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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・12

 樹海が闇に沈んでいく中、結晶の頭頂に入っていた、六条の星形の亀裂が、次第に大きくなっていく。
 息を呑んで見守る人間達の前で、結晶は、六枚の板に分かれて開き、あまつさえ、くるりと緩いカーブを作った――無論、それは『結晶』がれっきとした植物だからこその現象である。六枚の板は、そのままがくとなり、内包していた、螺旋状に畳まれている花弁を寒冷にさらす。
 そのころには、『外』では太陽がすっかりと沈み、月の光が、世界樹外皮の虚穴を通って、迷宮を照らし始めていた。意外と明るいのは、弱々しい光が、積もった雪に反射しているからだろう。常にはらはらと舞い落ちている細雪も、光に照らされ、きらきらと輝いていた。
 ゆっくりと回る踊り子のスカートのように、畳まれた花弁が開いていった。ほどけた花弁は六方にその肢体を伸ばしていく。
 そして、繊細な切り込みが入った、雪の結晶にたとえられる花が、その姿を顕わにした。
 どういう構造かは判らないが、その花は、白いようで白とは言えない、煙(けぶ)った半透明であった。その上、不思議な艶があり、氷でできたような花と評されるのも納得できる気がする。
 花弁に包まれていた数本のしべが、ひょこり、と伸びたのを最後に、氷の花の開花は終わった。同時に、ふわり、と涼やかな香りが漂う。
 これが、『計画』だった。衛士達が総出で探しても、昼には決して見つけられない、珍しい夜行華・氷の花――おそらく、この樹海以外には存在し得ないであろう花の、艶やかに開くさまを見ること、見せること。同じように夜にしか咲かない『月下美人』という花のことを考え、それと同様に一般の植物よりも開花速度は速いのではないか、と見込んだ甲斐があった。もちろん、一瞬で咲いたわけではないが、開花に掛かった時間はおおよそ二時間。その間、フィプトは獣避けの鈴を途中で換えながら、スケッチを懸命に仕上げ、他の冒険者達は、ただ、秘めやかに行われる樹海の事象に目を奪われていた。もしも、獣避けの鈴を使い忘れ、魔物に背後から近付かれていたとしたら、最後の瞬間まで気付けなかったかもしれないほどに。
 ついにフィプトが音を上げた。
「だめだ! 小生の画力ではとても再現できない!」
 今まで描いてきたものは再現できていたとでもいうのか、と突っ込みたくなる発言ではあったが、それは置いておいて、皆にも心底理解できる心境だった。前時代にあった『カメラ』が羨ましい。時間を切り取って保持し、その間を好きな速さで繰り返すことができる、そんな秘術が存在するなら、手に入れて、花の咲く様を幾度でも繰り返したい、とさえ思った。
「……花が咲くって、すごいよね」
 ようやく言葉を発したのは、ティレンだった。いつもなら『花より団子』の言葉に忠実なように見えるのに、今回も、花を見るというところよりも、樹海に入ることそのものの方に喜びを見いだしていたように見えたのに、蓋を開けてみれば、そんな彼ですら、氷の花の顕現に心を奪われていた。他の者は言わずともがなだ。
「エルにいさんは、私に、これを見せようと思ってくれたんだよね」
 しみじみと、パラスが口を開いた。
 そもそも、この計画は、身内の悲報が連続したことに打ちのめされた彼女を慰めようとして、持ち上がったものだった。その目的は十分に果たせたといえよう。迷宮の中を吹くかすかな風に揺れる、幻想的な花を見つめつつ、カースメーカーの少女は礼の言葉を口にした。
「ありがとう、みんな。エルにいさん達にも、帰ったらお礼言わないとね」
 目論見がうまくいったのと、仲間の役に立ててほっとしたのとで、冒険者達の間には穏やかな気配が満ちあふれた。
 これが、吟遊詩人が謳う『英雄譚』の一端であったなら、このあたりで『ひとまず、めでたし』と締められたことだろう。
 しかし、今冒険者達がいるのは、現実の樹海である。『ウルスラグナ』達は、ぶぶぶ、という不吉な音を聞いた。しかも複数だ。その正体は容易に知れたが、疑問がある。獣避けの鈴は、かすかな風に音を鳴らし、その効果はまだ衰えていないはずだ。だというのに、何故、魔物が近付いてくるのか。いくら効果が完全とはいえないとしても、だ。
「……しまった」
 理由に思い至ったフィプトは、愕然とつぶやき、すぐに気を取り直して仲間達に向けて叫んだ。
「この花も虫媒花なんです! きっとモリヤンマは、この香りに惹かれてきたんですよ!」
 いかに獣避けの鈴とはいえ、繁殖のために虫を引き寄せようとする花の香りと、それを辿ってきた虫の執念には、敵わないらしい。そういえばエトリアでも似たようなことがあったな、と、ティレンとアベイは思い出した。体験したのは自分達ではなくライバルギルドだったが。ある依頼を受けて、樹海に種を植えて花を咲かせたはいいが、香りのために魔物がわさわさ寄ってくるので大変だった、と、『ウルスラグナ』の前で苦笑しながら語ったのは、パラスのはとこではなかったか。
 さておき、花に寄ってきたのなら、放っておけば、蜜を吸うなり花粉団子を作るなりして去るかもしれない。だが、冒険者は、花のどこが薬となるのかを知らない。もしも蜜や花粉が必要なのだとしたら、このモリヤンマの団体さんに根こそぎ持っていかれるわけにはいかないのだ。
 それに、仮に花弁だけでいいとしても、これだけのモリヤンマにたかられたら、ぼろぼろになってしまうかもしれない!

