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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・24

 そして彼らは樹海を一度抜け、改めて第三階層の樹海磁軸から十階に入り直す。
 幸いにも、つい先程も軽く思い出した炎の魔人は、蘇っていないようだった。残骸の残り具合を見ると、蘇ったが他のギルドに倒された、というわけでもないようだ。何にせよ余計な手間が掛からずに済んだ。
 前歴のひとつ、十階北東。
 正直、行きやすい場所ではない。六階からでも、第三階層から入ってきても、入り組んだ道は目的地点付近までの行程を塞ぐ。第一階層の方が格段に行きやすい。それでも敢えて十階に踏み込んだのは、六階での遭遇時に相手が『飛び上がった』からだった。だったら上の階に行ったのだろう、と考えるのは、果たして妥当か浅薄か。
 完成している地図と磁軸計を頼りに道を進む『ウルスラグナ』だったが、程なくして奇妙なことに気が付いた。
「……この地図、変じゃありませんかえ?」
 よくよく見ると、南東方面、やや南より付近の道が描きかけのままだ。行き止まりなのか、その先にある適度な空間まで続いているのか、はっきりとしない。どうして十階を主に探索している時に気が付かなかったのだろう。悪態を吐きたいが矛先が判らない。探索中に地図を書いているのは主にアベイだが、常に、ではないし、探索中のメモから羊皮紙に清書した者が書き忘れたという可能性も高い。そもそも、今さらどうしようもないことである。
「ま、いいか」
 の一言で悪態を引っ込め、エルナクハは考えた。
 地図の続きを描きに行くか、『世界樹の使い』を見つけるのを優先するか。
 結論は程なくして出た。結局、地図は完成させなくてはならないのである。であれば、瑕疵に気が付いた今、仕上げてしまうのが一番楽。幸い、現在地から地図の空白までは遠くはないし、未確定区域いっぱいに迷宮が伸びていたとしても、さほど広くなさそうだ。
 探索班全員が同意して、足を南東に向けた。
 あいにく行き止まりではなく、未確定区域のほとんどを歩くことになったものの、あらかじめ思っていた通り、あまり広くはなかった。一時間程で地図を完成直前まで描き上げる。後ほんの少しを完成させれば、改めて『世界樹の使い』の探索に戻れる――つもりだったのだが。
「やっぱり『使い』を捜す方を優先すればよかった……かな」
 今さらながらに後悔の念が沸いた。日はすっかりと沈んでしまい、迷宮内は、月明かりが若干差し込むとはいえ、闇に覆われていたのである。もちろん、自分達も最低限の光源を携えているが、この暗さでは、『世界樹の使い』に出会えても、どのような姿をしているか、あまり判らないかもしれない。
 が、後悔先に立たず。とりあえずは、あとほんの少しだけの地図を完成させることに意識を向けた。
 もしも、最後の最後で上り階段でも見つかったら、興味は湧くが厄介だ、という思いを抱きつつ探索していくと、行き止まりに突き当たった。終わりが見えてほっとしたと同時に、少しばかり残念な気持ちにもなる。
 ともかく地図は仕上がった。さて戻ろうと思ったその時、冒険者達は行き止まりにあったものに興味を引きつけられた。
 樹木である。樹海迷宮であるからには、そんなものは珍しくない。人間の目線の高さあたりで二股に分かれていたとしてもだ。ただ、その股の間には、種種様々な虫が集っていた。人間達が近付くと、虫達はぱっと散っていき、後には、ほんのりと光る液体が湛えられている。
「何ですか、これは?」
 フィプトが興味を示したのは当然だったかもしれない。液体の正体に見当が付いた、冒険者歴の長い者達にしても、その現象は不思議なものだった。
 液体は、いわゆる『猿酒』といわしむものの類であろう。樹の虚や窪みに木の実や露が溜まり、自然発酵したものである。ただ、光るというのが判らない。
「……飲んでも毒ってわけじゃなさそうだけどな」
 興味が湧いたのか、アベイが簡単な毒性検査をして断じた。
