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ハイ・ラガード世界樹冒険譚
苦難を越えるものウルスラグナ


第三階層『六花氷樹海』――もう人間じゃない[前]・10

 犬は喜び庭駆け回り、という古い歌があった気がする。
 アベイに問うたら、「ああ、前時代からあったあった」と懐かしそうな表情で同意が返ってきた。
 動物にたとえたら間違いなく子犬だ、と思えるティレンは、一面真っ白の光景に、歓喜の声を上げて駆け回っていた。いくら世間知らずな所があるとはいえ、雪ぐらいは見たことはあるはずだが、それでも彼にとって銀世界は『珍しいもの』の部類に入るのだろう。
 パラスも『犬』の部類に入るらしく、駆け回りこそしていないが、その目が好奇心に輝いているのを、焔華は確かに見た。
 フィプトは、と思って視線を移すと、予想に反して彼は何の感慨も浮かべていない。あやや、と思って訊いてみると、
「いや、毎年、嫌になるほど体験してますからねぇ、雪は」
 おお寒、とつぶやきながら、防寒具をかき抱く錬金術師。
 猫だ、と焔華は思った。コタツで丸くなる類の猫だ。そういえばハイ・ラガードにコタツはあるのだろうか。ないのだったら、あの至福を教えてあげなくてはなるまい。
「ああでも、雪以外のモノは十分に興味深いです」
 せっかく第三階層に入ったのに、と思われていると感じたのか、フィプトは前言を慌てて打ち消すかのような早口で言葉を続けた。
「もちろん、これから拝見する氷の花もですよ。でも寒すぎて、スケッチが上手くいくか、不安です」
 フィプトはこれまでも、漉紙のメモ帳に様々なメモを取っていたものだが、なんとも勉強熱心なことに、この凍える階層でも方針を変えるつもりはないようであった。ついでにいうと、フィプトのスケッチ能力は……要所は掴めている、とだけは言えるだろう。
「カメラ……は、ないもんなぁ、今の世の中」
「カメラ、ですか?」
「うん、目の前の風景をそのまま写し取れるカラクリだ」
「ほんとにそっくりだよ、せんせい」と、いつの間に戻ってきたのか、ティレンが割り込んだ。「おれ達、シンジュクで見たもん。アベイ兄の子供の頃の写真とか、鳥とか花とか」
「ああ、そんなのが今もあったら、便利だったでしょうねぇ」
 心底羨ましそうにフィプトは溜息を吐いた。未練が白い息に混ざって迷宮に散っていった。
 ともかく、磁軸の柱の傍で立ちすくんでいても始まらない。一行は氷湖を目指して踏み出した。
 獣避けの鈴を鳴らしているおかげで、恐ろしい魔物はほとんど寄ってこない。偶発的に出会うことがあっても、容易に相手取ることができた。それはこれまでにも鍛練を重ねてきた賜物である。数日ほど樹海から遠ざかっていたパラスも、最初のうちこそ少しぎこちなかったが、程なくいつもの調子を取り戻し、呪鈴を鳴らして魔物の力を削ぎに掛かっていた。
 やがて十二階に上ったとき――焔華は後悔した。
「フィプト殿を連れてくるんじゃなかったですわいや……」
 誤解されそうな言葉なので補足するが、フィプト自身を疎んじて放った言葉ではない。
 ご存じの通り、十二階ではソリを使って移動することになる。その際の動力源は『人力』だ。ところが、ソリに慣性を与える者達は、ソリが氷上に差し掛かったのと同時に飛び乗れなければ、置いてきぼりになる――フィプトやパラスは、それに自信がないというのである。アベイもそうだから、ソリに力を与えられるのは焔華とティレンだけということになる。
 案の定、ソリの速度は緩慢で、途中で止まってしまいそうに危うかった。
「……要は、推進力が生み出せればいいわけですよね?」
 状況を見つつ、フィプトはそう呟いて、錬金籠手アタノールを調整する。やがて、ソリの後部に移動し、ロープで自分をソリに固定した。さらにはティレンに自分をしっかり押さえる様に頼んだ後、掌を後方にかざす。
 掌にある噴出口から勢いよく吹き出してきたのは、豪炎であった。
「あわわっ!」
 ティレンが悲鳴を上げたが、辛うじてフィプトを離すことはなかった。
 豪炎が噴出した時間はごく短いものだったが、その力はフィプトを――そしてフィプトと繋がっているソリを、前方に勢いよく押し出すには十分な力を発揮した。四人がかりで押し出したときよりも速く、ソリは氷上を滑る。
「もっと弱くてもよかったですかねー?」
