを、自分と共に仇を討ってくれる者に託そうと考えて。
 そして、全力で走り出した。重傷を負っている身でそのような真似をすれば、傷が開いて大出血を起こしても当然の話だ。身体に灼熱する痛みを感じたような気がしたが、獣は意に介さなかった。扉を抜け、必死にひた走る。どこへ、とは具体的には考えなかった。とにかく、『彼ら』を待てる場所へ。敵性生物に邪魔をされない場所へ。場所の選択を為すは、獣の勘。具体的な思考にまとまらないそれを頼りに、獣は足を動かす。
 そうして辿り着いたのは、袋小路。獣は、気を抜けば倒れかねない自らの身を、四肢を突っ張ることで立たせ続けた。
 満身創痍の身を包むのは、先程まで体験してきた激闘が嘘のような、柔らかな朝の光。その中に、求める相手の匂いを嗅ぎ取り、彼らを呼ぶために声を張り上げる。遠吠えが、樹海にこだまして、静かに消えていった。

 ――それが、首輪のかつての主がハディードに伝えてきた、記憶であった。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-29
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