 こうして十二階で『ウルスラグナ』の必死の戦いが始まったが、彼らは、まだ楽だったことだろう。
 同じ頃、十五階で起きていた、ある出来事に比べれば。
 その出来事に遭遇してしまった冒険者ギルドの名を『エスバット』という。黒を基調とした服に身を包んだ巫医アーテリンデと、黄金と黒銀、二丁の銃を携えた銃士ライシュッツの、ただ二人だけのギルドである。そんな彼らが、五人揃えて樹海に潜りながらも迷宮の闇に敗れ去ったライバル達のように、途中で挫折しなかったのは、もとより二人だけだったがゆえに、極力注意を払い、勝てない戦を避け、順調に力を付けていった結果だろう。その点は、三階下で戦いを繰り広げている後輩『ウルスラグナ』と似ているといえたかもしれない。
 そんな彼らが、震えていた。
 寒いからか。否、そんな感覚は、目の前にいるものを見た衝撃に比すれば、ものの数ではない。
 勝ち目のない強敵に出会ってしまったからか。否、確かに目の前にいるものは、恐るべき力の片鱗を、黒いオーラとして漂わせているが、それが震えの理由ではない。
「そんな……そ、んな……」
 アーテリンデが、寒さでも恐れでもない理由で凍えた唇を、わなわなと震わせていた。小動物めいた愛嬌を漂わせる顔は蒼白、滑らかな弧を描いていたはずの柳眉は、しかめられ、見る影もない。
 ライシュッツは無言だった。隣の巫医に比べれば、まだ毅然とした態度に崩れはない。しかし、そんな老銃士も、瞳の奥に怒りの炎を宿していた。目の前のものに向けられたものか、いや、そうではない。『それ』に向けられた時の視線は、非業に斃れた者を見た時に似た深い悲しみを、同時に宿していた。苛烈な炎がむき出しになったのは、彼が遥か高き天を睨み付けた瞬間からだったのだ。
「まさか、伝説が本当だったとは……」
 巫医の少女が雪原に膝を突く。理不尽を前にして震える身体を自ら抱いて、流れ落ちようとする涙を懸命にこらえる。その傍に跪いた銃士が、少女を支えるようにその身に手を回した。
「お嬢様は、天空の城の支配者の伝説を信じておられましたか」
「正直言うとね、半信半疑だったのよ」
 そう答えた少女の顔は、自嘲に近かったかもしれない。
「でもほら、あたしは巫医、呪医者だから。伝説って名が付くものを頭から否定することもできないのよ。太古の術のヒントが、なにかしらの形で隠されているかもしれないから――だけど」
 涙を振り払い、前を見る。その瞳に宿るは憎しみの相か。否、それが向けられるのは目の前ではなく、ライシュッツの怒りと同じ、空の彼方であった。
「こんなことなら、伝説なんか存在しなければよかったのに!」
「やはり、伝説通りのことなのでしょうか……」
「ただの魔物の姿なら、何も気付かずにいられたでしょうね。でも、こんな姿で見つけてしまった。あたしは……」
 一度は押しとどめた涙が、再びあふれた。もっと寒ければよかったのに、とアーテリンデは思う。涙は凍って止まるだろう。そして、自分すら凍って、この辛い思いを感じずに済むだろう。憤る思いゆえに詰まりながらも、それでも吐き出した言葉が、途切れ途切れに、ライシュッツの耳に届いた。
「あたしは……戦えない。戦いたく、ない……」
「しかし、お嬢様――我々が討たずとも、いずれ、他の冒険者が到達するでしょう。その時に、彼らが、攻撃を仕掛けないとは言い切れませぬ。いや、必ず攻撃するでしょう」
 この階の地図は、ほぼ埋まっている。現時点から先の未踏地に、上階へと続く階段があることは間違いない。だが、先へ行く道は、目の前で不気味な笑みを湛えた存在が塞いでいる。倒さなくては先には進めないのだ。
「わかってるわ! それでもよ! だから……あたしたちが守ればいい!」
「正気ですか、お嬢様!?」
 ライシュッツは耳を疑った。
「守るということは、冒険者達に刃を向けるということですぞ! ひいては大公宮の障害となることです。そのような我々を大公宮は許しますまい!」
「不服なら、この場であたしを撃ちなさい、爺や」