 ものすごい勢いで流れていく景色に眩暈を感じながら、フィプトは引きつった生笑いを浮かべた。パラスが青ざめながらも苦言を呈する。
「できれば次回は二割減くらいで頼みたいなあ!」
「錬金籠手での炎の術式の制御は苦手なんですよ……」
「助けてくれノル姉ー!」
 炎の術式を得意としたアルケミストにアベイが助けを求めるが、本人はこの場にいない。
 そうこうしているうちに、ソリは無事に対岸へと行き着いた――否、『無事に』と言っていいものなのだろうか。勢いづいたソリは対岸にぶつかった途端に大きくひっくり返り、乗っていた全員を雪原に投げ出してしまったのであった。

 ひどい目に遭ったものだが、次にソリを使うときは、最初ほどひどいことにはならなかった。
「……錬金籠手を改造して、ソリ専用の推進装置を作れたら、便利かもしれませんね」
「その開発はノル姉に任せてくれ。頼む。頼むからフィー兄は関わらないでくれ……!」
 げんなりとしたアベイが土下座する勢いで頼み込んだ。
 もっとも、実際に作るにしても、たぶん相応の時間が掛かると思われる。できあがった頃には、『ウルスラグナ』もきっと氷雪の階層を抜け出してしまっているだろう。ただ、迷宮であろうとなかろうと、いちいち人力(や馬や犬)で動かす必要のないソリがあれば便利だ。いずれは誰かが研究することになるかもしれない――それがフィプトかどうかは別として。
 氷湖のほとりで野営している衛士達と交渉し、氷上へ繰り出す時間をもらった。ただし、今回は、昼の間にソリを走らせるのは、たぶん一度だけ、それ以降に滑るのは衛士達が休む夜間になるので、大きな調整は必要なかった。
 探索をしていた衛士達が戻ってくるのと入れ替わりに、『ウルスラグナ』は氷上へ進み出た。
 最大の目的である、氷の花のある場所へは、さほどの時間も掛からなかっただろうが。
「で、ホノカさん。気になる獣道というのは?」
「あっちですし」
 氷の花のあるエリアを閉ざす扉を右手に見る三叉路で、フィプトに問われた焔華は、左手を指した。
 指差された先に遠く見えるのは、紫色の塊。近づかなくても、話を聞いていた皆には判る。強力な敵、多頭竜である。
「たぶん、あやつの縄張りに入ることはないと思いますえ」
 とは言いながらも、一行は念のために神経を張り詰めながら、ゆっくりと邪竜に近付く。
 魔物は、目を覚まさない。
 昼の間なら、縄張りに一歩踏み込んでもすぐには襲われないようだが、それでも緊張感はいや増していく。
 あと一歩踏み込んだらまずいのではないか。皆がそう思った、そのときであった。
「こっちですし!」
 抑えた声で焔華が皆を促した。
 邪竜を正面に見て右手に連なる、雪を纏った木々。その合間に、確かに道といえばそう見えなくもない、細い空間が奥へと続いている。ただ、獣道というにも頼りなく、通れるように見えるのはただの偶然で、途中で行き詰まるのではないかという心配も抱かせる。
 それでも、せっかく見付けたのだから、という理由で、冒険者達は草木を掻き分けて細い道を進んだ。
 邪魔な草木の多さに違和感を覚えなくもなかったが、異常というほどでもなかったので、気にせず先に進む。ナジクがこの場にいたら、「何者かが道を隠すために草木を寄せたのだろう」と看破したに違いない。
 その理由が、道の先にあった。
「……まって」
 ティレンが立ち止まり、その腕が道を塞ぐのに従って、他の皆も足を止めた。
 そのあたりから、先が獣道であることが納得できるような道となっていた。それは、この場にいる者達には判断できなかったが、道を隠そうとして草木が寄せられていることがなくなったということでもある。
 その代わり、冒険者達の足下、地面すれすれを、ばらばらの間隔を空けて、五本の紐が横切っている。
 ごく初歩的な罠だ。獣がこの道を通ろうとして紐に触れれば、何かしらの罠が発動するはずだ。
 第二階層で、マルメリが罠に掛かってしまったことを思い出す。あの時の罠は、殺傷力はさほどではなかったが、それでもマルメリの足は赤く腫れ上がった。今回の罠が、たとえば毒矢を放つ類だったりしたら、自分達が無事でいられる保証はない。
 紐の間をまたいで避けようにも、絶妙に避けにくい間隔である。
 ならば、と、罠を仕掛けた者には悪いが、解除しようと試みる。
 この手の罠は、正確に言えば一本は罠ではない。その一本は、切ることで他の罠すべてを解除する役割があるのだ。罠を回収するときに手早く行うためのものである。もちろん、地面にある紐を直接切るわけではなく、近くの樹に巻き付けてある、紐の端のどれかを切る。