「アルコール度数もそんなに高くないみたいだし、ちょっと飲むくらいなら問題ないと思うんだけど……」
 だが光っている。検査で無問題と判明しても、躊躇する気持ちが起こる。反面、飲んだらどんな味がするのかという好奇心も湧き上がり、心の中でせめぎ合う。
 結局、好奇心が勝った。エルナクハは手酌で液体をすくい取り、それを口に運んだ。
 彼が瞠目するのを仲間達は目の当たりにした。
「うめぇな、コレ。意外と普通の味だ」
 『美味い』と『普通』という感想は矛盾しているようだが、前者は『味がするもの』としての、後者は『口に入れて大丈夫だったか不安だったもの』に対してのものだろう。なんだかギルドマスターを毒味役にしてしまった気分だが、仲間達は安堵して、猿酒のような液体に手を出した。
 どれほど魔物の心配がなくなった樹海だとしても、冒険者であるからには、水分や塩分の備えは万全にしてある。精神的に疲労した時に備えた甘味も持参済みだ。だから、疲労回復という一点から考えれば、いくらアベイが検査してくれるからといっても、怪しいものに手を出す必要もないし、そうしない方がいい。だが、最低限の注意を払うは当然としても、なにもかもに怯えて手出しせずに縮こまっていて、何が冒険者か。仮に、この光る猿酒で、アベイの検査で見つからなかった痛手を被ったとしても、いつかまた果物やらなにやらを見つけた時、彼らの心の中には、『最初から避ける』という選択肢は現れないだろう。
 ともかくも『ウルスラグナ』一行は、ほのかに甘いその液体を堪能した。 強くはないといっても酒は酒、飲み過ぎれば泥酔し、心身が思うように動かないという意味で死を招く。だが、手酌で一、二杯程度なら程よい景気づけになるだろう。
 こうして、猿酒の恩恵で元気を取り戻した『ウルスラグナ』は、改めて、『世界樹の使い』との接触を目指す。
 樹海の真紅は闇に沈んで影と化し、冒険者達が携える光源の中でのみ、本来の色を取り戻す。地図の瑕疵に気付いた地点に戻るまでで三十分、そこから『使い』が現れそうな地点を目指しても、もういないかもしれない。仮に『鳥人間』なら『鳥目』で、夜はどこぞのねぐらに帰ってしまうのではないか、と思った者もいただろう。そう考えてさえ、探索を取りやめることを、ちらりとも考えなかったのは、強い好奇心の他に、猿酒のアルコールで軽い高揚状態にあったからかもしれなかった。
「おーい、出てこいよー『世界樹の使い』よぉ!」
「貢ぎ物があるんだ、あるんだよー」
「早く出てこい『世界樹の使い』、出なきゃ頭をちょんぎりますえー」
 ……高揚しすぎな気もする。自制の賜物か黙したままでいるナジクを除いて、冒険者達はわいのわいのと騒ぎながら樹海を進んだ。少したがが外れているのではあるまいか、と、フィプトなどは、帰宅後、酔いが完全に抜けてから、後悔することになったのだが、それはまた別の話である。
 異変は、樹海北東付近に踏み込んでから、程なくして起きた。
 森の中を進む『ウルスラグナ』一行の耳元で、不意に風がざわめいた。その程度の風は樹海の中でも吹くことがあるので、最初はさほど気にしていなかったのだが、程なくして一陣の風が辺りを震わせる。地面に落ちていた赤い木の葉が巻き上がり、冒険者達を打った。
 思わず目を閉ざし、小規模の嵐と言ってもいい事象から身を守る。
 やがて、風が静かに止んだことを肌で感じ、冒険者達はそっと目を開けた。
 そして、あるものを目にして絶句することになる。

 灯火の弱い光の中、その不思議な姿は見て取れた。六階で見かけたものと同じように、背には荷物、穿いているのは膝丈の膨れたズボン――否、違う。背にあるのは漆黒の猛禽の翼、ズボンに見えたものは、黒い毛に覆われた皮膚だ。わずかな装身具以外は何も身につけていない、その肉体は、男性のもの。素裸ということになるのだが、幸い、要所を覆う黒い体毛のおかげで卑猥には見えない。
 膝から下は、見た限りでは一本の毛すら生えていなかった。というより、人間の下肢ではなかった。肉が付いているような太さはなく、鱗のような凹凸を纏っている。足の甲は人間のそれよりも深く三つに分かれ、それぞれの先には大きく鋭い爪が光っている。踵側にも同じような形の指が一本。