 据えた瞳と抑えた声で反駁され、ライシュッツは口をつぐんだ。
 冒険者に刃を向ける――確かに、第二階層で、冒険者達に銃を突きつけたことはある。が、それはあくまでも脅しであり、彼らが脅されても動じないものかどうかを、ライシュッツなりに見極めたかったがための行為だった。しかし、今回、アーテリンデが成そうということは、まったく違う。ことの次第では、ハイ・ラガードという国家を、完全に敵に回す。その時、自分達は犯罪者となるのだ。自分はいい。お嬢様が望むのであれば、冥府魔導に堕ちる覚悟もしよう。だが、お嬢様を、そのような立場に置いていいのか。
 けれど、結局、ライシュッツは折れた。アーテリンデが一度決めたことを簡単に覆すはずがないことを、これまでの付き合いから痛い程わかっているからだ。
「――承知しました、お嬢様。我は、いつでもお嬢様の傍にあると決めたのですから」
「ごめんなさい、爺や」
 跪き、忠誠を誓う騎士のように頭を垂れた銃士に、アーテリンデは、やや柔らかさを取り戻した声をかけた。
「でもね、必ず戦う、ってわけじゃないわ。他の冒険者たちを説得してみるつもりよ。この樹海の危険度から考えれば、本当に空飛ぶ城を見付けたい者たちは、今はそんなに多くないと思うし。富や冒険心を満たしたいだけなら、この階層まででも十分なはずだから」
「それは、ようございます。しかし、それで引き下がらなければ……」
「ええ、その時は、覚悟ね。冒険者、大公宮、ハイ・ラガード――すべてを敵に回しても、あたしは」
 言葉を区切り、アーテリンデは見た。
 自分がすべてに代えて守ろうと決意したものを。
 自分が知っていた頃の面影を留めながらも、形を変えてしまった、大事なものを。

 という悲壮な決意を、三階下で苦戦している『ウルスラグナ』が知るはずもない。
 ようやく、モリヤンマ達を追い払い、肩で息をする彼らだったが、守られた氷の花はといえば、それが当然、とすました貴婦人のように、かすかな風に揺れるだけだった。花の妖精というのは御伽話の中だけの存在だが、それが現実にいて、氷の花に宿っているとしたら、さぞ頭に来る性格をしていることだろう。それでも、彼女を見る者は、その姿ゆえに彼女の傲慢を許すしかないのだ。
 焔華が氷の花をがくからすくい上げる形で手を差し込み、力を入れる。あまり力を入れすぎたら崩れてしまうのではないか、と、焔華自身も、周囲で見ている者達も、心配した――が、蕾の時の硬さが嘘のように、花は無事にぽろりと取れた。
「まあ、とにかく、花は守り切れましたね」
 フィプトが安堵の息を吐く。彼ら『ウルスラグナ』は、さながら貴婦人を守りきった警護兵のようだった。任務を完遂したという誇りと喜びに満たされ、満足しきっていた。しかし、貴人の警護が、ひとつの危険を乗り越えた後でも続くのと同様、彼らにもまだしなくてはならないことがあるのだ。そうと思い出したのは、ティレンがぽつりと口にした言葉ゆえであった。
「あと、みっつ」
「あ」
 思い出した。要求されている花の数は四つ。いくつか見つけた群生地のどこでも、咲きそうな蕾があったというから、もう咲いているかもしれないが、同時に今のようにモリヤンマの訪問を受けているかもしれない。なんというか、『四姉妹を夜這いしてくる不届き者から守るように言いつかっているのに、長女だけ守りきって安堵していた』ような気分になってしまった(そういう手のたとえに疎いティレンを除いてだが)。
 さて、どうするか。必要なものが花弁であればいいのだが。そして、使い物にならないほどにぼろぼろになっていなければいいのだが。
 結果としては、少なくとも見た目は損なわれていない花を各地で見つけることができて、ひとまずほっとしたのである。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-12
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