 だったらそうと判る印が付いていれば、と思うが、そういうものはない。獣には意外と知恵が回るものもいて、それを目安に罠を解いてしまうものもいるのだ。また、罠を掛けた者の中には、「人の罠を解こうとする不届き者は罠に掛かっちまってもよし」という、物騒な考えの輩もいたりする。そういった者は自分以外にわかる目印など付けないだろう。難儀なことである。
 目の前の罠が、どちらの理由で目印が付けられていないのかは、冒険者達の与り知らぬところだ。が、どちらにしても先に進むには、排除しなくてはならない。
「……とにかく、これのどれか一本を切ってしまえば、罠は解除されるんですね?」
「たぶんね。でも……」
 パラスが不安げに白の天蓋を仰いだ。
「もし、間違っちゃったのを切っちゃったら、罠、動くよ。矢とかだったら、ここにも届くかもしれない。危ないよ、フィーにいさん」
「う……」
 そう言われてしまうと、余計にプレッシャーが掛かる。
 間違った紐を切れば、罠が作動する。動物を無力化して捕らえる罠が。生命そのものを破壊することで目的を果たすものかもしれない。それが、自分達に牙を剥く可能性があるのだ。
 チャンスは一度だけ。そのチャンスに――紐を切ろうとする者の手に、自分も含めた皆の生命がかかっている。焦燥ばかりが先立ち、いつまでたっても紐を選ぶことができない。
 ついにフィプトは重圧に敗北した。実験で「一滴多く落とせば爆発するかもしれない」と緊張しながら薬液を混ぜている時のほうが、まだ幾分かマシだと思った。
「これじゃ、すすめない」
 ティレンが焔華を振り向き、朴訥な口調で訴えた。彼自身は罠の解除を試みる気はさらさらないようである。アベイやパラスにしても、自分達の手に負えない危険に手を出す気はないと見える。
 焔華は肩をすくめた。
 するべきことはただひとつ、正しい紐を一本切るだけだ。けれど、失敗の予測が、皆に萎縮を強いている。
「……みんな、離れていてくださんし」
 何をする気だ、と無言で訴える仲間達を、焔華は遠くに下がらせた。万が一の被害から守るために。そして自分は、紐を巻き付けてある樹の前で、しゃがみ込む。否、背を伸ばして膝を折ったその姿は、東方の礼節である『正座』の体に間違いない。その状態で焔華はゆっくりと目を閉ざし、微動だにしなくなった。
 何のつもりだ、と仲間達は訊きたかったのだが、焔華の雰囲気は、余人の口出しを許さない張り詰めたものに変化していたのだった。不用意に動けば、焔華の周囲に漂う空気の流れに両断されてしまう――冷静に考えればありえるはずのない、そんな考えに取り付かれ、誰も、一歩近付くどころか、唇を開くことさえ憚った。
 その状態が、どのくらい続いただろう。体感的には数分はじっとしていたような気がする。
 不意に焔華が動く。その手元で、きらりと白刃が閃いたが早いか、既に彼女は正座から片膝立てた体勢に移り、なぎ払いの終の型を取ったまま停止していた。それはあるいは、東方の剣術で『残心』と呼ばれるものだったかもしれない。見とれかけた仲間達の前で、五本の紐のうち、ただ一本だけが、はらりと切れて解けた。
 どこか近くで、からん、と、何かが落ちた音がした。罠の紐を止めていた木の棒か何かが外れたのだろう。見ると、獣道に張り渡してあった紐は、だらんと緩んで地面を這っていた。これでは罠の体をなさない。
 仲間達が焔華に目を移すと、ブシドーの少女は、すでに刀を鞘に収めていて、誇らしげに、にこりと笑んだ。
「いかがですし?」
「すごいですね、ホノカさん。あの紐が正解と見破れたんですか?」
「うーん、確率としては八割、くらいですわ」
「じゃあ、あと二割の方が当たってしまったら……」
「あの時は、そんなことは考えませんでしたえ」
 恐るべきはブシドーの精神力。己の死を決定づけるかもしれない選択の前にあって、精神が押し潰されることなく、選んだ道を真直に踏み出す。『ブシドーは死を美徳とする』という言葉があるが、その真実は、死の重圧の中にあってさえ凛と起つ精神の強靱さを讃えるものなのだろう。
 東方の剣士の実力を改めて思い知り、納得しつつ、一同は獣道を先に進んだ。

High Lagaard "Verethraghna" 3a-10
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