 よくよく見れば、腕も、指が五本で人間と同じよう――ただし細長く爪が鋭い――だということを除いて、下肢と同じようであった。
 鳥人間。ティレンの観察眼は伊達ではなかったのだ。
「本物……かよ……」
 あっけに取られる冒険者達の前で、人影は身じろぎもせず佇み、ただ静かに眼差しをこちらに向けている。やがて、少し首をかしげ、何事か小さく呟くと、語りかけてくる。声調からすると、まだ若いようである。寿命の縮尺が人間と同様かは判らないが。
「……見ない顔だが、土の民か。下階でも見かけたな。何故に私を追う?」
 表情と語り口からは、敵対の意志がないことが、ありありと判る。同時に、こちらとの遭遇を疎ましく思っているらしいことも。『取引』は両者同意の上じゃなかったのか、とも思ったが、とりあえず依頼を果たさなくてはなるまい。エルナクハは、見た目よりも遙かに軽い青い鉱石を、ザックから取り出して、鳥人間に差し出した。相手はさらに訝しげな表情をする。
「何故私に風石を差し出す?」
「なんでって……アンタとオレらで、コイツと香木を交換してきただろ。オレらはいつものヤツの代理だ。驚かせたら悪かったな」
「『取引』……?」
 にわかに、翼持つ男は顔を曇らせた。表情に人間と同じ意味合いがあるかどうかは判らないが、何か不都合があるようだ。一体どうしたのか――冒険者達には判断する術もない。思い切って訊いてみようと思ったその時、翼持つ男は、「そうか」とつぶやき、冒険者達に向き直った。
「……差し出されたからには、相応の対価を渡そう」
「お、おう」
 物言いに若干の不穏さを感じつつも、エルナクハは男の促しに応じて、風石を投げ渡した。彼我の距離は手渡しできるほどに狭くはなかったのだが、現在以上に近付けば『取引』がご破算になってしまう、なぜかそんな気がしたのだった。
 風石を確認した翼持つ男は、腰のあたりを探ると――こちらからはよく見えないが、巾着か何かを装着しているのだろう――、その中から取り出した物を、ゆっくりとした動作で投げてよこした。
 受け取ったエルナクハは、それが、ところどころ表皮が破がされた曲がった木の枝で、『呪術院』で見たものと同じ匂いを放っていることを確認した。これを持ち帰れば、依頼は達成したことになる。
 それ以上のことを行う必要はないのだが、ふと、フィプトが翼持つ男に声を掛けた。初めて見る樹海の『先住民』に興味が湧いたのだ。
「あなた方は――」
 と言いかけて、しかし、こういう『未知』に食いつかないはずがない仲間達が黙ったままであることに気が付いたのだろう。フィプトは一旦口を閉ざした。ただ、相手の、続く言葉を待っている様子を見ると、言葉を中途で切るのは失礼だと思い直して、本来口にしたかったこととは別の言葉を紡ぎ出した。
「あの、以前からの取引相手――小生達の雇い主ですが、最近、あなた方に会えずに困っておりました。また、このあたりに参れば、お会いできますかね?」
 その問いを訊いた翼の男は、眉根をひそめた。短く息を吐くと、言葉を続ける。まるで諭すように。
「覚えておけ土の民よ。我らとお前たちは、異なる種だ。本来交わらぬ道を歩んでいる」
 望んでいた返答を得られずに困惑するフィプトに、駄目押しのように強く言葉が投げかけられた。
「――故に、古き土の民に伝えよ。これからは私を求むるな、と」
「待っ――」
 こらえきれず手を伸ばしかけたフィプトと、それを「落ち着けセンセイ!」と止めようとするエルナクハ、そして、男が翼を広げて空気を強く打ったのは、ほぼ同時の出来事であった。
 翼が巻き起こした一陣の風が、木の葉や砂を巻き上げ、冒険者達を打ち据える。痛痒を感じるものではないが、思わず目を閉ざしたその一瞬に、男は姿を掻き消していた。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-24
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